にんじん
曇りと晴れの中間のような空と、緑の芝生に視界を二分された河川敷。野球チームを何組か通過してさらに暫く歩いた先に、空気で膨らんだ黄色いスタートゲートが見えてきた。
私の数歩後ろで娘が、おも〜い、と文句を言っている。
はいはい、と言って娘からリュックを受け取ると、軽い。
「いつも背負っているランドセルの方が重いじゃん」
と、今度は私が文句を言う。
軽くなった娘は元気を取り戻して等間隔に設置されたポールをジグザグに走って進んでいく。
私は荷物の詰まった自分のリュックを背負い、右手にシューズと水が入った手提げ、左手に娘のリュックをもって後を追う。娘のさらに少し先には、同じく重いリュックを背負った夫。ポップアップテントとコンビニで買ったオニギリやら水やらお菓子やらが入ったレジ袋も持っている。
子どもが生まれる前は手ぶらでどこへでも行ったものだが、親業を7年もやると、大荷物で動くことも当たり前になった。
それに今日は、風が冷たくて気持ちよかった。最近は夏のように暑い日もあったけど、今日はちょうどよかった。走るにはちょうどいい空気の冷たさだと思った。
黄色いスタートゲートが間近に迫ってくるとその脇の芝生に受付のテントが見えた。
女性のスタッフが2人並んで立っている。
こちらの名前を告げると手元の名簿を確認して書類と景品のエナジードリンクが入った袋を渡してくれる。中にはゼッケンと安全ピンも入っている。
「こちらが計測チップです」
ゼッケンと同じ番号のシールが貼られた計測チップももらう。今回は腕に巻くタイプだった。
夫と娘は先に芝生の奥に進んでテントを広げていた。
「このへんでいい?」
「うん」
固定する前に娘はもう中に入っている。娘の踏んだ部分のテントの底の色が、まだらに濃くかわる。
「朝露で濡れてるね」
「少ししたら移動させる」
夫はクイを緩めに地面に挿す。
私は荷物をテントに置いて、ランニングパーカーを脱ぎ、受付でもらった袋からゼッケンと安全ピンを取り出して胸に付けた。
私たちのテントの手前には、大きなビニールシートが3枚敷いてあり、他のランナーの荷物がまばらに置いてあった。さらにその手前には小さなテントが二つ並んでいて、男性用、女性用とラミネートされた紙が貼られている。更衣室だろう。
「そんなに参加者、多くなさそうだね」
荷物置きの面積をみてなんとなく口にした。
「八木さんだったらショッボって言う」
と夫。思わず笑う。
八木さんとは夫をマラソンに誘った、夫の同僚である。「一緒にフルマラソンに出ましょうよ」という誘いを数年断り続けた夫だが、ついに根負けして去年フルマラソンに出場した。その練習としてハーフマラソンや30キロマラソンの大会に出場する夫を応援しているうちに、何故か私も走るようになっていた。
体育の中ではマラソンが一番好きだった。でもこんなに好きだとは思っていなかった。今日は私がハーフマラソンを走るのである。
「体冷えないようにして」
半袖の私を見て夫が言う。
家からランニングウェアを着てきたので、特に着替えの必要もない私はそのまま草むらを走ってみた。実際に走るコースは舗装されているが、芝生はでこぼこで走りづらい。それでも、まわりにチラホラといるランナーの真似をして、腿を上げてみたり屈伸をしたりした。
じわりとつま先が冷たくなった。
みるとランニングシューズのつま先のメッシュ部分が濃く変わっている。
「朝露で濡れたわ」
「あらー」
「でも朝露だからまだいいや。地面から浸水してきた泥水じゃない」
娘の出産前から履いていたレインブーツが浸水するようになって最近新しいものに買い替えたのである。地面の水が靴底を通り抜けて靴下と足を湿らせていると思うと気持ちが悪かった。それに比べると、今つま先濡らしているのは空気が水に変わっただけの朝露だ。まだマシだと思った。
それ以降はあまり草が茂っていない場所でウォーミングアップをするようにした。
人も増えてきた。
テントに戻ると娘は中で、iPadで遊んでいた。
「濡れないの?」
「濡れてきたら動けって言ってる」
よくみると娘はテントの中で中腰になってウロウロしていた。笑う。
中年の男性スタッフが大きな声でランナーを集めた。
「コース説明をします」
遮るもののない河川敷で、みんなに聞こえるように大きくゆっくり喋る。周りに集まったランナーはほとんどが男性だった。肌の焼け具合、筋肉の締まり具合やウェアでなんとなくキャリアが想像できる。普段から走っているわけではなさそうだな、という人もなんとなくわかる。走る人になり始めている人も。私はこの部類に属する。
「では、10分前になりましたらスタート地点にお集まりください」
テントに戻ると娘がアルフォートを食べていた。
「一個ちょうだい」
スタートまでの時間も先程と同様に体を動かしながら過ごした。
時間になって家族全員でスタート地点に行った。舗装された道でコースとは反対側に少し走ってみる。折り返す。右の股関節に違和感があった。
夫と娘はコース脇の傾斜のある芝生にいた。娘は坂道を駆け上がっている。軽そうだなと思う。
「股関節痛めてる」
夫に言うと
「無理せず」
と返事。
数日前についついスピードを上げすぎてしまったときに痛めたのだと思った。タイヤみたいだなと思う。夫とよく一緒に見ているF1では、「タイヤを労わる走り」という言葉がある。モータースポーツでいえば、パワーユニットと呼ばれるエンジン部分が心肺機能で、タイヤが足腰だ。自動車免許を持っていない私は、ランニングを始める前まで「タイヤを労わる走り」と言われてもあまりピンと来なかった。いや、今ピンときているのも違うかもしれないけど。厳密なところはよく分からないけど、何かを何かに置き換えて考えるのが好きだ。するとリアウィング(モータースポーツの車体に付いている後ろの羽のような部分)が腕かな、と考えを進めていく。
周りが賑やかになってきた。気がつくと、ランニングキャリアの長そうな猛者たちに囲まれていた。そっと後ろの方に移動する。
夫と娘はスタート地点より数メートル先でスマホを構えている。もう撮っているのかもれない。
「30秒前」
先ほどの中年のスタッフが知らせる。腕にGARMIN(ガーミン)というランニングウォッチを付けていた。あの人も走る人なんだな、と思う。と、忘れていた自分のGARMINのスイッチを押す。GPSが作動するまで少し時間がかかるのである。もう一度同じ場所を押すとスタートして、速さや距離を計測してくれる。GPS付きのストップウォッチのようなものである。
「10秒前からカウントします」
GARMINがブルッと震えてGPSが正常に作動したことを知らせる。間に合った。
「10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、スタート!」
人の塊が一斉に動き出す。と同時に至る所でGARMINの作動音がなる。私も忘れずに計測スイッチを押す。
視界の両脇からゾロゾロと人が前に流れていった。川を二手に分けている岩の気分だ。もう少し後ろからスタートすればよかったと思った。まだまだ、速い猛者たちのゾーンにいたようだ。もちろん私も走っているがどんどん追い越されていく。右手に夫と娘が手を振っていた。
「おかあさん、頑張ってー」
笑顔で手を振りかえす。なんと微笑ましい光景をつくってしまったことだろう。
人の流れは次第に落ち着き、追い越されなくなっていく。目の前のオレンジ色のランニングウェアを着た男性が、私からぐんぐん離れていっていた。
私の目標は完走することだった。練習では1キロ6分20秒くらいの速さで20キロ走った。左手首のGARMINを見ると1キロ5分50秒と表示されている。少し早すぎる気がするが、スピードを落とさなくてもいいような気がした。道は平坦で、空気は冷たく、視界がひらけていて気持ちがよかった。股関節の違和感が、走っているうちに消えてくれるといいな、と思った。そのこと以外の調子は良さそうだった。走っていると、体が重い日と、軽い日があるのがわかる。今日は軽い日だ。
前とも後ろとも距離があった。オレンジのランニングウェアの男性は小さく見えたが、いずれ追い越せそうな気がした。
体育の中で強いて言えばマラソンが好きだったのは、単に面倒なルールのない種目だからと言うだけだったけど、今こうやって日々走っていると、走っている最中の感じも心地よくて好きなんだと思う。この走っている感じは一体どういうことなんだろうな、と思う。
私たち家族は車を持たないが、時々レンタカーを借りて遠出する。その時、いつも歩いている道を車の中から見る時、いつもの風景が作り物みたいに見える。車窓から見える風景が、まるでスマホのカメラロールの動画を見ているような、というか車の中の閉ざされた空間だけが別の時空にあるような気がする。それはなんだか寂しいような懐かしいような感じである。
それと似た事が、走っているときの私の中で起こっているのだろうか。風を感じ、日差しを浴び、地面を蹴っているのに、そこに存在していないような気がするのだろうか。移動し続けている肉体と裏腹に、脳内のスピード感は変わらないものだから、視界という窓から世界を覗いているような気が増してしまうのだろうか。
しかし走っていると体の隅々まで意識が巡るような気もするのである。地面を蹴る感覚、右、左と両膝が交互に追いかけっこをしているような感覚、股関節の違和感、腕の振動。
でもそれもやはり体内の事だ。意識が体内に集中して、視界から見える世界が車窓のように遠ざかっていくことは矛盾していないかもしれない。体という車に乗って視界という窓から世界をのぞいているような気分だ。
だから更に言ってしまうと、走っている時の状態は不思議と心地よい孤独感に満たされているのである。これは忙しいビジネスパーソンがスマホもパソコンも海に投げ捨ててしまった時の開放感にも勝るかもしれない。走っている私は、なんの目的も役割も持たない気がする。
いや、ゴールとか、何時間何分で走りたいとか、目的があるじゃないかという人もいるかもしれない。でもよくよく考えてみると違う事がわかると思う。ゴール地点が目的なら別に走らなくとも、交通機関を使って移動すればいい。いやいや、記録を更新したいんだと思っている人だっているだろう。が、それも、他人からしたら何の意味も持たない。私がフルマラソン4時間切ろうが切るまいが、世界は何も変わらない。
最初の短い折り返し地点にくる。ハーフマラソンなので、42.195キロを2で割った21.0975キロを走るわけだが、ぐるりと街中を走っていくわけではなく、直線の河川敷を折り返しながら走る。それで、最初に端数の1.0975キロを消化して、その後2.5キロ地点で折り返し一周5キロを4周するのである。
走るようになったら距離感覚が分かるようになるんじゃないかと思っていたが、それは変わらない。私は時間の感覚も鈍くて、さっきから何分経ったか、とか、1時間でどれくらいのことができるかなどがよくわからない。距離もそれと同じようにわからない。距離や時間を感覚で捉えようとする時、毎回、ふと我にかえったような気がして、それまでの蓄積がどこかに飛んでいってしまう。いや、蓄積もしていないのだろう。海でシュノーケルをつけて夢中になって海底をのぞいていて、ふと気がつくと思っていた以上に沖に流されていた時の気分と似ているかもしれない。ああ、もうこんなに時間が経ったのか、と思うし、ああ、もう1.0975キロを消化したんだな、と実感なく思う。
スタート地点に戻り、また夫と娘に手をふる。ここから次の折り返しまでは長い。視界に流れていく娘はなんだか少し怒っているように見えた。私が端数を消化している間にもう何事かが起こっていたらしい。子どもの感情の浮き沈みはとても激しい。毎日、毎瞬、そんなに感情が揺れ動いていて、疲れないのかな?と思う。夢中で海底をのぞいているのかもしれない。
GARMINを見るとまだ1キロを5分台で走っていた。前回出場した大会では10キロを57分で走った。すると夫がとても驚いていた。思ったよりも速かったらしい。今回ハーフマラソンを2時間切って走ったら夫は驚くだろうか?
ペースは維持できそうだった。私は夫を驚かせたいがために走っているのか。
やはりそうでもない。
漫画を描く事と似ているところがあるかもしれない。
何かを伝えたいという目的だけで進めていくには、漫画は労力がかかりすぎる。やはり漫画を描く事そのものが何かしら自分にとっての慰めのような、癒しのような、あるいは快楽を得るようなことなのだ。それと同じで、夫を驚かせたいだけならもっと簡単な方法がいくらでもあるのだ。
きっとランナーにとってのゴールとか、記録というものは、目的の副産物なんだろう。走っている間、何かから解放されて、癒され、慰められ、快楽を得ている。
と、オレンジのランニングウェアの男性を追い越しながら考えた。
一度抜かれた人を抜き返すのはまごう事なき快感である。男性の足音が背後へ遠ざかっていくのを感じた。
そしてしばらくしてまた、前にも後ろにも距離があいた。先の方に白いランニングウェアの男性が見える。次の目標はあの人だ。
と、雑念が混じると呼吸が乱れる。意識を視界の左右に移すと、タンポポが連なって咲いているのが見えた。その向こうに小さな子どもとその父親らしき男性が遊んでいる。そして少年野球チームのゾーンになる。
先頭のランナーがもう折り返し地点から戻ってきてすごいスピードですれ違っていった。あの人は、どんな事を考えながら走っているんだろうか。
しばらく走っても2位以降の集団が現れなかった。ぶっちぎりの1位ってやつだ。普段なにをやってるんだろう?私は漫画を描いている。
ようやく2位以降の集団が現れた。
そういえば私は集団で走るのはあまり経験した事がない。大体1人になってしまう。後ろの方だからだろう。自分のペースで走れるのは私にとってはいい事だと思った。人が近くにいたりすると、ちょっと呼吸が乱れる。もしかしたらあの1位の人の原動力も「人と一緒に走りたくない」だったりして。
と折り返し地点が迫ってきた。折り返してすぐあとに給水ポイントがあり、そのどちらにもスタッフがいて
「ナイスラン、ナイスラン」
と声をかけている。呼吸が乱れる。
赤いコーンをUターンして給水ポイントにつくと私は一旦とまって水をもらい、その先にあるゴミ箱まで歩きながら飲む。走りながらカップを取り、飲み、そしてゴミ箱に捨てるというのが、なかなかうまくできない。咽せそうでつい歩いてしまう。でも心拍数の上がっているところで咽せるのは絶対嫌なので、これでいいと思っている。
そういえば、フルマラソンなどで大きい大会になると参加人数も多くなるので、給水ポイントが混雑して止まらざるを得なくなるのだそうだ。それを考えても、止まって飲んで良さそうだと思う。
走り出してまた感覚が戻ってくる。走っている時の感覚だ。
前を走っている白いランニングウェアの男性は依然として小さなままだった。この人には追いつけないかもしれないな、と思った。
走っている時間の不思議な心地よさは、走っている最中は本当は感じていないのかもしれない。走る事から解放された瞬間に、脳が快楽物質を出していて、また走りたいと思うような仕組みがあるとしたら、その理由づけを勝手にこじつけているだけかもしれない。今これを書いているとき、もちろん走っていないのだから、本当の本当は走っているとき、苦しいだけかもしれない。自分の脳みそを人はどれくらい信用しているのだろうか。私は気分でどうにでも変わってしまうので、全く信用していない。
でも確かに、記憶している(気がする)のは、走り終わった後、きっと「ああ、もう終わってしまった」と思うだろうと言う事だ。
マラソンにはスタートとゴールがある。始まりと終わり。終わった後に振り返ると、そんなわけないのにどうしても「あっという間」という言葉が浮かぶ。
何事もそうである。妊娠期間もあっという間。出産もあっという間。あっという間に小学生。その娘の最初の一年もこの春あっという間に終わってしまった。4月から2年生だ。きっと卒業式のときにも思って、口にする。
「あっという間だったね」
そしてあっという間に大人になって、あっという間に私の人生も終わるんだろうか。人生を終えた後に振り返って「あっという間だったな」と思える場所や時間があるならいいけど。それは誰も知らない。死ぬ間際に意識があれば、そして死ぬことを認識していれば、少し、思う時間があるかもしれない。
マラソンは、ゴールした後にいくらでも、なんでも言う事ができる。あっという間だった。まだ走れそうだった。思ったよりも楽だった。
でもそれは、走り終わった後の脳内の分泌物質による錯覚かもしれない。だって不思議だ。なぜわざわざ走っているのか。もう二度と走りたくないと思うような走りを、いつか私もするのだろうか。それはどんな走りだろう。もう産まれたくないと思うような人生は。
こんな事を考えながら走っていたとは言えない。わからない。
ただ、何度かGARMINをみてずっと5分台だった。私より後ろを走っている人とすれ違う。折り返す前の人たちだ。前を走っていた人とすれ違った人数よりも少ない。私は真ん中よりやや後ろの方で走っているという事だろう。参加人数が50人くらいだとすると30番台で走っていると思った。どれぐらいの速さで走れば真ん中より前に行けるんだろう。その時考えていることは、どんなことだろうか。
また下位集団とすれ違う。女の子二人組がゆっくりとおしゃべりしながら走っていた。
練習で20キロを走った時はおしゃべりしながら走れる速度を意識した。まずはそうやって距離を伸ばすのだと夫と八木さんに教わった。となると、マラソンでは距離が寿命か。いや、もう考えるのはやめよう。
野球ゾーンを走り、タンポポの原っぱを通りすぎて、スタート地点が近づいてくる。
芝生の斜面になっている左側の道沿いに夫らしき人物が見え、やがて娘の姿も見える。なんとなく現実に戻ってきたような気がする。
「頑張れー」
という抑揚のない夫の声が聞こえる。娘はしゃがんでいる。ずっと同じ場所にいたのだろうか?子どもは坂道さえあれば遊べるからな。機嫌は戻ったのだろうか?そこまではよくわからない。スタート地点でUターンすればまた次の給水ポイントになる。喉が渇いているのかどうかはわからないが、また水を飲もうと思う。
すれ違う時に
「ちょっと速すぎるかも」
と、なぜか言い訳のように夫に声をかけてしまった。夫はひと言。
「無理せず」
スタートした後に置かれたであろう赤いコーンを回って、給水ポイントで
「水ください」
といって紙コップを受け取り、小走りで飲むと盛大に溢した。口の中が甘い。
「あ、これポカリ」
思わず声に出していた。そうしてる間にゴミ箱が近づいて、紙コップを捨てる。
なんとなくいつも水を選んでしまうけど、ポカリでもいいんだろう。が、溢してしまうと厄介だ。ポカリでぬれた左手がベタベタする。なぜか言わなくてもいい事を夫に伝えて、うっかり歩かずに紙コップをもらってしまって、水だと思ったらポカリで、まんまと溢して手がベタベタするのは、どこから巻き戻せばいいんだろうか。
巻き戻せないのだ。次からは何を気をつけようか。ベタベタした手のことは忘れて走るしかない。依然として5分台で走っていた。案外私はポジティブなのだ。股関節の違和感はなくならずどちらかというと痛みに変わりそうな具合になっている。だけどまだ前半を走っている事が嬉しい。まだまだ走り続けられる。
しかし白いランニングウェアの男性には追いつけない。先ほどから変わらない気もするし、遠のいている気もする。あの人は走り始めてどれくらいのキャリアなのだろうか。今回のマラソン大会では追いつけないかもしれないが、いずれあの人と同じかそれ以上のスピードで走れるようになるだろう。これからも私は何度もマラソン大会に出るのだ。輪廻。
右の股関節を労わるように、右膝が地面に着地する。左半身はまだ元気だ。元気な左半身とあまり違わないように、でも股関節を労わりながら、着地。元気、労わり、元気、労わり、元気、労わり、元気、労わり。
スマホとウィダーインゼリーが入っているポシェットが邪魔だな、と思う。途中でお腹空いたら走れなくなるから、という夫の助言により忍ばせたものだ。ポシェットをつけたまま走りウィダーインゼリーを飲んで力にするのと、何もつけないでストレスフリーに走るのの、どちらが良かっただろうかと考える。お腹が空くかどうかが問題だ。いや、今股関節を労わりながら走る際に邪魔になっているのが問題か。次に夫とすれ違う時にはポシェットを渡してしまおうと思う。ポシェットがなくなれば、身軽になって、嬉しくてジグザグに走ってしまうかもしれない。
そんなことはしないが、今から身軽になった自分を考えるだけで嬉しい。これは私が日常生活を送りながら、宝くじに当たったらどんな生活を送ろうかと考える遊びに似ている。友達に言ったら
「かわいい事してるね」
と言われた。小さい頃は魔法が使えたらどうしようか、とか、願い事が3つ叶うなら何を願おうか、と想像して遊んでいた。それと同じ遊びだと思うと、確かにかわいい事をしている。私が宝くじに当たったら、何をするかというと、少しだけ楽をしながら今と変わらない暮らしをしたいと思っている。基本的には自炊をしつつ、疲れた時はファミレスに行き、基本的には車も持たず、でも疲れた時にはタクシーを使い、今と同じマンションに住んで、同じように娘を学童に入れながら漫画を描く。漫画は目的地ではなく、走ることと同じなのだ。ただ、日々のお金の心配がなくなれば最高だな、と思う。いやいや、実際に当たったらそんなことしていられないよ、という人もいるかもしれない。そうだとも思うし、いや、できるんじゃないか?とも思う。
マラソンでいえば、おしゃべりしながら走っているような事かもしれない。楽をしながら長く走る。宝くじに当たったら楽をしながら長く幸せに過ごす。でも私は今、練習よりも速いスピードで走っている。これは欲だろうか。走れそうなら速く走りたい。お金があれば使いたい。
今の私の生活は、おしゃべりしながら走っているようなものだろうか?それとも5分台で走っているようなところか。なんとなく、5分台で走っているくらいの生活のような気がする。できる限りはやっているけど、無理はしていない。というような。本当はもう少し無理が出来そうな予感がする。あの白いランニングウェアの人くらいにはなれると思う。ぶっちぎりトップのあの人には、今世では無理そうな気がする。
そうしたらやっぱり、また生まれたいと思うだろうか。何度もマラソン大会に出るように、何度も死んではまた生まれたいと。では引退することが輪廻の終わりだろうか?自分で満足いく走りをすれば、もうこれで終わりでいいと思うかもしれない。あるいは、フィジカルの問題で走るのを断念して引退ということになるパターンもある。でもそれじゃあおかしい。さっき、私は走ることが目的なのだと言った。でも引退する、ということは、別の目的があるみたいだ。
あるのかもしれない。より良い生を全うしたい、というような、大きな目標が。マラソンにおけるより良い生とは、やはり孤独にぶっちぎり1位であることだろうか?
連想ゲームの末に考えが覆ってきた。よくあることだ。ある考えの裏を返せば反対の考えが潜んでいることは多々ある。人は自分の頭の中でもなかなか正直になれない。自分に都合のいいことを、さも本心かのように錯覚させてしまう。本心が別のところにあることは十分考えられる。
ちょっとこんがらがってきた。しかしまだ走っている。始まりと終わりの間にいる。ゴールしたら、終わる。書き続けている。これもいつかは、完成という名のゴールに辿り着けるだろうか。
走っている最中は心地良い。書き続けている私は心地良いのだろうか。心地よく書いている時もあれば、失速してしまう時もある。無念の死を遂げた無数の未完成作品たちが、私のiPadには眠っている。
そういえば以前夫が出た大会で、運営の人が言っていた。
「今日は暑いので、体調と相談しながら、無理だと思ったら勇気あるリタイアを」
勇気あるリタイアとはなるほどと思った。ランナーは多少無理しながら走るものだが、本当に無理なものを押し切ってはいけない。本当に無理だと思ったら勇気あるリタイアをしなければならない。いくら人生に置き換えて語ることができたとしても、人生ではないのだ。走ることは人生の内側にあって、始まりと終わりを見届けることができる。私たちが本当に走っているのは人生だからだ。マラソンの外側に行くことができる。でも人生は、その外側を誰も知らない。マラソン中に無理をしすぎて、本当に無念の死を遂げてしまっては、マラソンだけではなく人生も終わりを迎えてしまう。マラソンはやり直せるが、人生はやり直せるかどうかわからない。死んだ後のことなど誰も知らない。人生にも外側があって、「ああ、今世はイマイチだったな、来世頑張ろ」とか思える場所があるなら素敵だなとは思う。で、それがもしあった場合、人生というゲームにおいては「寿命まで死んではいけない」というのがルールの一つであるだろうから、マラソンで死にそうになる前に勇気あるリタイアをしなければならないのだ。なるほど、死んではいけないというルールなんだな。
数学的な解を導き出した気になっているが、あまり理解はされないだろうなと思う。もし娘が将来「死にたい」と言ったときに「それはルール違反だよ」とは言えない。「そうかルール違反ならば思いとどまろう」とはならないだろうからだ。人生というゲームにもう一つルールがあるとすれば、「遺伝子を残さなければならない」というものもあげられるだろう。私は娘をなるべく生かさなければいけない。
と言ってしまうと子どもを持たない人を否定しているようだけれど、人間社会では別に子孫だけが遺伝子とは言い切れない部分があると思うので、子ども以外の遺伝子を残せばルール違反にはならないと思う。例えば、作品や、考え方、生き方などを自分以外の誰かに残していけばルール的にはOKだろう。
やはり、人生の外側があると思う方が楽しいな。絶滅した恐竜はさぞ悔しかろう。一方鳥として生き残った方は悠々としていることだろうよ。
以前、家の窓から見える電線にカラスがとまっていた。そのカラスは片方の羽をバサリと広げたかと思うと少し震えて、糞を落とした。
鳥は自由だな、と思った。
翼があるから自由なのではないのだ。鳥が本当に自由である理由は、トイレから解放されているところにある。私は時折無性に死にたくなるという病癖があるが、その時は大体布団にくるまってじっとしている。じっとしていながら客観的になろうと努めている。でもなれないので死にたくなるわけだ。また動けるようになるまで、嵐がすぎるのを待つように布団でじっと耐えている。
ところがトイレに行きたくなるのである。
死にたいと思って布団で震えていた人間が、もそもそと立ち上がりトイレに行ってお行儀よく用を足すのはなんだか矛盾している。トイレに行くってことは、この布団を汚したくないということだし、人間社会の営みに参加したいということだ。そう思うと死にたい気持ちも少し晴れる。と、同時に、人はトイレに縛られて生きているんだな、と感じる。
この話を夫にすると、
「三大欲求って食欲と睡眠欲と、そのほかは性欲じゃなくて排泄欲だよね」
と持論で返された。
「ずっと性欲が三大欲求に含まれるのは違和感があった」
とぶつぶつ言っていた。
確かにそうかもしれない。と思う。食べずにはいられないし、眠らずにはいられない。しかしセックスはしなくても生きていける。いや、私はセックスなしでは生きていけない、という人ももちろんいるかとは思うが、それは「NO MUSIC, NO LIFE」と同じ意味ではないだろうか。それよりも排泄しないで生きていける人はいないのだから、排泄欲がランクインしてもおかしくはない気がする。
ところでマラソンは、趣味になりかけているところだが、「NO RUNNING, NO LIFE」にはまだ至っていない。一生の趣味にできそうではある。
というのも、マラソン大会に出ているランナーの年齢層はかなり幅広いのである。ずっと走っていれば、足腰も強くなりそうだ。元気な高齢者になるべく「NO RUNNING, NO LIFE」と言えるところまで走ることを日常にしてみたい。
しかしながら股関節は依然として痛い。走っていると痛みがなくなることがあるけど、この股関節の痛みはその類のものではないらしい。「傷めている」状態かもしれない。でも走れないわけではない。タイムも変わらず5分台だった。息も苦しくない。股関節だけだ。
白いランニングウェアの男性には追いつけない。でも自分の走りも悪くはない。
折り返し地点に来てまた
「ナイスラン」
と声をかけられながら水を飲んだ。少し残して、ポカリでベタベタしていた左手にかけ、紙コップを捨てる。だいぶマシになった。次のゴール付近の折り返しの時にはウエストポーチも夫に預けてしまおうと思う。そういえば、以前、10キロの大会に出た時、裸足で走っている人がいた。痛くないのだろうか、と思ったが、思い返せば小学生の頃は、校庭で裸足で遊ぶのが普通だった。あの頃は痛くなかったな。しかし裸足のランナーはどのタイミングで靴を履くことをやめたのだろうか?理想の靴を追い求めているうちに、裸足にたどり着いたのだろうか?なんだか私がデジタルで漫画を描いていたのをアナログに変えたのと同じ種類のような気がする。デジタルではどうも、ペン先から作品までの間に距離がある気がする。描きたい線が繋ってくれていない感じがある。どうすればペン先の動きをもっと作品に伝えられるのか、悩んだ末に、アナログで描くことにたどり着いた。つけペンにインクをつけ、原稿用紙に描く。ペン先と作品はゼロ距離にある。アナログに変えたことで、これまでの違和感は確かに解消された。解消されたはされたが、ゼロ距離すぎて、手ブレまで拾ってしまうという問題も生まれた。でも鍛錬重ねれば腕の筋肉も育って、手ブレもコントロールできるようになるはずだと信じている。
裸足のランナーも地面から足の裏までをゼロ距離にしたかったのかもしれない。靴を脱ぐことで、違和感が解消されたのかもしれない。けれど、直に伝わりすぎてしまう問題が発生して、鍛錬を重ね、筋肉を育てたのかもしれない。裸足のランナーにとって、走ることの意味は大きそうだと思った。走ることは生きること、という言葉が浮かぶ。NO RUNNING, NO LIFE. ひょっとして、本当は裸で走りたいんじゃないかな。ふとそんな気がした。
私の「NO RUNNING, NO LIFE」までの道のりは遠い。
一方私の描くことは生きることだろうか?もしくは書くことは。「NO RUNNING, NO LIFE」までの距離よりは近いけど、まだまだ「生きること」とは言い切れないな、という気もする。
書店員のパートを始めた。理由は色々あるけど、見栄でもなんでもなく、お金のために始めたわけではないことを言っておく。我が家は決して裕福ではない、というか毎月カツカツである。なのにお金のためではないとはなんぞや、と言われるかもしれない。でも本当に違うのだもの。私は描くために、あるいは書くために、自分を外圧に晒したいような気がしたのだ。何か、どこかに通勤して決まった金額をもらうようなことがしたかった。電車の中で疲れたな、と思いながら本を読みたかった。普段家で漫画を描いている時に使う脳みそとは別の部分の脳みそを使いたかった。それでふと求人検索して、見つけた募集に飛びついてまんまと受かってしまったのである。
16歳の時に初めてバイトしたファストフード店以来のレジ打ちである。その時はあまりにも仕事が出来なさすぎて自分には向いてないと見切りをつけ、二週間で辞めてしまった。しかし38歳の私は若い頃とは違い、慣れないことも続けているうちに慣れるはずだという先行きを見通すことができた。そして慣れた。書店のパートは楽しい。短い通勤時間にも本を読んでいる。描いたり、あるいは書いたりしない人は、通勤して、8時間勤務して、また電車に乗って、帰る。休みの日には映画を見たり、買い物をしたりする。私は、描いたり、あるいは書いたりしながらそうじゃない生活をしていた。自分で目標を決め、それに向かって作品を作る。締切に間に合うように作品を納品する。休みとは、また制作や執筆に向かうための休みであり、本を読むことや、映画を見ることは、制作のためにやることだ。
と、ここまで書くと私にとって描くこと、あるいは書くことは、結構「生きること」と言ってもいいような気がしてきた。これまで、娯楽を娯楽として楽しんだことはあまりないような気がする。
でも書店には、休日にゲームセンターに行くという同僚や、新刊をワクワクしながら待っているという同僚がいる。娯楽を娯楽として楽しんで、また通勤して仕事する。私には出来ないのだろうか?パートしていて思うのは、意外とできるんじゃない?ってことだ。これまではできなかったけど、38歳の私はようやくそういう生き方もできるようになってきたんじゃないだろうか?そして、私も娯楽として、本や映画を楽しみたい。ワクワクしたい。そんな気持ちも持っている。
スタート付近の折り返しが近づいてきた。
娘がぴょんぴょんと飛び跳ねている。機嫌が良さそうだ。
私はポシェットからウィダーインゼリーを取り出し半分飲む。これで後半お腹が空くことはないだろう。走りながらウィダーインゼリーをしまい、ポシェットを外す。ポシェットを夫に差し出しながら近づいていくと、娘は手にバナナを持っていた。
「バナナ?」
と聞くと
「2本目」
と夫。ポシェットは無事に夫に手渡せた。体が軽くなったのを確かめながらスタート地点での折り返しを曲がる。そしてすぐの給水ポイントにバナナがたくさん置いてあった。少し迷ったが食べようと思う。歩きながら皮を剥いて3分の2ほど食べてゴミ箱に捨てる。娘はこのバナナを食べてたんだな。夫の「2本目」とは、今娘が持っていたバナナが2本目ということか。機嫌が戻ったワケもなんとなく理解した。
また走り出す。後ろで
「頑張って」
という夫の声が聞こえる。
お腹が重く感じられた。ウィダーインゼリーも飲んで、バナナも食べて、ちょっと腹に入れすぎだと気づいた。バナナが提供されることを最初に教えてくれたらよかったのにな。それとも運営側は教えてくれていたのか。私は聞き漏らすことが多い。でもウィダーインゼリーもバナナもどちらもエネルギーになりやすい食べ物のはずなので、ポジティブにいこうと思う。ようし、これで後半頑張れるぞ!と内心で気合を入れる。と呼吸が乱れる。どうも、走ることを意識すると呼吸が乱れるようだ。意識の1割くらいで走ることを考え、残りの9割は別のことを考えている方が呼吸が安定する。
そういえば、あと何周走らなければいけないんだろう?こういう計算がすこぶる苦手だ。あと1周な気がするけど実は2周かも知れない。これは考えないことにしよう。1周だと思っていて2周だったら、さすがにペースダウンしてしまいそうな気がする。ということはやっぱり走ることは苦しいことなのか。楽しいことと捉えていれば、あと1周だと思っていて2周だったら嬉しいはずだ。こんな風に考えなければ、楽しいのか苦しいのかもはっきりしないのか、私の脳みそは。
他の人はどれくらい、自分の感覚に自信を持っているのだろう?私が疑いすぎているのかもしれない。ここまでどれくらい走ったのかよくわからない。ペースは5分台をキープしている。同時に走った距離もGARMINの画面には表示されているが、頭に入ってこない。入ってきたところで、それであと何周残っているのかの計算もうまくできない。そのうち、やっぱりあと2周走れると思っていて1周だったらガッカリするんじゃないだろうかという気がしてくる。やっぱりもっと走りたいと思っているような気がする。
通り過ぎてゆくタンポポの原っぱと、少年野球ゾーン。ここからあと少ししたらもう次の折り返しである。ずっと5分台で走っているということはずっと同じペースで走っているはずなのに、これまでよりも早く通過しているような気がするのは何故だろう?タンポポの原っぱにはもう親子の姿はない。少年野球のゲームはどれくらい進んでいるんだろう?
私はやっぱり考えすぎで、考えている世界に没頭してしまっていけないのかもしれない。マラソンは、考える時間がたっぷりあるけど、同時に体も動かして地面を蹴っているので、何か心地がいいのかもしれない。
あ、ポシェットがないから心地いいのか。と遅れて気付く。開放感。やっぱり走ることは何かから確実に解放されている。走っている間は人間社会の色々からも解放されているのかもしれない。マラソン中はトイレにも行かないので、(他の人はどうか知らないし、私もフルマラソンは知らないが)トイレからも解放されている。育児からも仕事からも、人間関係とかちょっとした心配事からも解放されている。だから心地がいいのだ。その上ポシェットも手放したので、あとはもう裸で走りたいくらいだ。うそだ。スポーツブラを外してしまうと胸が揺れるので走りにくいと思う。だからスポーツブラをすることで、ランニングウェアを着ることで、胸からも解放されていると言えるかもしれない。走ることに特化した服装で、走ることだけに専念できるから気持ちがいい。頭の中の思考が右往左往するのも、そのままにしていられて何にも邪魔されないのがいい。
と、白いランニングウエアの男性がさっきまでよりも近づいてきているような気がした。いや、確実に近づいている。なるべく呼吸を乱さないように走る。チラッとGARMINを見ると5分台でも前半だ、今一番早く走っている。追いつきたい。一歩の幅が大きくなる。GARMINを何度も見てしまう。折り返し地点にきた。男性はペースを落として水を飲む。私も水を飲む。並んだ。思ったより身長が高い中年男性だった。ほぼ同時にコップを捨て、走り出す。追い越したい。呼吸が苦しい。男性はジリジリと私の前に出て、その間隔は少しずつ開いていく。呼吸が荒くなった。諦めよう。不相応なことを願ってしまった自分を戒めたい。あるいは、あのまま男性を意識せずに走れていたら、もう少し先の方で楽に追い抜けたかもしれない。欲が出て身を滅ぼした気分だ。教訓めいている。わかりやすい示唆に富んでいる。諺にできそうなシーンを演じてしまった。
呼吸を整えることに専念した。GARMINは今日初めて6分台を表示した。最速の直後の最低速である。
私は宝くじが当たっても今と同じような暮らしがしたいと思っていたが、無理かもしれない。手に入ると感じたら、欲望は止められないのかもしれない。そう考えた方が、世の中で起こっている様々な悪事の説明はつく。これだけお金があったらもう十分、なんてないのだ。手に入りそうになったら、ちょっと無理をしてでも手に入れようとしてしまう。その皺寄せは後からやってくる。やはりマラソンは人生である。
何度もマラソン大会に出て同じようなシチュエーションを繰り返せば、欲望に負けずに自分のペースで走り切ることができるようになるだろうか?欲望に負けずに自分のペースで走ること。ああ、これが目標なのかもしれない。欲望に負けずに自分のペースで走ることができたら、もう十分だと思えるかもしれない。
そしてその暁には、宝くじに当たっても自分のペースで変わらない生活を送って行くことのできる人間性が養われているだろうか。
いや、待て。今現在の日常を自分のペースで生きているとは決して言えない。常に何かに追い立てられている気がするのが現代人ではないだろうか?まずは日常を自分のペースで生きることこそが人生の目標なのではないか?何にも惑わされず、ポツンと一人草原に立っているような気持ちで、世の中のあらゆる事象を受け止めたい。それが理想の姿で、何かに惑ってしまったら「いけない、いけない」と草原に立ち返るような努力を日々しているのではないか?そんなところに宝くじが当たってしまったら、それはもう、試されていることに他ならない。宝くじになんて当たらない方がいいのだ。
宝くじに当たっても私は走るだろうか。ポツンと草原に立っている時に走りたいと思うだろうか。宝くじに当たったらどうするか、というのは可愛い妄想遊びではなく、思考実験めいたところがあるのかもしれない。何不自由なく暮らせるとした時に、私は何をするのか知りたい。今と変わらない生活をしたいと思えるのかどうか確かめたい。そのためには当たらないといけない。当たりますように。
ぶっちぎりの1位の人はもうゴールしただろうか。折り返してすれ違う面々は変わらない。抜かれもしないし、抜きもしない。こうして周りのランナーに意識を向けてみると、自分だけが自分のペースで走れていないような気がしてくる。みんな苦しそうなりに、自分に集中して、ペースを乱さずに走っているような気がする。呼吸が落ち着いていくのを感じた。GARMINは5分台に戻った。
普段6分台で走っているんだから、今日のペースは十分だ、という考え方はしたくない。いや、最初の方で言った通り目標は完走することだったのだから十分に違いないだろうと思われるかもしれない。でもその考え方は何か間違っているような気がする。「ダメでもともと」というのは目標に惑わされないおまじないのような顔をしているが、それ自体が目標に惑わされていることだと言えなくもない。私の目標は完走することだと言ったが、走りながら変わっていった。それは完走はほぼ間違いなくできると感じられたので、目標ではなくなったのだ。今の私の目標は、何にも惑わされずに走ることだ。目標にも惑わされたくない。にんじんを追いかけている馬ではない。
もっと走っていることそれ自体を味わおう。股関節が痛い。左の足首も痛いような気がする。汗が体にまとわりついている。呼吸はそれほど辛くないが、気温は上がってきて暑い。ウィダーインゼリーとバナナと水でお腹がタプタプしている気がする。走ることの楽しさはやはり概念なのかもしれない。
スタート付近の夫と娘の姿が近づいてくる。
「ラスト1周〜!」
と夫が声を張り上げて応援してくれている。ラスト1周なのか。赤いコーンを曲がり給水ポイントで水をもらう。毎回飲んでるけど、飲まなくてもいいのかもしれない。お腹に水分が溜まっている感じかする。でも途中で喉が渇いてしまったらどうしよう?と思うと、やっぱり飲んでしまう。
ラスト一周か。
自分のペースとは一体なんなのか。自分のペースというものも概念にすぎない。おしゃべりしながらゆっくり走りたい、と思う人もいれば、無理して走って苦しみたい、という自分のペースもあるかもしれない。あと1周、私はどう走ろうか。
自然と地面を蹴る力が強くなってきた。股関節は痛い。けどこの痛みにも慣れた。慣れたというか、もうここまで走ってしまった。今更どうこうしない。そういえば、私は今38歳だ。38年生きた。今更どうこうは、やはりしない。
25歳の時に強迫性障害という病名がついたが、その症状は9歳の頃からあった。病名がつくまで前世の呪いだと本気で思っていた時期もある。それから、先にも言ったが数字がかなり苦手だ。数字が記号にしか見えないというか、頭に入ってこないというか、数字を見ると脳みそがフリーズしてしまうような感覚がある。これは引き算を習ったあたりから感じている。それでも人生を走り続けて38歳になった。若いのか、若くないのか、よく分からない年齢になった。何もかも今更どうこうはしないけど、今持っているものを大事に全力を出して走り切りたい。
自分のペースとは、自分の全力を最大限出し切ることのできるペース、ということかもしれない。そのために惑わされないようにする、ということかもしれない。白いランニングウェアの男性を追い抜けそうになった時、一時的にスピードを上げてしまって、すぐに失速してしまったけど、力の入れどころを間違えなければ、結果として抜けていたかもしれない。次にマラソン大会を走るときは、自分の力を最大限出し切れるように考えながら走ろうと思う。
あと1周。私の体力はまだまだ残っているな、と感じた。地面を強く蹴り、これまでよりも風を浴びるようにして走る。気持ちがいい。誰かを抜こうとかそういった目的もなく、スピードを上げるのは、先ほどよりもストレスがない気がした。あと1周で今世が終わってしまう。そう考えると今スピードを上げるのは必然のように思う。さすがに呼吸がキツくなってきた。でもまだ余裕がある。
日々ランニングしていて面白いと感じるのは、スピードを上げて走ったあと、少しゆっくり走ろうと思ってもなかなかタイムが落ちないことだ。早いペースに慣れてしまって、それまでのもう少し遅い走り方のペースを忘れてしまったようになる。あと1周であればそれを狙ってもいいような気がする。呼吸もなんとかもつだろう。最後のラストスパートをかけようと思った。
首から上にかけて熱がこもっていた。私は帽子を一度外し、少し首を振ってから被り直した。汗で湿った帽子で一瞬だけひんやりして、またすぐに暑くなった。
野球少年は泥だらけになっていた。折りたたみの小さな椅子に保護者たちが座って観戦している。彼らももうクライマックスかもしれない。全力を出し切れた者、悔いの残った者、いることだろう。
試合やマラソンは、何度でも挑戦できる。そしてその挑戦する姿勢が人生を走り切ることなのである。と、自分を鼓舞している。体の内側から妙にひんやりする。無理しているのだな、と分かる。
GARMINを確認すると、まだ2時間経っていないことが分かった。でも2時間切るのはやっぱり無理かな、あの折り返しを曲がって残り2.5キロ。
「ラストラスト!頑張って!」
とスタッフも応援してくれる。水を一口飲んで、ゴミ箱に捨てる。飲む時に一瞬ペースダウンすることで途端に呼吸が乱れ、苦しくなってくる。それでもなるべく元のペースに戻した。ここから呼吸が安定するのにまた時間がかかるだろう。前も後ろも間隔が空いていて、私一人で走っている気分だ。白いランニングウェアの男性はもうゴールしただろうか?もっと速く走りたいと思う。目の前ににんじんをぶら下げて欲しい。もっと早く走りたい、という欲と今すぐ立ち止まりたいという欲が交互に訪れる。ラストスパートをかけるのと、ペースを守って走るのと、どちらが良かったろうか。とにかく息が苦しい。苦しいのになぜもっと速く走りたいと思うのか。やっぱり欲に惑わされているんだろうな。でもいい。全力でにんじんを追いかけるのがいい。なりふり構わないでいいと思う。もっと速く。もっと速く。呼吸の辛さとは裏腹に全身に浴びる風が心地いい。体の熱を冷ましてくれるようだ。止まったら、汗が噴き出すのだろうな。ぶっちぎり1位の人は、この感覚がやっぱり楽しくて走っているのかもしれない。本当に楽しみたいなら、本当の全力を出さなければいけないのだ。楽しみたいから、苦しみたい。苦しいのが楽しい。あ、なんかすごいマゾ。でも何事もそうじゃないだろうか?スポーツ観戦するにしても、自分の応援している選手やチームが、余裕で勝利してしまうより、きわっきわの勝負の末に勝ち取るところが見たい。手に汗を握ってワクワクしたい。マラソンは、それを一人で、自分でやれるのだ。私がどんなタイムを出すのか、手に汗握って見守っている観戦者であると同時に、退屈させないように全力出し切って走るプレイヤーでもある。なんて楽しいことをやっているんだろう!しかしこれは言語化してしまうと消えてしまうタイプの話でもある。「楽しい」と言ってしまうと真剣勝負みが薄れるのを感じられるだろう。「これが楽しいのだ」と言って苦しいことをやるのは野暮だ。私はそんなことは考えずに走らなければならない。走る人に「なぜ走るのですか?」なんて聞いてはいけない。そんな質問答えられない。だって楽しいと言ってしまうと楽しみが失われてしまうんだから。でも言った。私は言った。言わなければならなかった。この世にはハッキリとしてしまった瞬間に失われてしまうものがあるという事を。一番の野暮は私である。でも楽しい。苦しい。楽しい。苦しい。これまでよりも大きく一歩を踏み出しながら走る。自分の呼吸音が大きく聞こえ、夫や娘の声援が掻き消される。
「ゴーーール!!!」
呼吸音をぶち破ってMCが私の番号を読み上げる。夫と娘が近寄ってくる。私は走るのをやめ、全身から汗が噴き出すのを感じる。顔が熱い。息が上がっている。計測チップと引き換えに完走証をもらい歩きながら、夫に渡す。レジャーシートに白いランニングウェアの男性が座っているのが見えた。
「2時間2分?!」
夫が驚いてくれた。嬉しい。
「お母さん顔真っ赤!にんじんみたいになってるよ!」
そうか私がにんじんだったのか。
と、GARMINを止め忘れていることに気がついて慌てて止める。
ああ、最後のラストスパートがわからなくなってしまった。まあいいか。
水をもらって飲む。全身に染み込むような気がする。
「あーー走った」
完全に気持ちがいい。やっぱり走り終わった後の気持ちよさで脳内麻薬が出ているような気がする。色々言ったけどこの瞬間のために走ってるだけかもしれない。
「この早さでフルマラソン走ったらかなり早いよ」
夫が完走証を見ながら言う。
「無理…」
この倍走るのは考えられないな、と思った。と同時に走り始めたら案外いけるのではないかという気もした。楽しそうではある。ただ…
「股関節痛めた」
「あら」
「しばらく走れないかも」
股関節ということはF1で言えばなんだっけ。とにかく故障がネックだ。
「股関節は長引くって八木さんが言ってた」
と夫。
「まじか」
まあいい。とりあえず今日は楽しかった。
全身を使った疲労感が心地いい。
そのあとは、しばらく汗が引くまでぶらぶらし、テントで着替えてお昼を食べた。お昼を食べながら、ゴール地点で、ゴールした人の番号が読み上げられていくのを聞くのも心地よかった。
「休憩してていいよ」
食べ終わったあと、夫が娘をテントから連れ出してくれたので、私は寝そべって風を感じながら休憩した。
とにかく何もかも気持ちいい。あらゆることはどうでもいい。
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