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夢の通ひ路人めよくらむ【小説ノック 18】

 ソフトウェアの保存マークを押す。これで、東洋思想史のレポートがやっと完成だ。呻きながらノートパソコンの時刻表示を見ると、夜の十一時をしっかりと過ぎている。明後日の提出期限には、何とか間に合わせることができた。あとは、明日データを持って行って印刷するだけ。久しぶりにてこずった課題は、達成感とはまた違ったなにかを感じさせる。
 パソコンをスリープモードにして、大きくため息をついた。ちゃぶ台の上の資料を片付けて、立ち上がる。夕食も風呂も済ませてはいるけど、気が高ぶっているのかすぐに眠れる気がしなかった。
「あー、しんどい」
 なんかおっさんみたいだけど、しょうがない。疲れたんだもの。一続きのキッチンへ向かって、意味もなく冷蔵庫を開けてみたけど、何かが食べたいわけじゃなかった。口寂しいというか……ううん、それよりも気持ちを切り替えてリラックスする必要がありそうだった。
 どうしようか、とジャージのポケットから携帯を取り出す。少し迷って、メール画面を開いた。友人たちからのメールを見ると、雑談のような内容が並んでいる。牧本さん、細島くん、北川先輩、星野ちゃん。あ、檀さんからのメールもある。
 星野ちゃんと同じ学科の檀さんは、大学ではちょっとした有名人だ。いつもぬいぐるみを持ち歩いている、ひと際背の高い男子。身長に関しては、私も人のことは言えないけど。
一般教養の授業で同じグループになってから、時々やり取りをしているけど、知人どまりだ。正直に言うと、私は檀さんのことを気になっている。いや、好きとかそういうんじゃなくて、失礼ながら変わった人だなあというか。
 自分からはあんまり喋らないけど、こちらから話しかけるとどんな話題でも卒なく返してくれるし。多分もとから勉強が好きで、教養があるんだろうな、と話していて思う。
ちゃんとしてるというか、特に一限目の授業に早くから来てるのは本当にすごい。まあ、そのわりには全体的に休みがちだったりもするんだけど。単位大丈夫なんだろうか、と勝手に心配してみたり。
 ぬいぐるみに関しては……成人男性がぬいぐるみを持ち歩いているということは、のっぴきならない事情があるんじゃないかと思う。どんな事情かは知らないけど、わざわざ詮索するようなことでもないだろうし、聞いてはいない。そんなことどうでもよくない? と騒ぎ立てる友人たちに思ったりもする。
『借りてた本返します。明日図書館で、何時がいいですか』
 檀さんからのメールには、そう書かれている。……あ、そういえばそうだった。お気に入りの小説、確か貸したのは一か月前くらいじゃないだろうか? こないだ探したときに、無いなあ、おかしいなあと思っていたのだ。
明日は一二限が入ってるから、二限終わりだと都合がいい。返信をしようと思って、今が深夜だということに気が付いた。
メールが届いた時刻を確認すると、八時半。しばらく放置してしまったらしい。申し訳ない。
「寝てるか…?」
 なんとなく、檀さんは早寝早起きそうなイメージだ。まあでもメールだし、と返事を書き始める。それに、今送っておけば明日起きた時に見てくれるだろう。
『二限終わりなら、大丈夫ですよ』
 返信して、携帯をポケットに戻す。もう無理やり寝ちゃおうかなと首を回していると、ピロリンと初期設定から変わらない着信音が鳴った。
「うっそ、はや」
 慌てて携帯を確認する。
『では、明日二限終わりに、図書館で』
 簡潔な文面だ。ということは、檀さんまだ起きてるんだ。意外。私はすぐさま返信することにした。
『まだ起きてるの? 遅いね。私は東洋思想史のレポートをしてました。やっと終わった!』
 枕を抱いて、ベッドにうつぶせに寝転ぶ。ごろごろしながら待っていると、やはりすぐに着信音が鳴った。
『眠れなくて』
 あらま。ん-と、どうしようかな。
『いつもそう?』
『たまに。明日は頑張って起きます』
 授業休みがちなの、そういうことなのかな。ふうんと思いながら、文面を考える。というか、昼前に頑張って起きますって、大丈夫なのだろうか?
『明日、遅くてもいいですよ?』
『いいえ。頑張って起きます。無理してでも起きないと、後々つらいので』
 それはそうかもな。人と会う用事があるからできることって、結構ある気がする。身なりを整えたりとか、それこそ、ちゃんと起きたりとか。
『そう。じゃあ待ってます。眠れそう?』
『あんまり』
 成程。私はふと思い立って、アドレス帳を開いた。スクロールしていくと、今まで一度もかけたことのない、檀さんの携帯番号が記録されている。
 番号を選択して、通話ボタンを押す。しばらく鳴っていた呼び出し音が途切れたと思ったら、通話中になった途端にがさがさ! という音がした。何?
「……大丈夫ですか?」
《携帯、落としました。大丈夫です》
 くぐもった、焦ったような檀さんの声。これはちょっと、失敗したかも。
「いきなり電話して、ごめんなさい。ちょっと話せたらいいかなって」
《はい》
 反応が薄い。
《あ、ごめんなさい》
「いえ、こちらこそ」
《緊張、してて。あと、俺は、電話が苦手なので、上手く話せない、と思います》
「あー、成程」
 それなのに、通話に出てくれたのか。なんか、申し訳ない。そうか、電話が苦手な人というのも、いるんだな。
「ありがとうございます」
 素直に、感謝の言葉が口をついて出た。
《え?》
「いえ、こちらの話。あの、ちょっとお話ししましょう。なんでもいいんです。どうでもいいこととか」
《はい》
 単純な返事だったけど、なんとなく微笑んでいるような声色だ。よかった。
 通話は、主に私が喋って、檀さんが短く相槌を打つかたちになった。共通の友人の話や、地元の話。檀さんは盛り上がる感じではなかったけど、しっかりと聞いてくれているらしい。
「そういえば、檀さんは地元どこなんですか?」
 私の実家は今の大学に近いあたりだから、地元という地元はない。ただ、檀さんが地方出身だということだけは聞いていたから、軽い気持ちで質問した。
《あの、るり湊市ってとこなんですけど》
 檀さんの口から、知っている地名が出てきて驚いた。
「O県の?」
《はい、知ってるんですね》
「知ってるというか、母の出身地で」
《え、偶然、ですね》
「そうですね」
 なんだ、そんな共通点があったなんて。もしかすると、もっと親しくなれる人なのかもしれない。ふっと心が軽やかになって、ほぐれていく。
 この気持ちのまま眠ってしまいたいような、もっと話をしていたいような。ああ、でも。


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