趣味は読書です――本当に?

母の再婚相手の唯一の善行は、小学校入学前の私にミヒャエル・エンデの『はてしない物語』をプレゼントしたことだ。読書が好きな連れ子に、入学祝いにあかがね色のそれを渡すのはセンスがいい。最初で最後の善行だろう。
6歳児には難しそうなその本に一気に引き込まれ、数日で読み終わった。
それから私は堂々と「本が好き」と言うようになった。
なんてったって私は『はてしない物語』を読破したのだから。

それからずっと「趣味は読書」だと言い続けてきたが、最近怪しくなってきている。というよりかは、趣味という言葉に引っかかるようになってきた。

「趣味」って、ウソの言葉ではないか?

楽しみとして愛好する事柄。
便宜上「趣味」という言葉を使っているけれども、それは余暇の時間になにをして過ごすか、以上の意味があったり、それなりに連続性があるあるジャンル、という意味だったりする。読書なら、どんな本を、どんなジャンルを、どんな頻度で、どう読み進めているか……昨日今日、知らないなにかを手に取った、それが楽しかった、ということを趣味と呼んでいいのか憚られる。実りがないといけない気もする。

趣味は読書です、という度に、なんだか変な気がする。
本を読むことが仕事にもなった今、純粋な楽しみとして愛好しているとは言い難いし、なんでも読む!という気力も失せてきた。なによりうつ病で頭はぼーっとしていてすぐ疲れる。疲れる。ただ疲れる。
インターネットには様々な趣味人がいる。その中で私は趣味は読書ですと言っていいのか、迷うこともある。本は読む。読むけど、趣味という言葉に当てはめていいものか。
じゃあ他になにかあるのかと言われたら、別に人になにか伝えたいほどの、自分を表すなにか、みたいなものはない。「趣味」に自分を表すものはなにか、という意味まで付け加えられている!恐ろしい。恐ろしい言葉だ。

趣味。

できるだけ、心が「豊か」な生活をしたい――そう思うも、現実からの逃避は「楽しい」と言えるかどうかもわからない。少し元気なときは手芸をする。下手だがなにかが作り上がる。無意味なものでも形になる。面白くはある。でも気力は続かない。作業療法も一定以上のうつには効かない。

ウソではない言葉を使いたい――真実という言葉は少しきな臭いが、ほんとうのこと、豊かなこと、空虚じゃないもの、どこかにあるはずのもの。私はただ、思考の自家中毒で苦しみたくないだけなのに。後ろを向きたくない、前を向きたい。わかっている、理性ではわかっていても。

趣味は読書です。たまに手芸をします。たぶん、本当です。

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