人を狂わす輝き(SF短編) 4

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「お前、気づかなかったか」
「全然気づかなかったです」森内は再び操縦席の隣に収まっている。まだ森内の頭は混乱していた。目の前には、揺らがずにきらめく無数の星々と、ガス状に漂い広がる紫の星雲。天の川はさっと粉でひいたように、いびつな帯となって縦に走っている。
 それはまぎれもない現実の光景であった。
「浅井を探してる間も、重力はずっとあった」森内の声は口からこぼれるように出た。グループセッションでは、森内をからかう話題を中心に雑談が繰り広げられている。比嘉がちらと横を向いた。
「そうだな、重力って常にあるよな。だけど、日常生活を送る俺たち、そして小説、映画に登場するどんな人物も、わざわざ『今、自分たちは重力の影響下にあります』とは言わないよな。あまりにも当たり前のことだから」
 森内は黙っていた。セッションの半透明画面に、きっと比嘉が視線で手際よく操作したのだろう、音量調節バーが現れ、比嘉、森内以外の声が小さく抑えられた。ヘルメット内の喧騒が取り除かれると、比嘉は諭すような口ぶりで言い始めた。
「1G航法って言ってな」
「1G航法」耳慣れない言葉に、森内はまたも聞いたままにつぶやく。
「そう。お前、もちろんエレベーターに乗ったことあるだろ。上昇しようとするエレベーターを想像してみろ。エレベーターが上がり始めるとき、体が下に押さえつけられるように感じるよな。あれはエレベーターが加速している、つまり速度が徐々に速くなっているから起こるんだよ。慣性力って言ってな、慣性力は加速している物体にはもれなくはたらくんだ。エレベーターが加速しなくなったとき、つまり一定の速度になったとき、慣性力は消える。これも体験したことあるよな。一階から十階に行こうとするとき、エレベーターが二階あたりに上がるまでは、体が少し重くなるけど、それ以降はふっと慣性力が消えて、普段の重力が戻ってくる。1G航法ってのは、これを利用してるんだよ」
「私が下の保管室に行って全方位映像が映り始めたとき、ポッドは月に向かい始めたんですね」森内は少しずつことの全貌を掴んでいった。
「その通り。その頃の操縦が一番難しかったな。だって、上昇すればするほど地球の重力は弱くなっていくからな。あまり吹かし過ぎると下に押さえつけられる力が強くなって、下にいるお前にばれちまう。だからこっちはスクリーンを見ながら、何とか地球の重力と慣性力を加えた正味の力が1G付近になるよう調節するのに必死だったよ。地球の重力圏を出た後は楽なもんだった。飛行機が全自動の水平飛行に移るようなもんだな。お前には下で先日録画した全方位映像を見せておいて、こっちでは、ちょうど慣性力が1Gになるようにプラズマジェットを噴射させながら、月に向かって一定に加速していけばいいんだから」
「地球上で物が落下するのと同じ加速度でポッドは進行し続けたわけですね。そうすれば、ポッド内の慣性力は地球の重力と同じになる。でも、それだと最終的には物凄い速度になりますね」
「まさか、月に激突するまでポッドを加速させると思ってないよな」
 そうか、墜落だと思ったあの時。森内は降参とでも言うように、どさっと背中を背もたれに預けた。
「月までの平均距離は約38万km。詳しい計算は省くけど、中間点の19万kmまで、お前の言ったように地球上で物が落下するのと同じ割合で進むと、大体104分かかるんだ。確かにその時点では凄い速さだよ。音速なんて目じゃない。確か秒速61kmだったかな。そこで船体を反転させるんだよ。お前には悪かったけどな、その時だけは加速を切って、一旦無重力状態にするしかなかった。この後はもうわかるよな。今度は下降するエレベーターと同じで、ポッドは月にケツを向けながら減速を始めた。もちろん、船内に地球の重力と同じ慣性力がはたらくような加速度でな。今もそうだよ。今もポッドは減速中だから、船内には地球の重力と同じ大きさの見かけの力がある」
「横方向にも慣性力がはたらくときがありました。映像で浅井が見つかったと報告が入って、ポッドが主立坑に戻ったときです」こう言ううち、森内は先輩の反応をある程度予測できた。案の定、比嘉は操縦桿を掴み、得意げに左右に振って見せた。横へ大きく振動する船体に身を任せると、体は静かな水底の海藻のようにゆらゆらと揺れた。
「みんな、そうやって三時間近く『浅井を探す振り』をしてたんですね」「そういうことだ」
「どうだ、森内」五人の音声が元に戻され、黒池がさも嬉しそうに語りかけた。「月は初めてだろ」
「はい」黒池の言う通り、森内にとって月世界は未知の体験だった。かと言ってディズニーランドに招待された気分にもなれず、それ以上どのように反応したら良いか判断出来なかった。
 いまだセッションで楽し気に言葉を交わすメンバーを眺めるうち、森内の心にも沸々とおかしさが込み上げてきた。「外崎さん、こんなことやって、上司に怒られないんですか」
 訊かれた外崎はカメラに手を伸ばし、室内をぐるりと映して見せた。「今日、私は非番なんです。だから管制室になんていませんよ。今は自宅から撮影してるんです」
 再び歓声のような笑いが起きる。
「森内さんに気づかれなくて良かったです」割って入ったジャメルの一言で この日一同の爆笑は最高潮に達した。
「森内」何度目かの陽気な黒池の声。「実は、もう俺たちは月にいるんだよ。さっき大川が地球に戻るみたいなことを言ったけどな、逆だよ。あの時は月に向かってたんだ、浅井と一緒に三人でな」
「浅井もいるんですか」セッションに参加中の浅井の映像を見ると、確かにもうその顔は明るい光に照らされている。あいつはきっと、ヘルメットに布でも被って、わざと陰気臭い雰囲気を演出していたんだろう。浅井は森内の声に反応して、してやったりとでも言うような余裕の笑みを浮かべてみせた。
「お前と浅井にプレゼントがあるんだよ」黒池はさらに嬉しそうな顔をした。「一泊二日だけどよ、今日と明日は特別休暇だ。まだまだ新米ながら、二人はがんばってくれてるからよ。俺たちが研磨作業に立ち会う間、お前らは施設の見学も兼ねて、その辺をぶらぶらしていろ。これは社員旅行じゃないから、あまり気を張らなくていいからな。先輩に酒ついで、それで余興にタコ踊りなんかする必要ない。お土産屋もあるから、たまには二人でのんびりするといい」

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