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スリランカ生活開始から半年を振り返る

半年もすれば、スリランカ生活も日常となり、生活も程よく楽しめるようになってくる。その中でも、最近一番感じる変化と半年を振り返ってみようと思う。

度胸が付いた

一番の変化としては、度胸が付いたことだと思う。恐らくメンタル面の強化とも言われるのかもしれないが、私自身「メンタル」という言葉がよく分からないので、ここでは「度胸が付いた」と言うことにする。

例としては
・どうしようもないことで悩むことが少なくなった
・自分がどうしたいかを、一番に考えられるようになった
・嫌なことを言われたら、心の中で反撃するようになった(そのせいでよくホストマザーに「怒らないで」と言われるようにもなった)

これほど自分に度胸が付いた要因としては、生活環境の変化もあると思うが、それ以上に外国語で生活をするようになったからと思う。
というのも、日本にいる時は、私自身が人の発言に対して考えすぎる傾向があった。しかし、自分が使い慣れない外国語で生活すると、そもそも言葉が不自由だからこそ言葉の裏の意味まで考え切れない。さらには日本語ほどハイコンテクストではない言語だからこそ、発言に対してそれ以上もそれ以下の意味もない。(もちろん、嘘やダブルミーンは全然ある)だからこそ、自分でも考えすぎることが無駄なように思えることが増えたから、結果として受け流したり、切り替えるスピードが早くなった。

また、外国にいても日本で育ってきた中で発生している価値観や好みというものは、中々変わらないことも実感した。その為、ホストマザーや同僚や生徒から「(スリランカ的に)これが美しい」と言われても、良いところは拝借しつつ、適当に受け流せるようにもなった。

あとは、自分の部署ではティーの習慣がないが、同じ施設でもティーを飲める部署がどこにあるか分かってきたので、どうしてもティーを飲みたい時や、何となく暇なときはティーの時間に合わせてその部署に行くようになった。自分でも思うが、ちょっとはがめつくなったと思う。

日本語的会話とそうではない会話

朝ごはんを食べる時に「カナワダ?(食べますか?)」と聞かれて、「カマンネッダ?(食べても大丈夫ですか?)」と聞くのは、極めて日本語的会話だと思う。私も日本語ネイティブなので、時々そういう会話を発動してしまうのだが、最近そういうまどろっこしい会話って日本語的会話だよなぁと実感する。

一方で職場の同僚に「昨日、見かけなかったよ」と言われた時、「そうだね、私もSirを見てないもん」と返答することもある。きっとこれは日本でやったら戦が始まってしまう会話だと思うのだが、そうはならないのが面白い。
というのも、日本語にも方言があるように、スリランカでも方言や言葉の使い方は若干違うそうで、特にコロンボは言葉がキツイらしい。確かに、日本語的に考えたら言葉で殴り合っているように思う瞬間や口が悪いなぁと思う瞬間は多々ある。だからこそ以前スリランカに住んでいた知り合いから「田舎とコロンボに住んでいる人では性格が変わる」と言われた時も、妙に納得できた。なんというか、半年たっても外は戦場という感覚は変わらないんだよなぁ。あとは多少オラオラしないと、すぐに舐められる。山の景色を見て、ふと涙を流していた滋賀県民は、今やコロンボで言葉の戦闘民族となっている。

「言語」としての思考の獲得

外国語で生活するようになったからこそ、「言語」としての思考をよく考えるようになったし、それと同時に日本や日本語のこともよく考えるようになった。
修士の時に翻訳された本の一言に対して、あーでもないこーでもないと言っていたら「原文はどういう言葉なんですか?」とよく聞かれることがあった。その時はイマイチ意味を理解していなかったが、今ではその重要性を理解できる。言葉が異なるということは思想や思考が異なるということであり、翻訳された一文字の意味にこだわるのであれば、原文から辿り意味を追求する方がよっぽど理にかなっているからだ。

「いかにして言葉は思考を作るのか」

また、改めてこういう事に気付いたのは、恩師の活動に対して書いたnoteで「母国語で考える、という投稿はハッとした」と言われたことがキッカケだった。

その時、何気なく書いたのだが、確かにスリランカにいて、外国語で生活していたからこそ、生まれた感覚だったのだと思う。それを示すかのように、スリランカにいる日本人と話すときは日本語×シンハラ語のルー大柴的会話になってしまう。例えば「最近の学生はちょっとカンメリーワゲー(退屈そう)なんですよね」とか「ラスネくないですか?(暑くないですか?)」とか、特に形容詞、名詞において、なんとなく日本語では言い表しずらくて、会話がルー大柴みたいになる傾向がある。これもきっとスリランカの思想とか思考が関係しているからこその現象なのだろう。

そう思うと、言葉の殴り合いが多々発生するコロンボ地域では、自分が思っている以上に性格がキツくなっているのかもしれないし、知らないうちに思考が引っ張られていると思う。だからこそ、語彙を増やしたり言い回しを増やすことで言葉を磨くことが大事なのかもしれない。

シンハラ語のリスニング力の向上

周囲の人は声を揃えて、来た時よりかはシンハラ語が上手くなったと言う。しかし、それは3か月ほど前からそのように言われていた為、正直そこからの向上があるかと言うと、分からない。
でも3か月前と比べて、徐々にリスニング力の向上と語彙が増えてきたこともあり、最近はシンハラ語ラジオのオーバーラッピングが少しずつ出来るようになってきた。

ちなみに最近褒められたシンハラ語は生徒に対して言った「ポディババワゲー ピッスカラガンナ エパー」(小さい子どもみたいなバカなことしないで)

ちなみにそんな言葉がすぐに出てきたのは上の動画を前の日の晩にたまたま見ていたからだ。

会話の瞬発力が上がった

赴任当初よりも、狙って言ったジョークの打率が良くなってきた。例えば「来月日本に帰るなら、このミスに着物を買ってきてあげてよ」と言われた時に「それならSirがお金出してくださいよ、着物って高いので」と冗談で返した言葉が大ウケした。
この着物買って来てと言ったSirの第一印象はちょっと嫌な人だった。というのも、日本語的に考えれば失礼な言い方をする人だったからだ。しかし、Sirと会話をするにつれてSirの言う鋭角なジョークを私も鋭角な言葉で返すことが出来るようになった。だからこそ、このSirっておもろいやんって今は思うことが出来る。

今日もSirはサリーを着た私を見て「アダ ラッサナイ(今日はキレイ)」と言った。それに対して私は「毎日ラッサナイじゃないんですか?」と聞く。その場にいたSirの上司は「ああ、もちろん!毎日キレイだよ!」と言う中で、Sirは「サリー着たらラッサナイ」と言った。それに対して私は笑いながら「アパラーデ(何ということだ的な感嘆詞)」と言うことが出来るし、Sirの言葉に対して一々失礼だなと思うこともなく、むしろ楽しみ始めている。

半年いるからこその慣れ

しかし、正直良いことだけではない。半年いて自分自身が慣れてきたと同時に周囲も私がいることに慣れてくる。だから、男子生徒にめちゃくちゃ面倒な絡み方をされたり、ふざけて抱き着くような素振りをされたりもする。流石にそれは酷いと思ったので、自分も「エパー」と言うと同時に、近くにいた先生にも注意してもらい、生徒指導的な先生にも相談し、生徒に対して再度注意をしてもらうことになった。(しかし、肝心の生徒は「やってないよ」と言う。そりゃそうだ、君はおふざけでやっただけだもんね。)

あとは全然違う話だが、単純に色んな事に対しての気力とやる気が出ない。これも慣れてきたからなのか、単純に疲れが出たせいなのか、正直分からない。なんとなく文章を書くのも詩を書くのも筆が進まないし、仕事に至っては超怠惰になっている。そんな感じだからか、今はとりあえず本を読むことで自己肯定感の維持を図っている。

これからの目標

美味しいスパイスカレーを作れるようになりたい
日本人が思うスパイスカレーとスリランカカレーは似て非なるものである。しかし、日本にいた頃は大体同じものだと思っていた。日本のカレーは色んな具材が混ざった一品料理なのに対して、スリランカのカレーは1具材につき一品なので、おかずみたいな感覚である。だからこそ、どっちも作れることが一番良いのだが、そもそもスパイスと仲良くなることが先決のように思えた。だからこそ、まずは日本料理に近いスパイスカレーを作るところから始めて、自分のモチベーションを上げていきたい。そうすれば、スリランカにいる間に豊富なスパイスと仲良くなれると思う…から…!

時制を適切に使って会話する
リスニング力の向上と生活自体の慣れもあり、徐々に使いまわせる文法や言い回しも増えてきた。しかし、依然として時制を適切に使えないことが多い。特にに動詞の時制が正しく言えないことが多いので、きちんと意識して適切な使い方を出来るようになりたい。

アーユルヴェーダを体験しに行く

元々ハーブ園にいたはずの人間なのに、スリランカに来てから未だにアーユルヴェーダを体験していない。たぶん、このままだとアーユルヴェーダを経験しないままスリランカ生活が終わってしまいそうな気がするので、目標として書いておく。

とにかく生活を楽しむ

半年。スリランカに来た直後は半年経てば、スリランカ生活も楽しいものになっているものだと思っていた。しかし、実際は半年経ったからこその事件や色々思うこともあって、楽しめているか?と聞かれれば、正直分からないと思うことが多い。
私はいつになったら「スリランカを愛している」「スリランカが好きだ」と言えるようになるのだろうか?たぶん、言わなきゃいけない必要もないのだと思うけど、たまにはそんなことだって考えてしまう夜もある。

しかし、こんなことを悶々と考えても仕方ないので、好きな紅茶やコーヒーを片手に少しでも生活を楽しみたいものだ。


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