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胡乱の者たち(長編) 6

 2019年3月23日(土)

 東京駅前で北原を拾い、丸多は再びアクセルを踏んだ。駅舎前の広場では、思い出作りに余念のない人々が、スマートフォンに向けて思い思いのポーズを取っている。
「もうすぐで一年経ちますね」
「何がですか」北原はシートベルトをしながら訊いた。
「ここから歩いて十分くらいですよね。私がシルバさん、北原さんと初めて会ったところ」「そういえば、そうですね。もう一年ですか、早いですね」
 休日のオフィス街は人通りが少なく、よって穴場も多い。閉店間際のカフェは貸し切り状態になることもある。
 時刻は13時。パジャマか普段着かわからないものを着ている北原に、「今日この辺は空いています。良かったら今夜どこかに寄りませんか」とは、まず言わない―――丸多は代わりに、忌まわしいあの共通の話題を出すことにした。
「北原さん、おととい観た映像覚えてますよね」「はい」「殺害の機会は参加者全員にありました。シルバさん含めて」「シルバも含めてですか」「はい」
 信号に差しかかり、硬いブレーキを踏む。「シルバさんが自殺をした場合も含めて、です」
 それを聞いて北原は浮かない表情をした。北原がこの話を理解しないことを丸多は事前に心得ていた。彼は課題の発表でもするように、一つ一つの言葉を丁寧に吐き出した。
「あくまで可能性の一つにある、ということです。もちろん、まだ証拠なんか一つもありません」
 車が走り出し、丸多がさらに言う。「最も早い段階で殺害機会を持ったのは、わかりますよね、ニックさんです。彼はシルバさんが部屋にこもる直前に、一緒に部屋に入りました」
「ニックは、シルバの部屋に一分も入ってなかったんじゃ―――」「もちろん、事実はそうです。短時間ながら殺害の機会を得た、ということです」「ニックが出た直後に、ドアのすき間からシルバの声がしませんでしたか」「しました。大いにしました。もし、ニックさんが手際よく殺人をして、シルバさんの声を何らかの音響機器で再生した、という結末だとしたら、全くもって馬鹿げています。いや、馬鹿げているどころの騒ぎじゃないです」「ニックがシルバの声をあらかじめ録音していた、ってことになりますね」「あくまで可能性として置いておきましょう。おそらく置いた後、二度と取り上げる必要のない可能性でしょうけど」「内側からどうやって扉の鍵をかけたか、説明がつきませんしね」「その通りです。そして」
 車はビル群の間を縫って進んだ。「次は誰だったか、覚えてますか」
 北原が考えようとするところ、丸多が先に言った。「明らかであるのは、ナンバー4さんです」「バッテリーを交換したときですか」「仕方がないといえば仕方がないですが、それも当然可能性の一つです」「本人は、映像が途切れた時間は相当短い、ということを言ってましたね」「あくまで自己申告ですけどね。今は信用するしかありません。まあ映像では確かに、十分も二十分も途切れていたようには見えませんでした」「その場合も、内側の鍵の説明がつきませんね」「そうですね。シルバさんに鍵を開けさせて殺害したとしても、鍵を閉めてまた戻ることはできません」
「すると、次はキャプテンですね」北原も話の流れを理解し始めた。
「はい。シルバさんの部屋の扉を破り、最初に突入したのがキャプテンさんでした」「あいつらが突入する直前までシルバは生きていて、部屋に最初に入ったキャプテンに絞め殺されたという可能性ですね」「話としてかなり無理がありますけど、起こる可能性がゼロとも言い切れません」「その場合、扉の鍵の問題はなくなりますね」
 首都高に乗ってから、丸多は肩の力を抜いた。これで、しばらく歩行者や路上駐車の車に多くの注意を払わなくて済む。
「モンブランさんの機会は」丸多が言うと、北原がそれに被せて言った。
「人工呼吸をしていたときですね」「はい。映像にはよく映ってませんでしたが、その息づかいがスピーカーから微かに聞こえました」「その場合、家から運び出されたときもシルバは生きていた、ということですか」「この場合はそうなります。人工呼吸をするふりをして、彼の首に手をかけた、という可能性です」「一瞬、映像にシルバの死体が映りましたけど、それが演技だったとしたら」「映画祭の主演男優賞並ですね。なので、このケースも十分馬鹿げています」
「モジャはいつですか」北原は横を向いた。
「モジャさんの機会は、買い出しのために外に出たときです」
 北原の疑問が、停止する空気としてそこに漂った。それが言葉になる前に丸多が言った。「これも古典的な手段ですが、『窓枠ごと取り外し可能』であった場合です」「右の部屋にあった窓を枠ごと外した、ということですか」「そうです。そして、部屋の中で殺害を実行した後、再び出て、窓枠を元に戻した、ということです」「それだと、シルバが部屋にこもっている間、外に出た人全員にも機会があった、と言えませんか」「言えますね。実はこの場合、モジャさんに限らず、メンバー全員に殺害の機会があったことになります。彼らは、シルバさんが密室にいる間、最低一回は外、つまり撮影カメラの枠から出ましたからね」「それも、かなり無理がありますね」「北原さんもそう思いますか」
 北原の口調は、答えを披露したがる子供のそれと同じだった。
「はい、家屋の一部は全焼せずに残っていたわけですから、もし『窓枠は取り外し可能』だったとしたら、残骸を調べた警察がとっくにそのトリックを見破っているはずです」「まあ、何とも言えませんけどね。シルバさんがいた右の部屋はほとんど焼け落ちていましたから、窓枠が壁にはまった状態で焼けずに残っていたかは、今となってはわかりません。それと、キャプテンさんが扉をこじ開けて中に入った後、窓も含めて室内を隅々まで調べていました」「キャプテンはそのとき調べるふりをしていた、とか」「当然、それは考えられないことはないです」
 丸多はそこで息を吸い、語気を強めた。
「以上が、単独犯である場合です。複数犯の場合、今北原さんが言ったように例えば、モジャさんが窓枠を外して殺害し、キャプテンさんが発見時、窓枠が固定されてあるように見せる演技をする、といったことが考えられます。ただ犯人が二人の場合、考えられる犯人の組み合わせは十五通り、三人の場合は二十通り[*1]、と切りがありません。なので、こういう型にはまった前時代的な推理は、この辺でやめておきましょう」
「丸多さん」北原は真面目な顔で言った。「ナンバー4が途中でバッテリー交換をしましたよね」「はい」「その前後の映像の撮影日が違う、ということも考えられないですか」
 丸多は感心したように唸り、真っ直ぐ前を見ながら少し考えた。
「それは、東京スプレッド五人全員がグルだった場合ですね。その場合、バッテリー交換前の映像と後の映像が繋がるように、五人全員で芝居をする必要がありますから。でも、それによって新たな殺害方法が生まれるとも思えません」
「あとドラマでよくありますけど、凶器がどこにいったか、とかいう問題もありますよね」
 話の落差に、丸多はつい噴き出した。「今回の事件では、凶器は問題にならないでしょうね。絞殺に使われたのは『ひも状のもの』ですからね。犯人が殺害に使ったあと、ポケットに入れて、後でどこかに捨てればそれで終わりです。二度と出てこなくても不思議はありません。もちろん、シルバさんが自殺した場合は別ですが。
 それよりも『無くなった指輪』、『青い火』、『中央の部屋で唯一、最初から開かなかった扉』、これらの方がよっぽど不可解です。今のところ、それらを事件に結び付けて合理的に説明することができませんから。それに、他にもいくらか注目すべき点があった気がします。もっとも私はまだ、それらを整理し尽くしてはいませんけどね」
 高速を降りると、素朴な街並みが広がった。オフィス街を縦に圧縮したような小ぶりな建物が、午後の日差しを浴びてのどかな空気を放っている。前回の夜に沈んだ景色と比べると、行き交う人々の顔も穏やかに見えそうであった。丸多は駐車場のあるコンビニを探し、そこに車を停めた。
「高速使うと、やっぱり早いですね。先週の半分くらいの時間で着きました」
 丸多は言いながら車から降りた。すると、北原も促されないうちに助手席から滑り出た。
「何か買うんですか」北原が訊くと、丸多は簡潔に「何か買うんです」と答えた。
 北原が飲み物や菓子パンなど物色する間、丸多は日用品が並ぶ一角をずっと眺めていた。
「シルバさんの遺品の中に」北原が横に来たとき、丸多が尋ねた。「ちょいすさんの私物が残ってたんですよね」「はい」「それって歯ブラシでしたっけ」「はい。でも、今はもうないと思いますよ」
 丸多は北原の話を受け流すようにして聞いた。そして考えた後、洗濯用洗剤と油性ペンを手に取った。
 買い物が済んだ後、丸多が下げる袋を見て北原が訊いた。
「丸多さん、食べ物買わなかったんですか」
「ああ、そういえば忘れてました」
 丸多はそう言ったが引き返そうとはしなかった。彼はそのまま後部座席の扉を開け、そこに荷物を置いた。北原は棒立ちで、その様子を不思議そうに見守っていた。
 「橋井工務店」の前に車を停めたとき、北原は「そういえば、ここも来たなあ」と、用のない卒業生のような声を出した。丸多は後ろの荷物を取って車から降りた。
「これで北原さんまでいれば、十分でしょう」
 北原も助手席から出た。「ちょいす、俺を覚えてるかなあ」
 丸多が先に外付けの階段をのぼり、その後に手ぶらの北原が従った。前回目にした禿げた塗装の扉はそのままであった。この扉の改築はこの店の優先事項の圏外にあるらしい、と再び丸多の頭に余計な事柄が浮かんだ。ただし、それは十分に日差しを照り返していて、初回に感じた禍々(まがまが)しさはいくらか薄らいでいた。
 丸多は迷いない動作でインターホンを押した。それから、遠くを飛ぶ鳥が見えなくなるほどの時間で扉が開いた。不審者を迎える橋井まどかの態度も前回のままであった。
 今回、ドアのチェーンは外されていた。
「何度も押しかけてしまい、すいません」丸多が言った。
「何ですか」マスクをかけた〈ちょいす〉が不機嫌そうな声で言った。
「シルバさんの遺品を整理してたら、ちょいすさんの私物が出てきまして」
 丸多はそう言って、先ほど買ったばかりの洗剤を袋から取り出した。〈ちょいす〉は極めて緩慢な動作でそれを受け取り、何の興味もない様子でそれを眺めた。その時間は、飛んでいた鳥がやがて卵を産み、しかもそれが孵化(ふか)するのではないか、と思えるほど長く感じられた。
「これ私のじゃないです」〈ちょいす〉は紛れもない事実を口にした。
「裏を見てください」丸多は手を伸ばし、箱を裏返すのを手伝った。「ちょいすさんの名前が書いてあります」
 それは、直前に丸多が書いたものだった。手書きの「橋井」という文字を見てすぐ、〈ちょいす〉は扉の外に箱を放り投げた。しかし、箱には封がされていて、中身は飛び散らなかった。〈ちょいす〉のその行動を見て北原が笑った。
「ちょいすさん、お時間は取らせません」丸多は全く気にしない様子で箱を拾った。「シルバさんのことで、少しだけお話を聞かせていただけませんか」
 丸多は改めて事件と自分たちの関わりを説明し、さらに〈ナンバー4〉から事件当日の動画を観せてもらったことまで打ち明けた。
「ちょっと待っててください」〈ちょいす〉は静かな足取りで、一旦家の中に引っ込んだ。丸多はその背中に、「今日の予定なんてありませんよね」と言いかけたがやめた。やがて、上下スウェットの上に紫のウィンドブレーカーを着て、〈ちょいす〉は戻ってきた。
「裏にお客さん用の駐車場があるんで、車はそこに停めてください」
「ありがとうございます。助かります」
 丸多は言われた通りに車を移動させてから、二人を連れて近くの公園へ向かった。
 テーブル付きのベンチを見つけ、三人は腰かけた。一方の長椅子に丸多と北原が並んで座り、テーブルを挟んだもう一方に〈ちょいす〉が一人で座った。丸多はテーブルの隅に先ほどの洗剤の箱を置いた。〈ちょいす〉は座席で縮こまったまま、屍(しかばね)のような目で卓上の一点を見つめていた。
「この辺に、ちょいすさんのアンチは来ないですよね」丸多は公園内を見渡した。三人から離れた広場では、少子化に淘汰されずにいる子供たちが、安そうなビニールボールを蹴り回して遊んでいる。
「大丈夫だと思います。最近は落ち着きましたから」マスクで唇の動きは隠されていたが、〈ちょいす〉の声は聞き取りやすかった。泣き声に甘えるような調子を混ぜた話し方は、相手を軽んじているようである反面、媚びているようにも聞こえる。
「ちょいすさん、昔生放送配信されてましたよね」
 丸多は出来る限り無難な話題を探したが、この程度のことしか思いつかなかった。
「はい」〈ちょいす〉はまだうつむいている。タンポポでも渡せば、なくなるまで花びらを一枚一枚もぎそうな、そんな落ち込み方だった。
「今は行ってないんですか」丸多は根気よく訊いた。
「もう辞めました」「動画で観ましたけど、非常に面白い内容でしたね。切れ味があるというか、ええと、何て言ったらいいんでしょう。私がちょいすさんを知ったのは最近なんですけど」「銀について訊きたいんですよね」
 〈ちょいす〉の口調はまさに切り捨てるようであった。そして、丸多の返答も待たずに付け加えた。
「銀のことが訊きたいんなら、初めからそう言えばいいんじゃないですか」
 丸多は〈モジャ〉のあの突き放すような物の言い方を思い出した。下手に殺人事件に首を突っ込むから、望まない毒を受ける羽目になるのだろうか、と、ここ最近の自身の運命を恨んだ。
「それなら話は早いんですが」丸多はここでも負の感情を奥にしまった。「ちょいすさん、北原さんは覚えてますか」
「覚えてます」〈ちょいす〉は北原を見ずに言った。北原の代わりにぬいぐるみが置かれていても、同じ台詞が吐かれたかもしれない、と丸多は思った。彼はそれを気にせず、そのまま話を進めた。
「三年かそれ以上前に、シルバさんが北原さんと一緒にちょいすさんの家を訪ねたそうですが、正確にそれがいつだったか覚えていますか。そのときに二人は、ちょいすさんの持ち物を届けに来たそうです」
 ちょいすは黙っていた。答える気がないのか、考えているのかわからず、丸多らも無言でいるしかなかった。やがて、〈ちょいす〉が声を絞り出すように「覚えてないです」と言った。丸多が喋ろうとすると、一瞬早く北原が言った。
「確か2015年の冬じゃなかった?かなり寒い日だったはず。俺、〈ちょいす〉の荷物持って、家に上がったの覚えてるよ」
 北原が言うのを聞いて、〈ちょいす〉は何度か小刻みに頷いた。北原はさらに言った。
「それで別れ際、ちょいすがシルバと話してたら、奥からお前のお母さんの『あんた、もう夜の10時だよ』っていう声が聞こえて」
「いいよ、そんなことまで言わなくて」
 〈ちょいす〉は右手で髪をいじりながら、短く笑った。空気が少しほぐれてきたように思え、丸多の緊張も少し緩んだ。
「わかりました。すると、ちょいすさんが高校三年だった2015年の冬に、お二人と最後に会った、ということですね」
「そうです」〈ちょいす〉は自身の言葉を噛みしめるようにして、首を縦に振った。
「下世話な話で申し訳ないんですが」と丸多。「シルバさんと知り合ったきっかけは、やはり生放送配信だったんでしょうか」
「はい」〈ちょいす〉の声は少しずつ大きくなってきた。しかし、まだ下を向いたままで、目を合わせようとはしない。丸多は続けた。
「遅くとも、ちょいすさんは高校二年生のときには生放送配信を行っていましたね」
「中学三年からやってました」
 まるで、早ければ早いほど名誉である、とでも言いたげな〈ちょいす〉の口調であった。そして、このときは丸多に言葉を継がせず、さらに言い加えた。
「私から仕掛けたんじゃないですよ」「仕掛けた?」
 急に話の方向を見失い、丸多は愚鈍の声を上げた。
「あの喧嘩凸を仕掛けたのはシルバの方、ってことだよね」北原が言い、〈ちょいす〉が「そうそう」と言った。その声には、丸多と会話をするときよりも若干多くの親しみがこめられていた。
「ネット上で」丸多が訊いた。「シルバさんから因縁をつけてきた、ということですか」
 二人のあの口喧嘩の発端(ほったん)など、丸多にとってはどうでも良かった。どんな話題でも良いので、ふさぎ込みがちな〈ちょいす〉の口を開かせたかった。
「私が雑談配信してたら、いきなりあいつから通話かけてきたんです。だから、喧嘩凸仕掛けたのは私じゃないです」「最初に仕掛けたのが、ちょいすさんでないのはよくわかりました。ちなみに、それがいつ頃ですか」「ええと」
 〈ちょいす〉は視線だけを左右に動かした。それは、卓上を這う仮想の虫を目で追っているように見えた。丸多はその姿を見て、こみ上げる可笑しさを喉の奥で押し殺した。
「高二の冬だったと思います」〈ちょいす〉の顔がようやく持ち上がってきた。
「2014年の冬ですよね」
「はい」〈ちょいす〉はまた自己弁護するように話し出した。「別に本気で口喧嘩してたわけじゃないです。悪口言われてむかつくときもありましたけど、基本全部ネタとして言ってたんで。それは銀も一緒だったはずです」
「ええ」丸多は柔らかい物言いに努めた。「それもよくわかってます」
 どうやらこの時間、腫れ物に触るような感覚からは逃げられない。丸多はさらに慎重に言葉を選んだ。「その後、ちょいすさんはシルバさんから選ばれましたね」
 〈ちょいす〉はこのとき丸多の顔を見た。表面上睨んではいたが、甘える表情を作れない野良猫のようでもあった。そして言った。「どういうことですか」
「シルバさんは、世間の数いる女性の中からちょいすさんを選び交際を始めた、ということです。間違っていますか」
 丸多が言うのを聞いて、〈ちょいす〉は首を大きく横に振った。否定するのではなく、言うべき言葉を決めかねているようだった。丸多は居住まいを正しながら、その時点で彼女の機嫌を損ねていないことを確かめた。
「まあ」〈ちょいす〉は言葉を、飲み込めない食べ物のようにして転がした。「選ばれた、というか、私が選んだというか」
 丸多にとって今の場合、「どっちが選んだか」も問題の外であった。彼は少しずつ論点をずらしていった。
「シルバさんから交際を求めた、と推察します。お二人の立場を考えた上で、個人的にそう思うだけなんですが」
「まあ、そうです」「そうですよね。それから」
 丸多は話す速度を少し上げた。「一転して、お二人は親密になりましたね。どういう経緯で直接会うようになったかなんて、ここで訊くつもりはありません。野暮ですし、そんなことほじくり返されたくないでしょうし」
「喧嘩凸の後、あいついっつも『さっきはごめん』って通話かけてきて」
「ええ、ええ」
 丸多は〈ちょいす〉が「馴れ初め」について語るのを遮ろうとしたが、すぐに考え直し、しばらく耳を傾けようと決めた。それは「何回かの喧嘩凸配信を経て、シルバから東京散策に誘った」という、誰にでも想像できる内容であった。丸多は相槌を打ちながら、気づかれないようにスマートフォンの画面を確認した。時刻は15時を回るところだった。
 それから〈ちょいす〉は、シルバと二人で行った「外配信」についても言及した。
「お二人の外配信は」と丸多。「どのくらいの間行われたんでしょうか。ちょいすさんが、高校三年生のときでしたよね」
「外配信は」〈ちょいす〉はそこで言いやめた。上がりかけていた彼女の勢いは目に見えてしぼんでいった。話が暗くなり始める予感が誰の胸にも降りた。丸多は、あと少し話を繋げることができれば、と残りの気力を振り絞った。
「ちょいすさんは、進路についても考えなければならなかったはずですし、かなりナイーブになってたんじゃないか、と勝手ながら思います。私にも高校三年生のときがありましたし、あの頃どんなことがあったとしても、ちょいすさんに全ての責任があったなんてことはありません」
「進路は関係ないです」〈ちょいす〉は再びうなだれて話した。その言葉の裏に強がりがあるかどうか、丸多にはわからなかった。
「その年の冬に、シルバさんが北原さんを連れておうちに来ましたね」
 丸多の指摘に〈ちょいす〉は「はい」とだけ答えた。そのあと待っても〈ちょいす〉は喋り出しそうになかったので、丸多は切り出した。
「2015年の冬にお二人の関係は終わってしまった」
 〈ちょいす〉は声を発しなかったが、首だけで小さく頷いた。丸多は続けた。
「シルバさんがそれを言い出したんでしょうか」
 丸多は唾をそっと飲み、返答を待った。すると〈ちょいす〉は彼の予想を超え、言葉を切りながらも明確に答えた。
「そうです。私、振られました。高三の12月に。銀は動画を撮りたい、って言って。それが原因じゃなかったんですけど、区切りつけたいから終わりにしよう、って」
 話に論理性のかけらもなかったが、丸多はそれ以上追求しなかった。そもそも色情に論理を伴う方がおかしい。代わりに彼は相手が答えやすそうな話題を選択した。
「シルバさんは常に優しかった、と聞いています。誰に訊いてもそう答えます。ちょいすさんに対しても、彼は思いやりの塊のような男性だったでしょうね」
「はい」
 丸多は、そう答える〈ちょいす〉と北原を順番に眺めた。北原の顔は平穏そのもので、依然小さくなっている彼女が無害な仔鹿であるように見つめていた。
 〈ちょいす〉からの補足はなかった。首を傾げたい思いで彼女の言葉を待ったが、やはりマスクの奥の口は開かれなかった。
「ちょいすさん」丸多はいよいよ、あの〈ちょいす〉の半裸動画について触れようとした。しかし、言葉は喉の直前で急に詰まった。いつまでも沈鬱な彼女の姿がそうさせたのだった。
「シルバさんの事件を知ってましたか」語彙力のない子供が意図しないことを言うときのように、その言葉は尻すぼみになった。
「はい」生気のない〈ちょいす〉の声。
「いつ知りましたか」「二三ヶ月前くらいです」「びっくりしましたよね」「はい」
 三人の空気はそこで止まった。話が突如あらぬ方向へ行ってしまい、そのままどこかへと消えてしまった。丸多は場を見事に切り裂く明るい話題を探したが、うまく見つけられなかった。「そういえば、半裸で呪いの言葉吐いてる動画上がってたけど、あれ何なの?」と気安く訊くために、どれくらい親密になれば良いか考えた。せいぜい二回会った程度ではまだ早いと思い、今日の締めにとりかかろうとすると、〈ちょいす〉が言った。
「なんで私のところに来たんですか」
 答えを持っているのが丸多しかいないのは明らかだった。顔を上げた〈ちょいす〉の視線は、丸多の両目に容赦なく突き刺さった。腹をくくった女の眼光はどんな刃物よりも鋭かった。彼は何事かを答えようとしたが、口は思うように動かなかった。
「どうせ」〈ちょいす〉はマスクをちぎる勢いでまくし立てた。「私が下着だけで怨念みたいなのを吐く動画観て、来たんじゃないですか。違いますか?馬鹿で頭のおかしい女だって思ってますよね。銀に振られて発狂した哀れな女だって思ってますよね。全然違いますから。そんなんじゃありませんから。男に振られたくらいで、あんなふうになると思いますか」
「落ち着いてください」丸多の言葉が、このときの〈ちょいす〉に届くはずはなかった。女は制御できない目覚まし時計のごとく、辺りかまわず喚き散らした。
「やり捨てされたんです。それが聞きたかったんですよね。これで満足ですか?銀じゃないです。あなた達とは関係ない奴です。高三の3月に付き合った同学年の男子にやり逃げされたんです。卒業したら二度と会わないからどうでもいい、って思ったんでしょうね。男ってどこまで馬鹿なんですか?ねえ、教えてくれません?」
 〈ちょいす〉は立ち上がり、洗剤の箱を片手で掴んだ。そして、それを力の限り地面に叩き付けた。女の剣幕に、遠くで遊んでいた子供たちが一斉に目を向けた。
「馬鹿のガキども、苦労もしてないくせにただ飯食ってんじゃねえ!」
「座ってください」丸多は暴走する女を抑え、再び椅子に収めた。
 その後〈ちょいす〉は泣き声を上げ、「死にたい」と連呼した。丸多らは女の後ろで何もできず、ただ直立した。罵声を浴びせられた子供たちが近寄ってきて、捨てられた洗剤の箱を卓上に戻した。それを見て北原と丸多はそれぞれ「ありがとう」、「ごめんね」と言った。
 〈ちょいす〉はかなり長い間机に顔を伏せていた。その間丸多は、スマートフォンで時間を計っていた。彼女が再び顔を上げるまで、実に一時間かかった。子供たちはいつの間にか姿を消していた。丸多らは特に何を話題にあげることもせず、黙って辛抱強く待機していた。
「帰ってなかったんですか」起きた後の〈ちょいす〉の第一声はこれであった。
「ずっとここにいました」丸多は何事もなかったように言った。
 〈ちょいす〉から腰を上げようとはしなかった。三人を奇妙な静寂が覆っていた。そこにもはや緊張はなく、軽くて乾いた空気が流れていた。
「もし」丸多は言った。「あの半裸の動画が未だに上がっていることを気にしてるんであれば、心配しなくてもいいですよ。きっと裁判所に言えば消してくれます。未成年者の動画であればなおさらです」
 丸多は意図的に性的な話題を避けた。〈ちょいす〉が黙っていた一時間、どのような言葉をかければ良いかずっと考えていた。彼女の心を崩壊させた出来事を掘り起こしたところで、覗き穴から覗く男の印象を与えるだけである。丸多は彼女が起きる数十分前に、そう結論づけていた。
「何はともあれ」丸多は立ち上がった。「とても有益な話を聞けたと思って、感謝をしています。本当はこんな新聞勧誘みたいなやり方は好きじゃないんですが、これをあげます。使わないことはないでしょう、是非持って帰ってください」机を回り込んで〈ちょいす〉に近づいた。砂のついた洗剤の箱を膝に置くと、彼女は拒まなかった。そして丸多は言い続けた。「それはプレゼントと言えばプレゼントですし、ただのその辺に売っている洗剤だと言えば、それ以上のものではなくなります。ただし一つだけはっきりさせたいのは、それは決してちょいすさんから受けた情報の対価ではない、ということです。『気持ち』という言葉も安易に使いたくありません。強いて言えば、『今、我々とちょいすさんとの間にあるもの』でしょうか。今日三人が出会い、我々とちょいすさんの間にあったものがたまたま、そのありふれた身近な商品であった、ということです。それが特に何か意味を持つかというと、誰にもわかりません。まあ、どうだっていいんですけどね。あまり深く考えないでください。いつかまたどこかで会うでしょう。根拠はないですが、そんな予感がします」
「ありがとうございます」
 〈ちょいす〉は言うと、箱を抱え、いかにも倒れそうな様子でよろよろと歩き出した。二人は細い背中が家々の影に消えるまで、じっと見守っていた。
「ほとんど北原さんの言う通りでしたね」丸多はシートベルトをしながら言った。
「何がですか」北原はいつものように、釣り上げられた魚のような顔で訊いた。
「ちょいすさんが、あの半裸の動画を上げた理由です」「ああ」「本人があんな形相で語っていたんで、きっと間違いないでしょう。彼女は高校卒業間近に、同学年の輩から悪質な被害を受け、そして年度が変わるか変わらないかの頃にあの動画を上げたんでしょう。後先を考えることもできず、錯乱した精神の勢いによって。上げられた正確な日付までは聞けませんでしたが、まあ大体の月日がわかればいいです」
「ちょいす、かわいそうだなあ」北原がフロントガラスを見つめながら言った。
「そうですね、進学も就職も考える余裕がなかったでしょうから」

 夕方5時半。東京へとんぼ返りした二人は、暮れゆく都会を享受する間も持たず、次の目的地へと移動した。
「丸多さんお腹空かないんですか」北原は助手席と同化しそうなほど身をうずめている。
「ああ、何か食べるのすっかり忘れてました」「明日美さん、食事でも出してくれませんかね。寿司三人前くらい、あの人ならどうってことないですよね」
 手垢のついたこの北原の冗談を、丸多はきっぱりと言って捨てた。
「いや、むしろ出してもらわない方がいいです。今日に限っては」
 北区の皆川邸は一週間前と変わらず、暴力的な絢爛(けんらん)さを放っている。個々に見れば十分に上等といえる近所の住宅も、その要塞が際立つよう、何かしらの圧で縮小させられたように見える。
 丸多は北原をそこで降ろし、近くのコインパーキングに車を停め、徒歩でまた戻ってきた。
「今日は駐車場使わせてもらわないんですか」
 北原が吐き出す疑問は煙のように、その顔の周りにも漂っていた。丸多は北原の目に視線を固定し、そして口に人差し指を当てた。「北原さん、相談があります。静かに聞いてください」
 この日、白い門は閉じられていた。門柱の、目の高さよりもやや低い位置に、以前玄関で見たのとは違う型のインターホンが取り付けられている。
「丸多さん、押しますか」北原は声を低めて言った。
 丸多は迷った。そのインターホンにはカメラが内蔵されている。先週入ったとき、このカメラの撮影範囲までは確認しなかった。また、他の見えない箇所にも監視カメラが設置してあるかもしれない。
「北原さん、ちょっと待ってもらっていいですか」丸多は車道を見渡してから、再び北原に向き直った。「玄関で明日美さんと会うときは、さっき言ったように対応してください。そして私は一旦、向こうの角まで引っ込みます。明日美さんが出て、門が開いたら合図をしてください。一切声を出さず、こちらも見ずに」「もし他に誰かいないか訊かれたら、一人で来た、って言った方がいいですよね」「もちろんです」
 丸多は最も近い交差点まで小走りで行った。そして、角の住宅に半身を隠し、北原の動作を観察した。北原がインターホンを押した。丸多の首すじあたりを弱い風が掃いていった。それから北原は顔を突き出して何事かを語りかけた。門扉が自動で内側に開くところを丸多の位置からも確認できた。北原の手による合図よりも一瞬早く、丸多は駆け出した。
 整然として生活感のない庭も以前と変わらなかった。陽は傾いているが、身を溶かせるほどの闇はまだそこにはない。窓から明日美が外を眺めることも考えられる。北原が通常通りタイルの上を歩く一方、丸多は野鼠(のねずみ)のようにして壁伝いを進んだ。
 北原が玄関口についたとき、丸多は彼の背後を素早く横切った。そして速度を落とさず、壁と家に挟まれた細い通路に潜り込んだ。奥には、前回帰り際に少しだけ見た裏庭が部分的に覗いている。丸多の無言の合図の後、北原は玄関のインターホンを押した。
「北原さん、お久しぶりです」
「お久しぶりです。すみません、何度も」
 二人の形式的な挨拶を、丸多はすぐ脇で聞いていた。普段から陽がささないであろうその細道には、丈の長い雑草が伸びたまま放置されている。少しでも脚を動かせば自身の存在を知らせてしまうことになる。彼は石としての体をそこに置き、彼らの会話が流れ去るのを待った。
「昨日お電話した件なんですけど、丸多さんにお願いされて」北原の芝居は悪くなかった。少なくとも、事情を知らない者を信じ込ませるくらいの自然さは備わっていた。
「ハンカチを忘れたんですよね」明日美ははきはきと応対した。声からして、機嫌は良さそうであった。
「丸多さんは、今日は来られないんですか」明日美が訊いた。
「はい、今日は何か用事があるみたいで」「そうですか。ちょっと待っててください。今取って来ますね」
 玄関のドアが閉じられる音はしなかった。明日美が奥へ戻る足音を聞いて、丸多は草を出来るだけ踏まないようにして、細い通路を進んだ。
 前回に見たあの物置きのような物体から、およそ七八歩のところまで近づいた。丸多の体はまだ通路の出口付近にある。家の影になっていて、そこから家人に見られることはない。彼は家の白い壁に耳を当て、内部の様子を探った。リビングを歩き回る微かな足音。どうやら他に来客はないようだった。
 物体は前回のまま灰色の幕で厳重に覆われている。かなり近い距離にいるが、丸多にはまだそれが何なのか見当もつかない。
 家の奥で声がした。「北原さん、これでしょうか」明日美が再び玄関口に行ったのに違いなかった。丸多はそれこそ脱兎のように飛び出し、物体の裏側へと回った。息はあがらなかったが、心臓は警鐘のように肋骨(ろっこつ)を何度も叩いた。
 裏手にある民家の二階から自身の姿が丸見えであることに気付いた。見られた場合、家人の許可を得ていない者と認識されてはならない。丸多はズボンのポケットにわざとらしく片手を突っ込み、いかにもそれが妥当な動作であるような気安い態度を取り始めた。
 ゆっくりしてはいられない。会話の内容は聞き取れないが、まだ向こうで北原と明日美が話しているのが小さく聞こえる。北原はおそらく「ラーメンとパスタどちらが好きか」という質問よりはいくらかましな話題によって、彼女を引き留めてくれているはずである。丸多は探し当てた幕の切れ目に手を差し入れ、慎重かつ大胆に開いてみた。
 物体の正体は巨大な鉄格子であった。西日の残光が、暗い内部を遠慮がちに示した。内部にあるものの形状が、彼の視界に飛び込んで―――
「丸多さん」
 心臓が跳ね上がる、という表現があるが、このときまさに丸多のそれは、糸で急激に引っ張られたように鼓動のペースを乱した。余りの驚きにより、彼の下顎と二本の脚は文字通り震えた。
「ハンカチにアイロンをかけておきました」
 明日美は微笑をたたえて、鉄格子の横に立っていた。丸多の眼は彼女の凛とした姿を捉え、そのまま動こうとしなかった。丸多は息さえ出来なくなった口を意味もなく動かした。言葉は一切出てこなかった。明日美はゆったりと丸多に近づき、糊(のり)のきいたハンカチを丸多に握らせた。

 急激な血流の変化により、丸多のこめかみはまだうずいていた。
「丸多さん、大丈夫ですか」
「大丈夫です」丸多は運転席でまだ放心していた。
 明日美はあれから「何をしているか」も問わず、しとやかに二人に退出を促した。門の自動扉が閉じられるのを外で眺める二人は、まるで突然寝床を奪われた情けない居候(いそうろう)のようだった。
「裏庭に」隣の北原が訊いた。「怪しい直方体の物体があったんですか」
「はい」丸多はこのままではいけない、と姿勢を正した。
「それを見るための、今回の訪問だったわけですね」「はい」「中に何が入ってたんですか」
 丸多は空気を大量に吸ってから答えた。「おしゃれな家具がいっぱい入ってました。透明なプラスチックの椅子やら、真新しい木材でできた棚やら」
「丸多さんは何が入ってると思ったんですか」「いや、正直わからなかったです。わからなかったからこそ、どうしても見ずにはいられませんでした。あの人は前回の帰り際、あの幕で覆われた鉄格子を隠すようにして、カーテンを引いたんです」
 丸多はシートベルトをして、のろのろと車を発進させた。すっかり気力を抜かれた持ち主の態度は車にも伝わるらしい。それは一方通行の路上で一度エンストした。
 東京駅周辺に戻ると日没を迎えた。
「気を取り直して」この時点で丸多は立ち直った。「何か食べますか」
「いいですね」と北原。
「今日この辺は空いています。良かったらどこかに寄りませんか。エリートサラリーマン御用達(ごようたし)のレストランが沢山あります。美味しそうでない店を探す方が難しいくらいです」
 ずんぐりとしたビルディングの地下駐車場に車を停め、二人は降りた。
「また世話になったんで、北原さん何かおごりますよ。二万円の松坂牛などは無理ですけど」
「いやあ、いいですよ。自分で払います」北原は楽しそうに歯を見せて笑った。
 日本食、鉄板焼き、地中海料理、ステーキ、中華、フレンチ、台湾料理……。各店舗の自慢げな写真をまとめたパネルの前を、スーツ姿のカップルが何組も通り過ぎていく。
「しかし、今日は予想外のことが色々ありました」丸多の顔に、疲労と達成感が半々ずつ現れていた。
「本当ですね」北原が答える。「女の表向きの皮を剥いだら、怖いってことがわかりました」

 家に帰るとまず、一食五千円も取られたから、向こう一週間は炒めたもやしでも食べるしかない、と思った。PCを起動し、〈東京スプレッド〉のチャンネルを開いた。すると、いつもと趣向が違うと感じ、即座に新着動画をクリックした。タイトルには「大切なお知らせ」とだけ記されている。
 テーブルを囲んで五人が座っている。カメラは台所に固定されているらしい。全員が弔(とむら)い合戦でも始めそうな真剣な顔つきでいる。
「モジャ」端に座る〈キャプテン〉が言った。「どういうことか説明してくれる?」
 言われた〈モジャ〉はすぐには喋らなかった。重たい空気は、映像を通して丸多の小さなスタンドテーブルにも漏れ出てきた。
「もう潮時かな、って」〈モジャ〉は萎(しお)れた顔をしている。
「もっと詳しく」〈キャプテン〉が辛辣に言った。〈モジャ〉がそれに答える。
「お前らが面白い奴らだって、俺が世界で一番思ってる自信あるんだよ。高校のときから見てるし、センスは間違いなく抜群だって思ってる」
 四人全員が黙って聞いている。〈モジャ〉は同じ様子で続けた。「だけど、百年後の人たちも楽しませることができるか、って考えるとどうかな、って。シェイクスピアっているじゃん。シェイクスピアっていつの時代の人だったか知ってる?1500年代から1600年代にかけて詩とか戯曲とか書いてたんだよ。考えたら、実際すごくない?だって、400年前に書かれた作品が未だに本屋で売られてるんだよ。2000年代にもシェイクスピアの作品を買い求める人がいるんだよ。今、俺らがやってることも確かに面白いと思うんだよ。だけど、俺はもっと、何て言ったらいいんだろう、時代にとらわれず、もっと深みのあることをしたい、って思って」
「今、俺らがやってることはくだらなくてできない、と」〈キャプテン〉が言った。
「いや」〈モジャ〉は手を横に振った。「今の活動を否定するつもりはないよ。全ての人がシェイクスピアのような活動をしないといけないわけではないから。お前らのやり方はお前らのやり方でいいと思うんだよ。賞味期限が短い作品が悪いって言ってるんじゃないんだよ。そういうものも世の中にあるべき、とも思うし。だけど、俺はそろそろ自分のやり方で行きたいと思ったわけ。もっと、後世に残るような作品を独自に創っていきたい、って」
「モジャさん、脱退するんですか」〈モンブラン〉が心配そうに言った。
「具体的に何やんの?」〈ニック〉が横から訊いた。寂しそうな目をしている。
「具体的にはまだ決めてない。ただ、一人で自由に動画作りたいかな。もっと芸術性を意識してやっていこうと思ってる。そうだな、例えば、もっと映像美を追求するような動画を考えてる。まだ漠然としたイメージしかないけどね」
「そっか」〈キャプテン〉は腕を組んで椅子の背に寄りかかった。無口な〈ナンバー4〉は口をつぐんだままでいる。そして、同じように他の四人もそれぞれ、考えるようにして黙り込んだ。
「悪いとは思ってる。ここまでのチャンネル登録者は、俺一人だったら絶対獲得できなかったから。ただ、いつまでも下品なことで笑ってるようなことは続けられないかな、と思えてきて」
「もう東京スプレッドを続ける意思はない?」〈キャプテン〉が訊いた。
「そうだね」と〈モジャ〉。「本当に悪いとは思ってるし、感謝もしてる。だけどこれっきりにしよう」
「撤回するなら今のうちだよ」〈ニック〉が諌(いさ)めるようにして言った。
「そうですよ、モジャさん欠けたら痛すぎますよ」〈モンブラン〉の言い方は懇願に近かった。
 〈モジャ〉は立ち上がり、何も言わず別室へと歩いていった。残されたメンバーは互いの顔を見合ったが、やはりここでも喋り出す者はいなかった。
「考えてみたけど」部屋から〈モジャ〉の声がした。「やっぱりもう、下品なことはできない」
 〈モジャ〉はそう言いながら全裸で出てきた。股間部分には、余計なものがはみ出ないよう、マヨネーズが塗りたくられている。
「下品なのはお前だろ」一同は大声で言い、テーブルを叩きながら大きく笑い合った。
「下品なことはこれっきりにしよう」〈モジャ〉は四人に近づいた。
「どこに映像美があるんだよ」〈ニック〉が笑いで顔を真っ赤にして言った。
「やっぱりモジャさん、ただのアホですよ」〈モンブラン〉は、可笑しさにより出た涙を手で拭いた。
「そういえば」〈モジャ〉は冷蔵庫の扉を開けた。「セロリ買ってあるんだけど、食べる?新鮮なやつ」
 〈キャプテン〉は立ち上がり、〈モジャ〉の手の中のセロリを一本取った。そしてその先端で、〈モジャ〉の股間のマヨネーズをすくった。
「はい、全員でじゃんけん」〈キャプテン〉は、まだ笑い足りないようだった。「じゃんけんで負けた奴がこれを喰う」
 丸多は動画を閉じた。案の定、「大切なお知らせ」などどこにもない。
「迷宮入りかな」丸多は他に誰もいない部屋の中でつぶやいた。
 ここまで独自にかなりの情報を集めてきた自負はあった。警察以外に、これほど深く事件に関わった者は自分の他にいないだろう。だが―――それでも犯人の見当がつかない。あの日、一体何が起きたのか。シルバを殺したのは誰だ。
 マウスに触れずにいると、一年半前の関連動画が勝手に始まった。〈シルバ〉が〈シルバ〉として活動再開した頃だな、と丸多は画面をうつろな目で眺めた。
 「後輩の未来を占う」と題した動画。〈シルバ〉のチャンネルのものであるため、既に観た記憶がある。
 整頓された室内。頭から紫の布をかぶった〈シルバ〉がこぶりな机に向かっている。ありがちな占い師を演じているのだろう、机の上にはよく磨かれた透明な球が置いてある。
「次の方、どうぞ」
 〈シルバ〉が言うと、枠外から〈キャプテン〉が足音を立てずに入ってきた。Tシャツにハーフパンツというラフな格好はこのときから変わっていない。また、この頃の彼の髪はまだ黒い。
 〈キャプテン〉はやや緊張した顔つきで机の前のスツールに座った。
「お前も」〈シルバ〉はわざとらしく、重々しい声を出した。「スタークリエイターになりたいだろう」
「なりたいです」
「俺もなりたい。どうすればなれるか知っているか」
「どうやったらなれますか」
「こいつが知っている」〈シルバ〉は球に両手をかざした。「これはな、ヒマラヤから取り寄せたパワーストーンで、目を向けた者の未来を映すと言われている」
「すごいですね、これ」
 〈キャプテン〉が触れようとすると、〈シルバ〉は声を平常に戻した。
「あ、ダメ、触んないで。十万円もするから」
「十万円?」〈キャプテン〉は火傷でもしたように手を引っ込めた。
「よし、キャプテン。覗いてみろ。そこにお前の未来がある。成功したお前の姿を見出せるか」
 〈キャプテン〉は球に顔を近づけた。
「どうだ」〈シルバ〉が訊く。
「いや、自分の顔しか見えないです」
「心の目で見るんだ。もっと、そのパワーストーンのように、心を清らかにして見るんだ」
 〈キャプテン〉がさらに顔を近づけようとすると、〈シルバ〉は突然、球を片手で掴んだ。そして頭上まで振り上げてから、それを床に叩きつけた。
 その瞬間、〈キャプテン〉は叫び声をあげて、椅子から飛び上がった。
 球は割れなかった。大きく跳ね上がった後、枠外へと飛んでいった。
「何ですか、何投げたんですか」〈キャプテン〉の顔はまだ引きつっていた。
 〈シルバ〉が腹を抱え、笑いながら言った。「ただのスーパーボール」
 動画は終わった。
 コメント欄をスクロールしてみると、「誰も傷つかない動画」「シルバはルールも守ってたし面白くもあった」「生きてれば今頃、スタークリエイターだったのに」「スターになるところを見たかった」「この才能は戻ってこない」「もっとこの人の動画観たかった」……
 死を惜しむこれらの言葉の他に、追悼の文も多く見られた。
 丸多はページを一つ戻し、先ほどの〈東京スプレッド〉の動画を表示させた。こちらでは「汚い」「下品」「子供と一緒に観てしまいました」「マヨネーズは股間を隠すためのものではない」「ホントに脱退しろ」「そのうちBANだろ」……
 肯定的なコメントもいくつかあったが、それらはこういった膨大なアンチコメントに埋もれていた。
 画面を閉じると急激に疲れが襲ってきた。この日、様々な感情に触れたことで丸多の神経はすさんでいた。
 明日が日曜日で良かった。
 そう思ったとき、鞄の中のスマートフォンが鳴った。裏返ろうとするヒトデの倍程度の速さでそれを取り出した。ただし、画面を見たとき丸多の両目が一気に開いた。通話アプリの呼び出し画面に「cap.」と表示されていた。
「はい」丸多はか細い声で言った。
 しばらく応答はなく、複数の男たちの会話が遠くで聞こえた。
「もしもし」気丈だが感情の薄れた声。「丸多さんですか」
「はい」
「東京スプレッドのキャプテンです」
「ええ、ご無沙汰してます」
 少し間を置いて〈キャプテン〉が言った。
「丸多さん、この前、ナンバー4と会いましたよね」

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 6章 年表

 2015年4月  〈シルバ(GING)〉〈ちょいす〉と交際。
 2015年12月  〈シルバ(GING)〉〈ちょいす〉と破局。
 2016年1月  〈シルバ(GING)〉動画投稿開始。
 2016年3月頃 〈ちょいす〉半狂乱の動画アップ。
 2017年1月  〈シルバ(GING)〉〈美礼〉と交際。
 2017年4月  〈美礼〉のオフ会に〈東京スプレッド〉が参加。
 2017年5月  〈美礼〉怪我をする。
 2017年6月  〈美礼〉死去。
 2017年8月  〈シルバ〉正式に〈シルバ〉と名乗る。
 2017年8月  〈東京スプレッド〉が〈シルバ〉の動画に登場。
 2017年8月  北原 専門学校入学を検討。
 2018年8月  〈シルバ〉の死体が見つかる。

[*1]: シルバ、東京スプレッドの計六人から任意に二人を選ぶ場合の数は、(シルバ、キャプテン)(シルバ、ニック)(シルバ、モジャ)(シルバ、ナンバー4)(シルバ、モンブラン)(キャプテン、ニック)(キャプテン、モジャ)(キャプテン、ナンバー4)(キャプテン、モジャ)(ニック、モジャ)(ニック、ナンバー4)(ニック、モンブラン)(モジャ、ナンバー4)(モジャ、モンブラン)(ナンバー4、モンブラン)の十五通り。六人から三人を選ぶ場合も同様にして書き下すと二十通り。さらに、六人から四人選ぶ場合は十五通り。六人から五人選ぶ場合は六通り。六人から六人選ぶ場合は一通り。

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