見出し画像

日本語的会話を乗り越える

最近、職場でのトラブルによって気持ちが落ち込んでいた。

ある日の休日、同じ職場にいるホストマザーから別部署とはいえ関わりがあることも関係して朝から職場の人の話をされる。

「〇〇先生にはちゃんとケーキをあげたの?」そうホストマザーから聞かれ、「〇〇先生からはケーキ貰ったよ」と答えた。その先生は、まさに今発生しているトラブルの渦中にいる人でもあるため、答えるのが精一杯で、あまりの落ち込み具合に言葉を発する度に涙が出てしまうほどだ。
しかし、ホストマザーはお構いなしに「なんで?あなたはケーキを持っていったじゃない?なんであげてないの?友達じゃないの?」と畳み掛ける。まさに地雷をグリグリ踏まれている感じで、コロンボ特有のキツイ言い方もあって、完全に責められているように感じてしまう。もう私は涙が止まらなくて、ホストマザーの話を無視して、部屋に籠もる。それでも涙が止まらない。

しかし、そうやって無視するのも良くない。拙いシンハラ語なりに、ちゃんと自分の気持ちを伝えないと、と思い始める。しかし、ちゃんと喋れる自信がなかったからこそ、メッセージで「職場についての話をしないで欲しい」とホストマザーに送った。

しばらく経って落ち着いてきてたこともあり、リビングに行くとホストマザーは「なんでそんなに怒ってるの?」と聞いた。内心、私は何故それを説明しなくてはいけないのか分からなかった。続けてホストマザーは「◯◯先生が良くないのか?」と聞いてくる。だから、それが一番やめて欲しいことなんだって…。と思い号泣しながら「カターカランナ エパー!」(喋らないでよ!)と言って家を出た。まさにドラマ的展開である。

しかし、それからと言うものの、ホストマザーはどこかよそよそしい。いつも出掛ける時は「なんで?」「どこに行くの?」と聞いてくるが、「カターカランナ エパー」と言って以降、私の「いってきます」という言葉に対して、うんうんと相槌するだけだ。

正直、どういうこと?と私も思っていた。しかし、よくよく考えてみると、これは日本語的考え方とシンハラ語的考え方で双方のやり取りがゴチャゴチャになってしまっているからのように感じた。

シンハラ語圏の人は少なくとも、日本語のように相手のお気持ちを汲み取るという考え方もないし、言葉の裏の意味を読み取る考え方もない。だからこそ、ホストマザーはただ何気なく職場の先生達について聞いただけだったのだろう。
しかし、それは私にとって地雷を踏んでしまうことだった。気持ちが落ち込んでいることもあり、私自身もホストマザーの言葉を受け入れるキャパシティがなかったからこそ、ついつい「喋らないでよ!」と言う。
しかし、それはホストマザーにとって、ただ会話してただけなのに、急に「喋らないでよ!」と泣き出されたものだから、そりゃホストマザーとしてはどうしたら良いか分からなくて、よそよそしくなるしかない。

ここまで考えて、やっとそもそもの考え方の違いからコミュニケーションが拗れてしまってることが理解できた。とは言え、これをホストマザーに説明するのは、かなり難しいようにも思う。ていうか、言葉の裏の意味まで考えて会話するってめちゃくちゃ難しくないか?と外国語で説明しようと思った途端に気付く。そもそも説明できるものでもない気がする。

いやはや異文化におけるコミュニケーションとはいとおかし。
しかし、シンハラ語圏の人たちの助かる所は大体が話せば解決してしまうことである。特に日常生活のちょっとしたすれ違いなら、だいたい少し勇気を出して話をすれば、きれいサッパリ元通りになることが多いのだ。
だから私はアンマに後日「喋らないでって言ってごめんね。今は楽しく会話ができるよ」と言った。アンマは「カマックネー(大丈夫)」と返答したが、なんかスッキリしない感じだった。そう、アンマは別のことで私に対して怒っていたのだ。

続きはこちら↓


100円からサポートを受け付けております。こちらの記事が気に入った方は、サポートして頂けると幸いです。よろしくお願いします!