見出し画像

川と鷺

マスクから鼻を出して、大きく息を吸い込む。吐き出しながら、奥多摩の地を踏んだ。
胸が膨らんだのは、深呼吸のせいか、期待のせいか。
吐き出した息の温かみをマスクで肌に感じながら、リュックを背負い直した。

JRの車内で取り急ぎ検索して、一旦の目的地としていた食事処は案の定「休」であった。
緊急事態宣言の影響の大きさを改めて実感しながら、致し方ないとはいえ、お腹は空いたまま。腹ペコのわたしは、来た道をとぼとぼと戻ることになった。

時刻はもう二時を過ぎている。一般的なお店のL.O.の時間がせまるなか、周りを見回すが、開いているお店はおろか、そもそもお店自体がほとんど無い。
これでは昼食にありつけないまま夜を迎えるのではないか、と脳裏によぎる。

と。ふと、建物の陰に小さな木の看板が目に入った。
かわいい手書きの文字で『pizza』と書いてある。

よもやと思い、小さな看板が指し示す案内に従い、店を探してみる。気持ちも顔も、ほんの少し上を向く。
店は川沿い、ここからだと橋の横の階段を降りた先にあるようだった。なんだかピザの匂いが、すでにするような気がする。お腹がぐぅーと鳴る。

案内に従って階段を降り、大きな橋の下をくぐると、空気が一変した。
木々の生い茂る空間。わずかな霧。ツンと冷たく鼻を通る空気は、なんだか懐かしい。一年ぶりかな。

しばらく味わっていなかった、自然の中の、この感じ。この状況になって、自粛をして。今日は、久しぶりに全てのタイミングがあったのだ。一泊だけの一人旅をしてみようと思った。

木々に囲まれた坂を降りていくと川の横、崖ともいえる斜面に建った建物が見えてきた。かすかに見える「OPEN」の文字に高鳴りを抑えきれず、足取りは軽やかになった。



さて、そのようにしてありつけたピザはまさに期待通りであった。
わさびのピザと、ゴルゴンゾーラのピザ。無理を承知でハーフandハーフを依頼したら、これが可能であった。大きな窯で焼いたピザは、ほんの一片のチーズすらも逃すまいとの思いで、頬張り尽くした。
満腹感は、いのちの証だ。他者の生命を自らに取り込む。他者の死を、自分の生きていく糧にする。食事とはそういうものだ。
満腹感は、だから幸福なのだ。生きている、と実感できるから。
客がわたし一人しかいない店内で、久しぶりの、この幸福感を噛み締める。

わたしが座っているのは、川を見下ろす形で設置されたカウンター席である。
食事の集中から解放され、視線を川原に移すと、そこには大きな白い鳥がいた。サギだろうか。大きな羽を広げる姿は美しく、悠然である。深呼吸をするように、その躯体を膨らまし、気持ちよさそうに、笑っているようにすら見える。

このサギは、コロナ禍を、どのように感じているのだろう、とふと思った。
人間たちがそれぞれのテリトリーに閉じこもるようになって、その活躍の場を自然とかけ離れた電子空間に移して。
鳥は、生き物は、無数の自然とともに生きるものたちは、もしかしたらこのサギのように、大きな羽を広げて深呼吸をして、「よかった、よかった」と喜んでいるんじゃないだろうか。
人間たちが来なくなってよかったよかった、と。

川は流れている。ごうごうと大きな音を立てて。川の流れはコロナ禍であろうと、なかろうと変わらないように思う。
ウイルスが蔓延しようと、人の動きが多少変わろうと。それらは、大きな自然の前にはちっぽけなもので。川の流れには影響などないのだろう。

いや、川だけじゃないか。
サギは、わたしには笑っているように見えたが、実は何も変わっていないのかもしれない。
人間がいようといまいと、関係ないし、好きに生きてきたんだろう。
今までも、きっと、これからも。生きたいように生きるし、そして、それでいいのかもしれない。

人間も、ウイルスがいようといまいと、生きたいように生きればいい、とまではまだ思わないが、自然の美しさや、大きさや、普遍さを前にして、それらと、人間の矛盾だらけのウイルス対策との折り合いの付け方を考える。

ピザ屋の、たいして大きくもない窓から見える、大きな大きな自然の前に、思考は透き通っていった。

会計時、美味しかったです、と伝えようとしたが、わさびのツンとした残り香に咳き込んでしまい「すみません」とだけ言って、アルコール消毒をして、店を後にした。

それでも、ピザが美味しかったからか、川とサギが美しかったからか、なんだか心は澄んでいるような気がした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?