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一人称どうするか問題(少年〜青年編)

日本語は、本当に一人称が多様な言語だなと思う。
英語のIあるいはmeに対応する「私」を基本として、僕、俺、我、自分、あたし、わい、おいら、わし、あっし、あたい、吾輩、拙者、わらわ、某、うち、当方…

いや、やっぱりめちゃ多いな!
まだまだ探せばありそうだけれど、とりあえず。

その中でも、僕はいま現在、「僕」を基本としながら、ラフな間柄かつ場面では「俺」。とてもかしこまった場では「私」と、三つの一人称を使っている。

かしこまり具合(最大100%)に応じて
俺(0-40)→僕(40-95)→私(95-100)
といった感じか。

いわゆる男子たちは(あんまり性別で一般化して論じたくないけど)この「おれ・ぼく問題」というか、「一人称どうするか問題」というのを常に抱えている気がする。

僕の場合、中学生の頃に一人称でつまづいた経験がある。たぶんあまり類を見ない笑い話なのだけど。

保育園の頃からずっと「僕」を使っていた僕は、小学校時代、学年があがるにつれて周りが段々と「俺」を使う様になっていく中、何となく「俺=かっこつけ」のように思えてしまい、みんなのように「俺」にスムーズに移行することが出来なかった。

かといって弱々しくナヨナヨした印象の「僕」を使うのも段々と恥ずかしくなっており、中学生になる頃には、自分の一人称自体を封印するという大変愚かな状態に陥っていた。

封印。つまり、自分のことを僕とも言わないし、俺とも言わない。
一人称を使わずにごまかしごまかし生活していた。

友達から話が振られようもんなら、自分の顔を指差して(え、自分?)みたいなとぼけた顔で相手を見返す。相手はうなづくので、こちらは「えーと」と話し出す。
意外とうまくいったものである。あとは、家の話であれば「うちの場合は」とか言えるし、「こっち」とかも何かと使える。

こんな状況が確か高校生の半ばくらいまで続いた。
大切な青春時代の脳みそを、なんて無駄な努力で浪費していたのかと、今思えば恐ろしくなるが、当時は毎日違和感を持たれない様にと、割と必死であった。

家での母や弟との会話も、同じようにごまかしていたけれど(ちなみに四つ下の弟は早々に「俺」を使いこなしていてムカついた)この話を数年前母にしたら、「そんなことしてたの?全く気付かなかった(笑)」との反応であったので、なんだかんだごまかしは上手く行っていたようだ。

その後「俺」を解禁できたきっかけが何だったのか、あるいは「僕」を恥ずかしくなく使えるようになったのはいつだったか、今となっては思い出せないけれど、きっと何とかかんとか乗り越えて少しずつ、それこそごまかしごまかし大人になったんだろうな、と思う。

社会人になって、新卒で営業職についた時。
「私」をスマートに使いこなす先輩男性が僕の目にはとてもかっこよく映った。当時も「僕」使いだった僕は、いつか「私」をあんな風に使いこなしたいと思った。

一方で、仕事なのに「俺」を使用する上司はあまり好きになれなかった。なんだろう、この「俺」に対する違和感。部下と上司の関係なので「俺」でも全然問題ないし、当時もちょっとした違和感程度だったかと思うのだけど。

そういえば、「自分」という人もいた。何となく「自分」に関しては悪くはないけど、ちょっと変かなと思った。もしかしたらこれは体育会系の名残かもしれない。と野球選手のインタビューを見て思った。
そして、その文化に僕は全くと言っていいほど触れてこなかったので、「ちょっとした変さ」を感じ取ったのかもしれない。

さておき、そんなこんなを経て、僕の場合の「俺・僕・私」の使い分けは今現在、冒頭に書いた比率に収まっている。

今後の僕が歳をとっていく中で、この三つの一人称にどのような変化が訪れるのか。老年を迎える頃にはひょっとして「わし」が登場するのか。「わし」はどの程度の比率を担っていくのか。
今のところ、謎である…。

対子どもの一人称についても思うところがあったので書こうと思っていたのだけど、とりあえず一旦まとまりのよい段となったのでここで終わりにする。

次回、「一人称どうするか問題(対子ども編)」につづく。

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