オリンピックについて、「何のために」を問う

  研究会などの集まりに参加していて、私は良く「それは何のためなのか?」という問いを発する。情報発信は何のためにするのか、議論は何のためになるのか、会員増の働きかけは何のために行うのか、などなど。

 限られた時間で限られたタスクのための議論の場だったりすると、明らかに「メンドクサイ」という空気が場を覆う。会合によっては、爺さんは黙ってろよ、的な棘すら感じることさえあったりする。

 こっちは時間がないんだから、要は決めることさえ決めりゃ良いんだよ。空気に任せた有無を言わさないがぶり寄り。いつのまにか問題意識はすでに共有されたことになっていて。

 議論を端折って決めたことが後から焦げ付いても、お互い納得の上でメンドクサイ議論を省いたんだから、まあ一蓮托生だよね、的な期待値は傲慢さの表れだと思う。

 オリンピックについても、今だからこそ問いたいのは「何のためにそれをするのか?」というかなりメンドクサイ話だ。コロナ禍中にあって、ワクチンはシステムのトラブル続き、緊急事態宣言も先が見えない中で、オリンピックをやるなんてどうかしてる、という圧倒的多数意見に対して、敢えてモノ申したいのは「日本は明日を考える余裕すら失ったのか?」ということ。

 考えてみれば、20世紀のオリンピックは傷だらけだった。戦争や国際対立に翻弄され、中止やボイコットが当たり前のように繰り返された。オリンピックなんて所詮その程度のものだから、人類にとって未曽有の危機であるコロナ禍で中止になるのは当たり前、今実施して得られるものは何もない、そんな考えがろくに批判すら許さない空気となって充満している。議論している暇なんかないんだよ、と。

 似たような風景を以前にも目撃したという気がする。東日本大震災後、日本はさしたる議論もなく原発を止め、旧式の石炭火力発電を再稼働させ、CO2を出しまくって急場を凌いだ。その後、原発再稼働に加速度はかからず、再生可能エネルギーへの転換も進まず、世界に比べて高効率であるという自慢の石炭火力発電は相変わらず生きている。

 結果としてCO2削減は進まず、皮肉なことに2030年に向けた46%削減という目標を楽にする方向へと働いた。参照年である2013年は、原発停止と石炭火力の稼働でCO2がぐっと増えた年だからだ。

 日本と同じか、あるいはそれ以上の深刻さでコロナ禍と戦った欧州は、それでもパリ協定への取り組みを減速させることはなかった。むしろその政策文書に持続可能性への強い思いを高らかに唱えたのだ。

 オリンピックを全力でホストすることで、日本は日本なりのやり方で明日への覚悟を世界に知らしめることができる。明日の世代に、たとえこんな時代でも活躍する場を与えることで、コロナ禍と戦う気概と未来へのコミットメントを示せるという、他の国には望んでも与えられない絶好の機会なのだ。

 確かに運営の負荷は何倍にも上るだろうし、観客を制限して実施する大会は大赤字になるかもしれない。何より新規感染者の増加は依然として懸念される状況だ。

 他方で、全力で取り組むワクチン接種が、オリンピックの時期になれば少しずつでも成果をもたらしていることだろう。それがどこまで進むのか、まだ安心できる要素は少ないが、それでも日々改善される方向にあることは確かだ。

 地震にやられたから、原発事故があったから、コロナ禍だから。自らに対して進んで言い訳を許すような土壌はいつの間に蔓延したのだろう。護憲を唱える者たちは、それで世界に名誉ある地位を占めることができるとでも?

 日本は、日本のやり方で、世界に範を示すべきである。有事にあって世界平和をなお希求するその姿を、しっかりと訴求すべきなのだ。そのためにこそ、オリンピックは開かれるべきなのだ。

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