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社会関与は全ての人の欲求である


はじめに

私は海外で生活していることもあり、頭の中の片隅に「言語が思考を形作る」という考えが常に横たわっている。だからこそ、私が詩を書く時には何語で発して何語で考えるのかを最初に考えてから書くようになった。すると、今まで見ていた本や人の言葉が面白く思えてきた。大学時代の恩師である中脇さんもその一人だった。

中脇さんは大阪芸術大学を卒業後、伊丹市で公務員として地域に関わるイベントを企画運営した後、ファシリテーターとして独立。ここ最近は自分のやってることをアートとして見るために京都市立芸術大学の修士課程で彫刻を学んでいた。

そして中脇さんはまたFacebookで自分の活動について投稿した。

釜ヶ崎芸術大学に2週間に一度、お昼ご飯と晩ご飯を作りにきて、一年がたった。

「ふり」の研究として、"働く"を通して(有償、無償問わず)、役割が付与されることで何がおこるか、ということを探るために。
<中略>
色々自分の中で合点がいかない不思議な思考がめぐるのだが、たどり着いた結論というか、仮説としては、人間は極めて社会的な生き物ということ。

自分も「料理人のふり」として、釜芸にかかわり、他者といつもと違う接点を作っているのだけども、そもそも「ふり」には社会にかかわろうとする態度が潜んでいる。

社会関与はすべての人の欲求なんだと。

この最後の言葉である「社会関与は全ての人の欲求である」があまりにも感動して、つい中脇さんに連絡をした。

「すべての人間は芸術家である」問題

中脇さんが修士課程で研究をしていた時、よくヨーゼフ・ボイスの話をすることが多かった。ボイスは「全ての人は芸術家である」という言葉や「社会彫刻」という概念で有名なアーティストだ。

ボイス自身は彫刻だけでなく、音楽、パフォーマンス、映画作品などを制作しながら1970年代頃に「社会彫刻」という概念を提唱している。その言葉の意味にはアーティストと言った限られた人間だけでなく、全ての人が創造性を持っていて、拡張されたアートの中では日常的な様々な行動でさえ芸術活動になるというものだ。
また「すべての人間は芸術家である」というボイスが残した言葉は今日でもアートシーンにおいて議論となる言葉の一つであり、それぐらいにボイスが後世に残した影響は計り知れない。

しかし、この「社会彫刻」にせよ「すべての人間は芸術家である」にせよ、あまりにも解釈の幅が広すぎて結局よく分からなくなってしまうことが多い。「すべての人間は芸術家である」と言うのであれば、道端を歩いているだけでもアートになるのか?みたいな極論に行きつきがちだからだ。

その点において、中脇さんの言う「社会関与は全て人の欲求である」はボイスの「すべての人間は芸術家である」という言葉に対して、社会関与という視点から接続出来ると思った。なぜなら、「すべての人間は芸術家である」という言葉において、芸術とみなされる行為が意識的なのかそうでないのかという前提条件がないまま議論が出発してしまうことが多いからだ。(本来のボイスの概念を考えると、その行為は意識的な行為である)しかし、社会関与という言葉を用いることで、それらの行為は意識的であると認識できるのではないだろうか?

その上、善意やボランティア精神と言ったイメージが「社会関与」に対して先行する中で、それらは「全て人の欲求である」と指摘することで、社会関与という言葉の持つイメージの幅を広げることが出来る。例えば、街のごみ拾いや被災地支援など分かりやすいものだけでなく、パン屋さんが毎日お店でパンを売っていることや、いつも川辺で新聞を読むことや、毎朝ラジオ体操をすることだって社会関与と言えるだろう。だからこそ、日々私たちが欲求を元に行っている行為(ボイスで言う意識的な行為)は社会関与として周囲に影響を与えることが可能なのだ。

ヨーゼフ・ボイスを更新する

きっと私たちはボイスが残した偉大な概念である「社会彫刻」の「彫刻」の部分に振り回されていたのかもしれない。今まで私たちは「彫刻」という言葉において形があるもの、残るものに注目してしまう傾向にあった。しかし、重要なのは形のないものを「形のないもの」として認識することだったのだ。

ボイスが「社会彫刻」を提唱したのは1970年代。世界的にハプニングといったパフォーマンス作品が生まれていた時代ではあったものの、美術界としてはまだまだ形あるものを評価する傾向が強かったのではないだろうか?だからこそ、ボイスは「社会彫刻」という言葉を用いて世の中に提唱したのだろう。

そのように考えると、アートに関わる人の中から「関与」という言葉が出てきたのは形ないものを認識するという概念が出てきてるって証ではないだろうか?昨今、ソーシャリーエンゲージドアートやコレクティブによって形のない、形として残らないアート作品とそれに対する議論や論考も増えている。この状況において「関与」という言葉が出てきたというのは、ある種の必然だと思うし、その言葉によってボイスの時代から続くアートの世界が一歩更新されたような気がする。

「関与」と「関係」と「コレクティブ」と

私が思うに「関与」とは徹底的に評価が自分軸なものだと思う。だからこそ、やるのも自由やめるのも自由で、他者とか他の要素がないからこそ、ある種のストイックさが必要とされる行為でもあると思う。これを踏まえてアートプロジェクト界隈でよく出てくる「関係」と「コレクティブ」といった言葉の違いを整理してみようと思う。

まず最初に「関係」について。
「関係」という言葉が発生する事象になるには誰かと誰かが繋がる必要がある。だから「関係」を重視しているアート作品やプロジェクトにおいて、他者と繋がったことで発生した効果や影響に注目してしまうし、その点において「関係」は、ある種の成果主義的な部分があるように感じる。
だからこそ、成果を求めないようなワークインプログレスやアートプロジェクトにおいて「関係」という言葉を広く使って説明しようとすればするほど、なんとなくモヤっとした結論のまま終わってしまうことが多い。(そもそも結論が出ないことだってあるし、それを盾に結論を棚上げされちゃうことだってある)

次に「コレクティブ」について。
コレクティブ的な動きと社会関与的な動きは、一見同じように思えるが、行為の方向性がかなり異なる。なぜならコレクティブとは、集団によって発生する協働作業から生まれる成果・作品だけでなく、集団のあり方や仕組みそのものを考えるものだ。だから個人主義的な欲求も許容してしまう「関与」とはその時点で一線を画していると私は考える。
さらには他者との協同における新しい価値の創出がコレクティブにおける醍醐味だからこそ、ないものを協同で作ること(例:新しい社会システムを作る、新しい経済システムを作る)がゴールとして設定されやすい。その点、関与は「ないものを作る」のではなく「今ある社会や状況」に対してアプローチする姿勢が強い。だからこそ、コレクティブと関与は一見同じように見えて、全く違うものなのだ。

こうやって考えていくと「関与」は、ただ居るってことさえも役割として許容出来る所があると思える。だから「関係」や「コレクティブ」とも異なる点だと思えるし、その役割に対して成果や影響を重視してないところが「関与」の良いところなのだ。
しかし、評価が自分軸で成果や影響を重視していないからこそ、常に自分で自分のことを納得させる必要がある。そこが関与という行為において一番難しいことなのかもしれない。だからこそ、私は「関与」という中脇さんの言葉に対して修業のようなストイックさを感じるのだろう。

日本語で語ることの重要性

ここまで中脇さんの「社会関与は全て人の欲求である」に対して批評してきたが、最後に一つだけ言いたいことがある。それは日本のソーシャルエンゲージドアート、アートコレクティブ、リレーショナルアート及びアートコミュニティ界隈において、考え方や概念を日本語で語ることの重要性についてだ。

1990年代後半以降、アートの潮流として今も動向が注目されつつある上記の表現手法・形態であるが、現在においても外国の言葉をそのまま日本で使っていることもあり、概念としての思考が若干ストップしている気がする。そもそも、ソーシャルエンゲージドアートやリレーショナルアートは概念としても曖昧なもの、と言ってしまえばそれまでだが、それでも「アートって結局よく分からないもの」の筆頭格として、よく分からないゾーンに棚上げしてされてしまう現状に慣れきっている状態は決して良いとは言えない。
現在進行形で日本各地において「コレクティブ」や「関係」をテーマとしたアートプロジェクトが発生しているが、「コレクティブ」や「関係」とは何たるか?を考えて議論しされた上で企画が進んでいるプロジェクトが全てではない。曖昧な外国語をそれっぽく使って、なし崩し的に企画を進めてしまう場合が散見される。だからこそ、中脇さんの「社会関与」のように、日本語で考えて発言・発信することは、アートが抱えるモヤっとした概念からより一歩表現や議論を進めるためにも、かなり重要なことなのだ。

特にソーシャルエンゲージドアート、アートコレクティブ、リレーショナルアート及びアートコミュニティ関連の領域では語れる言葉が少ないというより、表現の幅が広すぎて考えるポイントさえも有耶無耶になってしまうことが多い。だからこそ中脇さんが自分の活動を通して「社会関与」と言い切ったことに意味があると思うし、そのような活動を通して日本のソーシャルエンゲージドアート、コレクティブ、リレーショナルアートはより深く前に進んでいける気がした。

中脇さんの言う「社会関与は全て人の欲求である」においては、「関係性」でも「コレクティブ」でもない、一人称における社会との関与の仕方を常に探っている。これらはアートコレクティブとは逆を行くような方向性ではあるかもしれない。しかし、一人の人間の中にある役割であったり、それぞれの欲求に着目している「関与」というアプローチはある種、人間の根源的な問いでもあるように思えてならない。

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