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根底の差別意識
オリンピックの開会式の作曲担当であるコーネリアスの小山田圭吾氏の過去の障害者への壮絶ないじめ告白記事が話題になっている。
内容(当時の誌面をまとめたブログ記事)を読んだ。正直知らなかった。
それなりにコーネリアスは好きだし、「デザインあ」も面白いな、センスいいな、このセンスを小さい時に感じられる子どもたちは羨ましいな、などと思っていた。
彼の行ってきた障害のある同級生へのいじめ。
知ってしまうと、とてもではないけれど、今後コーネリアスを聴く気にはなれないし、言われているようにパラリンピックを含む五輪の開会式に相応しい人選とは到底思えない。
この、開会式まで一週間というタイミングで、おそらくリハーサルも終わっている段階で、実質的に彼の音楽が使えないとなると、本番はどうなってしまうのだろうか、と想像するだけで白けてしまう。
(※その後、この投稿の時点で、Twitterで謝罪をされており、担当を継続される意向とのこと。)
コロナに関係なく、東京オリンピックはやるべきでないと思っていた。
今年に入ってからの森会長(当時)の女性蔑視発言。佐々木宏氏の渡辺直美起用の不適切演出(オリンピッグ)。
そして、今回の小山田氏の障害者いじめ問題。
いずれも、日本人が根底に持つ、おぞましいまでの差別意識が、あらわになった例だ。
オリンピックという世界的イベントの場でなければ、これらは国内で話題にはなれど、そこまで騒がれることではなかったかもしれない。問題になったとしても、海外、世界に知れ渡ることはなかっただろうと思う。
そう考えると、いわばオリンピックという機会が与えられた事によって、潜在していた日本の膿があからさまになったとも言うことができる。
この膿をいっそ全てさらして、認めて、出し切って、一度まっさらにすることこそ、オリンピックを日本でやるということの、数少ない価値かもしれない。
などと深夜。眠れず、考えているときに、アジカンのゴッチのツイートが目に止まった。
同じ音楽を生業とする、小山田氏の話題についてのつぶやきと思われる。
「オリンピック地獄だな。」とのツイートに続いて以下。
「クソみないな何らかの事物と自分に、本当につながりがないのか、似たような性質がないのか、その問題を包む外壁の一部でも問題の当事者でもないと本当に言い切れるのか、ちゃんと確認して、反省して進みたいです、俺は。それをしないなら、誰だって無敵で、それは心底恐ろしいことだから。」
あー。となった。
僕は言い切れない。
自分は当事者じゃない、と。自信を持って言い切ることが出来ない。
子ども時代に直接的にではないにしても、いじめ的な行動に関わってしまったこともある。見て見ぬ振りもしたこともあった。
そして、あらゆることに対する差別意識が僕の心の根底に、全くないと、それもまた、言い切ることが出来ない。
*
先日、「彼女は頭が悪いから」という姫野カオルコさんの小説を読んだ。
これは2016年に実際に起きた東大生による他大学の女子学生に対する集団暴行事件(強制わいせつ)に着想を得た創作小説だ。
東大生の自意識、無意識化に潜む他者を蔑む心理が、克明に記されている。
見ていて気分のいい描写ではない。
「気持ち悪い」と思いながら、読み進めた。
だが、その気持ち悪さの正体こそが、実は彼らと変わらない、自分の根底にも潜む差別意識であると思う。
東大生たちが他大生に抱く感情、優越感、自信、見下すような気持ち。
それらを、僕はひょっとしたら自分より学歴が低い人、具体的に言えば高卒の人に、同じように抱いてしまっていないだろうか。
学歴だけじゃない。
性別。国籍。民族。職業。年収。障害の有無。美醜。あるいは動物に対して。
ありとあらゆる属性で、自分と他者を比べて図り、比較しては、優越感を抱いたり、逆に劣等感を抱くようなことがないだろうか。
僕の場合、ないようにしているつもりでも、気付かないうちに深層心理で思ってしまっているかもしれないし、言葉の端っこに滲み出てしまい、誰かを傷つけていることがあるかもしれないと思う。
自分より社会的に低い立場にいるものは“いじめ”てもいい。
もちろん、誰も肯定はしないだろうが、その意識は、誰しもが、無意識に、潜在的に持っているのではないだろうか?
だからこそ、弱い立場にいる人を、自分とは違う、と線を引き、「もの」として扱ってしまえる。
そのような人の心の奥底にある綺麗とは言い難い感情を可視化した物語が「彼女は頭が悪いから」であった。
*
小山田氏の障害者に対するいじめ。
そこに拒否感を抱くのは、彼の根底にある差別意識が激烈に強いからだと思う。
だから叩く。
僕も叩く。だめだろ、気持ち悪いよ。と。
だが、相手を自分と切り離して、一方的に叩く僕らもまた、同じように差別意識を持って、別の誰かを傷つけてしまうことがある。
…ない。
本当に?
一度、冷静に立ち止まって考えてみたい。
ひとつひとつ考えて、その上で、差別意識を無くすよう心がけて。
まっさらな気持ちになれてはじめて、ひとりひとりの人間と素直に向き合えるのなかな、と思う。
まだまだ成長途中。
生きるとは、なんと難しいのだろう。
…それにしてもオリンピックは、まったく楽しみではないけれど、あらゆる意味で、学びの機会を与えてくれるなあ、と改めて。
(そうでも思わないとやってられない。)
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