「陸橋」(作:西田夏実)

 陸橋の階段を上っていると、向こうから中学生くらいの男の子達が歩いてくるのが視界に入った。はじめは思い出せなかったのだが、集団の中の一人の正体がわかったとき、金杉拓人は回想した。

 三年前の今頃は最悪だった。音大に進むことを志していて、それに向けて一生懸命にピアノの練習をしていた高校一年生の頃、二つ上の姉がレベルの高い国立大学に合格してしまったことが始まりだった。
(確かにあんた、成績はあんまり良くないけれども、努力すればどうにかなるものよ。だから、お姉ちゃんを見習って頑張りなさい。)
 そういう両親に、拓人は上手く誘導されていった。もともと、彼が音大に進みたいと思っていることを、勉強が出来ない代わりにそう言っていると両親は解釈しているようで、しかし今回のことで、頑張れば拓人にも出来るのではないかという希望を抱かせてしまったようだった。
 当時の拓人は一人前に失望というものを味わい、無責任にも抵抗するという能動的なパワーを使おうとしていなかった。今までの人生で一番汚くてずるい部分を曝け出していた、と思考する。夢を諦めることで自虐し、反対の意見を唱えずに我慢することでそのような自分に酔っていた。
 そんな汚れきっていると現在の彼が忌み嫌う過去の自分に、転機となり得る事件が起きた。それが一番重要で最も拓人に影響を与えたのだが、そう気付いたのは三年も経った今だった。
 今の家に引っ越してきたのは中学三年生の十月だった。駅からは歩いて五分、コンビニも駅と反対方面へ行ったすぐの所にあり、生活するのにとても便利な場所である。
 しかし、それを喜んでいられたのも束の間だった。
 コンビニよりも向こうに、公立小学校がある。そこの生徒は、登下校の際に陸橋を渡るために揃って金杉家の前を通っていくのだが、それだけではない。小学校から程よく離れているからなのだろうか。ピンポンダッシュ――用もないのに他人の家のインターホンを押して逃げるといういたずらだ――をしていく小学生がいるのだ。二、三回学校に苦情をいれたのだが、あまり改善された様子はなかった。近隣の家は被害に遭わないようで、どうやら拓人の家の場合、角に建っていて逃げやすいため標的にされたようだった。
 越してから半年程経ったあの日、拓人はリビングでピアノを弾いている間に三回も迷惑を被り、四回目は絶対に捕えてやると意気込んで、すぐ道路に出ることのできる庭に潜んでいた。両親の思惑で、今月限りでピアノをやめることになってしまったので、ひどく機嫌が悪かった。
 しばらく息を殺して待っていると、遠くの方から子どもの話し声が聞こえてきた。近付いてくるにつれ、内容が穏便なものではないことがわかってきた。
――ほら、行ってこいよ。それともなんだ、お前怖いのか?
――成功したら、返してやるよ。
――返してよ!それがないと、宿題が出来ないじゃないか!
――だから、上手くいったら返してやるって言ってるだろ。
 三人いるいじめっ子は蔑みを含んだ笑いをし、彼らに取り囲まれた小柄な寝癖のように見える跳ねた髪を持つ少年を小突いた。
それから、あまり気乗りしないような感じの小さな足音が聞こえた。いじめられっ子のものだ。だんだん近付いてくる。緊張と恐怖と、おそらくその二つの感情でほとんど打ち消されている憤りが含まれているであろう呼吸まで耳に入ってくる。
 ピンポーン。拓人は片膝をついていた姿勢から勢いよく立ち、もう既に少し先まで走っていた少年を追いかけた。しかし、所詮小学生の足だ。容易に捕まえることができた。
「おい!」
 少年の左腕を強く掴んで怒鳴った。癖毛の男の子は、左腕の痛みに顔をしかめていただけで何も言わなかった。

 リビングに少年を遠し、台所から持ってきた薬で応急手当をしながら、拓人は切り出した。
「もし、さっきの奴らにいじめられているなら、先生に話してみろ。あいつらに何も言えないから今日みたいなことになったんだろ? それに、怪我だってしているじゃないか。あまりエスカレートしないうちに対策をとった方がいい。」
 男の子は少し俯き加減だったが、拓人の言葉を聞くと「心外だ」という顔をして反撃をした。
「もちろん、担任の先生には言いました。でも先生が注意したところで、今度は見つからないように嫌がらせをしてくるだけだから。」
「君は、何歳?」
「五年生、もうすぐ十一歳になります。」
 とてもはっきりと話をする子どもで、それ故にああいういじめっ子から反感をかうのかもしれない、と拓人は思った。
「親には言っていません。だって、皆が僕のことを――」
 そこで唐突に口を閉じた。顔には迷っている心情がありありと浮かんでいた。しかし、一つ静かに息をつくと、
「僕のことを片目だって言っているから。そんなこと、話せないでしょう?」
と、一気に言った。拓人は少年に言葉をかけようとしたが、やめた。一体、彼に何を言ってやれるだろう。そんなことを考えている間に、彼は再び話し始めた。
「あいつらに何か言ったって無駄ですよ。それに僕、中学受験するつもりでいるから、あんまり事を大きくしたくないんです。親にも問題を起こすなと言われているから。」
 不意に拓人は、この妙に醒めている小学生にひとこと言ってやりたくなった。理屈や、周りのことばっかり引き合いに出して、自分では何も行動を起こさない臆病な少年に。
「あのな、親がどうとか、受験がどうとか、そんなこと言っていて何もしないつもりか? こうやって、あんないじめっ子の言いなりになって周りに迷惑をかけて、それだけで満足か?」
 ひとことどころか捲し立ててしまったことに気付き、言葉を止める。少年は驚いた表情で拓人の顔を見ていたが、すぐに俯いた。
「あ――ごめん。そんな、怒っているわけじゃないんだ。とにかく、俺が言いたいのは、自分の意見はちゃんと言った方がいいってことだ。そうしないと絶対、どこかで後悔するから。」
 最後の言葉だけははっきりと言い聞かせ、救急箱の蓋をぱたんと閉めると、少年は、
「ごめんなさい、ありがとうございました。」
と頭を下げた。
「親が心配するから早く帰りなよ。」
と言い、少年について外に出て後ろ姿を見送った。
 それ以来、拓人は少年と一度も会っていない。
 後日、通学路で先生が見張りをするようになったので、いたずらをする子どもはいなくなった。

 三年ぶりにその姿を見ている。あの頃もそうだったが、相変わらずの波打った頭髪。私立の学校に通っているのだろうか、見たことのあるブレザーを着て友達と楽しそうに話しながら歩いている。
 拓人は癖毛の少年に言った言葉を思い出して苦笑する。
(親がどうとか、受験がどうとか、そんなこと言っていて何もしないつもりか?)
(絶対、どこかで後悔するから。)
まるで、自分に言い聞かせるために言ったみたいだった。あの、自分で言った言葉が、自分を変えるきっかけになるとは思いもしなかった。
 今は、現役で音大に合格し、慣れないキャンパスライフを楽しんでいる。
 視線を、友達を連れ、輪の中心で盛り上げている少年に戻す。見えないはずの左目が陽を浴びて光り、生き生きとしてみえる。
 偶然にも少年と拓人は目があったが、それも瞬間で、すぐに癖毛の少年は友達との話を再開した。

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