「武士道」って道徳教育?
稲造がベルギーの功名な法学者、ド・ラブレー氏の自宅でもてなしを
受けた時に、教授が
「日本の学校では宗教教育が無い、ということですか?」
と質問され、稲造が
「そうです」
と答えると、教授は驚いて足を止め、容易に忘れ難い口調で、
「宗教が無い! 道徳教育はどうやって授けられるのですか?」
と繰り返えし問われた。その時、稲造は答えに窮し、後に自分の道徳
観念は、武士道から来ていると気づいたことから、広く世界に日本の
思想教育を知ってもらう意味で書かれた本である。
武士道は、武士が守るように要求され、又、教えられた道徳の掟である。それは、文字に書かれた掟ではない。せいぜい、口伝によって受け継がれてきたものだったり、有名な武士や学者が書いた幾つかの格言によって成り
立っている物である。稲造は、
「義」、「勇気」、「仁」、「礼」、「名誉」、「忠義」、
「切腹と仇討の制度」、「刀・武士の魂」
の切り口から武士道を紹介している。訳者の山本氏によれば、稲造が、切腹を礼法上の制度とし、武士階級の間では刀の濫用が強く抑制されていた事を懇切に説明しているのは、日本人が決して好戦的で野蛮な国民ではなく、礼儀を備えた文明国であるという事を主張する事にあるそうである。
今日は、「武士道」新渡戸稲造著 ちくま新書より、”切腹の情景”と
”忠義”に関する部分を紹介し、道徳教育という事に対し、少し考えてみたい。
切腹の情景
岡山藩は西宮警衛の朝命を受け、家老の池田伊勢、及び同じく家老の日置帯刀(へきたてわき)が2000の兵を率いて慶応4年(1868)1月5日に出立
した。翌年1月11日昼過ぎ、藩兵の隊列が西国街道を三宮神社近くに差し
掛かった時のこと。開港したばかりの兵庫には、外国軍艦が碇泊し、多数の外国人が日本人(岡山藩)の隊列を見物しようと道沿いに集まっていた。
その時、突如、建物から出てきたフランス人水兵2人が、行列の前を横切り始める。これは当時の武士達にすれば、許されざる無礼な行為であった。
砲兵隊長の滝は行列の前に出て、2人を制止するが、彼らが強引に渡ろうとする為、発砲を命じたのであった。見物の外国人の中にはイギリス公使
パークスもおり、事態に激昂。居留地守備の各国の兵士が集まってきて、
銃撃戦となった。しかし外国人を射殺してしまえばどうなるか、6年前の
生麦事件と薩英戦争の顛末は滝たち備前藩士も知っていたのであろう。
本格的な衝突はせずに、銃を収めた。小競り合いの結果は、見習い水兵と
別の外国人の2人が軽傷を負っただけで済んだが、事件を重く見た列強側は
6カ国の公使連名で政府に、「死者が出なかったのは神の恩寵であり、
殺意が明らかである以上、発砲を命じた士官の死罪を求め」たのだ。これを受けて政府は2月2日、「砲兵隊長の滝善三郎の死罪、隊の責任者である日置帯刀の謹慎」を命じたのである。
以下「武士道」の記述から
我々(7人の外国代表者)は日本側の検使(切腹を見届ける使者)に案内されて、儀式が執行される寺院の本堂に入って行った。それは荘厳な光景
だった。本堂は天井が高く、黒ずんだ木の柱で支えられていた。
天井からは、仏教寺院に特有な巨大な金色の灯篭やその他の装飾が沢山
下がっていた。高い仏壇の前には美しい青畳が敷かれ、床よりも三、四寸
ほど高くなっており、そこに緋毛氈(ひもうせん)が敷かれていた。高い
蝋燭立てが程よい間隔に置かれ、薄暗い神秘的な光を放っており、これから起こる事を見渡すように丁度良い明るさだった。七人の日本側検使は高座の左に、七人の外国検使は右に着座した。それ以外には一人もいなかった。
しばらく緊張して待った後、滝善三郎が、麻裃(あさかみしも)の礼装で静かに本堂に入って来た。彼は、年齢三十二歳のたくましい気品のある男
だった。一人の介錯と三人の陣羽織(金の刺繍のある折り返しの付いた
上着)を着用した役人がついて来た。介錯を左に従え、善三郎はゆっくりと日本側検使の方へ進み、両人ともにお辞儀をした。次に外国人の方へ
近づき、我々にも同様に、多分一段と丁重にお辞儀をした。どちらの
場合も、恭しく例が返された。ゆっくりと威厳に満ちた様子で、善三郎は
畳の上に上り、仏壇の前で二度礼拝した後、仏壇に背を向けて緋毛氈の上に端座し、介錯は彼の左側にうずくまった。
三人の付添役人の一人が、やがて、紙に包んだ脇差を神仏に供え物をする時に用いられる一種の台(三宝)の上に載せて出て来た。役人は、一礼を
して三宝を善三郎に渡した。彼は、それを恭しく受け取って、両手で頭の
高さまで押し頂いて、自分の前に置いた。再び深々とお辞儀をした後、
善三郎は次の様に言った。声には痛ましい告白をする人から期待される
程度の感情と躊躇が表れたが、顔色や態度は全く変わるところは無かった。
「拙者は、独断により無分別にも神戸で外国人に発砲の命令を下し、逃げようとするのを見て再び撃ち掛けさせた。拙者は、この罪を背負って
切腹いたす。おのおの方には検使のお役目ご苦労に存ずる。」
もう一度お辞儀をして、善三郎は、その上衣を帯元まで脱ぎ下げ、上半身裸となった。作法通り、注意深く両袖を膝の下に敷き込んだが、これは後ろ向きに倒れない為だった。というのは、誇り高い日本の武士は前に伏して
死ぬべきとされていたからである。彼は、前に置かれた短刀をしっかりと
手に取り、嬉し気に殆んど愛着するかのように、これを眺めた。しばらく
最期の時に向けて精神を集中している様に見えたが、突然左の腹を深く
刺して、静かに右に引き廻し、また元に返して上方へ少し切り上げた。
この凄まじく痛ましい動作の間、彼は顔の筋ひとつ動かさなかった。彼は
短刀を引き抜き、前に身体を傾け首を差し出した。初めてその顔に苦痛の
表情がよぎったが、声一つ立てなかった。その瞬間、彼の側にじっと
かがんで、その一挙一動を身じろぎもせずに見守っていた介錯は、素早く
立ち上がり、太刀をしばし空中に構えた。刀が一閃し、いやな鈍い響き、
砕けるように倒れる音がした。一撃のもとに首と胴体は切り離されたのだ。場内は静まり返り、ただ我々の前の動かない胴体からほとばし出る血の
凄まじいい音だけが聞こえた。介錯は平伏して礼をし、かねて用意した
白紙を取り出して刀を拭い、畳の上から降りた。血染めの短刀は、仕置きの証拠として厳かに持ち去られた。
忠義(以下引用)
菅原道真は、嫉妬と中傷の犠牲となって都から追放された。無慈悲な彼の敵は、これに満足せず、一族を根絶やしにしようとした。まだ幼い彼の子の所在を厳しく捜索し、彼のかつての家来源蔵が、秘かにその子を寺子屋に
匿っている事を探り当てた。源蔵に対して、決められた日に幼い罪人の首を渡すよう命令が発せられた時、彼がまず考えたのは、適当な身代わりを
見つける事だった。彼は寺子屋の名簿を眺めて思案し、そこに通ってくる
少年全員を注意深く見つめたが、田舎生まれの子供の中には、彼が匿って
いる子に少しでも似た者はいなかった。しかし、彼が絶望したのは、
ほんのつかの間の事だった。というのは、一人の新しい児童がいる事を
知らされたからである。上品な母親に連れられてきたのは、主君の子と同じ年頃の美しい少年だった。幼い君主とその少年が良く似ている事を、
その母親も知り、少年自身も知っていた。家の奥の部屋で、母と子は祭壇に身を捧げたのだった。子はその生命を、母は、その心を。しかし、外には
その気配すら洩らさなかった。二人の間での決意など全く知らないまま、
源蔵は秘かに心を決めた。ここに犠牲の山羊が手に入ったと。
指定の日に少年の首を確認して受け取る任務を帯びた役人が到着した。
にせ首で彼は騙されるだろうか?哀れな源蔵は、刀の柄に手をかけ、もし
この計画が見破られたら、その役人か自分自身に一撃を加えようと
身構えた。役人は、目の前に置かれた恐ろしいものを取り上げ、じっくりと眺め、事務的な口調で、その首は本物だと述べた。
その夜、一人になった家で、母親は誰かを待っている。彼女は子供の
運命を知っているのであろうか?彼女は戸口が開くのをじっと見守って
いるが、子供の帰りを待っているのではない。彼女の舅は長い間道真から
恩顧を受けて来た。道真が流罪になってから、彼女の夫はやむをえず一家の恩人の敵に仕える事になった。しかし、その息子であれば、祖父の主君の
為に役立ちえたのである。
*********************************引用終わり*******************************
南部藩士の三男坊として生を受け、江戸末期から明治、大正と生きた武士階級出身の人の視点からは、日本の道徳教育の根幹は武士道にあると感じ、その例として「切腹」や「忠義」を海外の人々に紹介した事は理解できる。
ただ、この情報を発信するに至った欧米の人々が信仰するキリスト教では 自殺は倫理的に 、また宗教的に 許されない行為とされ自殺には否定的で
ある。
また、自殺者の葬儀典礼を 制限したり自殺者からの 捧げ物 ( 自殺者の遺品
など ) を受け付ける事を禁じたりもしている。
一方で、キリスト教の自殺感は、常に自己犠牲の可能性を認めてきた。 生の危機に直面した限界状況で 、人が他の人の生命を救 う為に自分の生命を
捧げることは倫理的に容認される。
(自殺の倫理:浜口吉孝 第 7 回 カトリッ ク社研 中部 セ ミナ一より )
自殺に対し否定的な世界の人々に対し、切腹のシーンは当時の欧米人の
目にはどのように映ったのであろうか、又、お世話になった方を救う為とは
言いながら、菅原道真の子供の代わりに我が子を捧げてしまう夫婦の
気持ちを慮ると、西洋人の視点から日本は素晴らしい精神の持ち主の国で
あると賞賛してくれる人はどの位いたのであろうか、気になるところで
ある。
ここで、現代に立ち戻って、今の道徳教育はどのようになっているので
あろうか? 今でも神社やお寺に通って、人間の行うべき道を学んでいる
人は、残念ながらそう多くはないであろう。僕の小さい頃は学校の科目に
「道徳」があり、週に1講(50分)くらい先生の話があった。ただ、全く
心に残っている話はない。僕が小学生の頃は、何処の小学校も校庭に
二宮金次郎が、柴を背負い本を読みながら歩く姿の像が有ったものである。小さいながらにも、時間を惜しんで学ぶ姿は、誰が何も言わなくても、
小さな少年の心には、心に残るものが有った。
多くの人は、どちらかと言えば、親や祖父母から、小さい頃、言われた
言葉で道徳教育(生きていく為の注意事項と言えるかも)を受けて来たの
ではなかろうか?
例えば、
近所の人に出会ったら「こんにちは」ちゅうて挨拶するねんで。お前は
知らんでも、世間の人は、あれはxxさんとこの子やさかい、ちゅうて
知っていやはんねんで。
もっと早よう行け。皆が集まる時には、人より遅れてたらあかん。
皆に迷惑かけたらあかん。遅くとも十分前には着いてんとあかん。
威張ったらあかん。自慢ばっかりしとる奴は、みんな失敗しとる。
いつまでもあると思うな親と金。無いと思うな運と災難、やでよ!
けじめを持て。けじめの無い人間が一番あかん。いつまでも、だらだら
して居たらあかん。バチィとする事してから、それから何でもしな。
親しき中にも礼儀あり。どんなに気を許した仲でも礼儀を忘れたら
あかん。
男が失敗するのは酒と女と博打や。
ハンコちゅうもんは、むやみやたらと何処にでも押すもんではない!
人には金貸したらあかん。その時はニコニコでも、返してくれる時に
喧嘩の種になるだけや。やるんやったら別やけど。
「不言実行」 まず、する事してから物を言え。
口ばっかりで責任感の無い人間ではあかん。
仕事場は戦場や。生きるか死ぬかの戦場や、思うて仕事せなあかん。
などなど。
学校での「いじめ」がよく話題になるが、これは、日本に道徳教育が
きちんとされていない事が原因ではないかと僕は思えてならない。昔の様に
親から躾を受ける事が上手く機能していないのではないか。
親が忙しすぎて、子供の教育にまで気が廻らない状況に陥っているのかも
しれない。また、子供の側も塾や習い事に忙しく、おおらかに時を過ごす
事が少なくなっているかではなかろうか?
いじめる側に回る子の親の側の生活態度も気になるところである。
近所付き合いのある方や親戚の方に対し、悪しざまに子供の前で夫婦が
何とはなしに言い合っている事はないのであろうか? 子供は親の鏡とも
言われ、親の仕草、考え方、そして世の中の有態をよく見ていて真似ながら育っていくものである。また、最近のSNSでの中傷も、学校でのいじめの
延長線上にあるように思える。
そこで提案だが、小学生に対し、授業の中で紙芝居や漫画を使いで尊敬を集める方の話をするのが良いのではないだろうか? 「代表的日本人」に
あがっている、西郷隆盛や中江兆樹、上杉鷹山、二宮金次郎などの偉人伝が良いかも知れない。日本中をくまなく歩き測量して、初めて日本地図を作った伊能忠敬も候補に挙がるのではないだろうか。
ただ、今のTVゲームに馴染んだ子供たちが興味を抱くかも疑問なので、
彼らの話をしてもピンとこないかもしれない。例えば、スポーツや科学の
分野で功績を挙げた人(例えばノーベル賞受賞者)の話でも良いのではなかろうか!
ただ、対象となる人は既に亡くなった方が良いであろう、今生存している人だと、その方に要らぬ迷惑をかける事になるかもしれないからである。
さてさて、日本の道徳教育は、一体どこに行ってしまったのだろう!
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