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胡乱の者たち(長編) 4

 2019年3月16日(土)

 一度行ったことがあるとはいえ、正確な道程(どうてい)はほとんど頭に残っていない。丸多は途中何度も車を路肩に止め、カーナビの画面を見直した。
「こっちで合ってますよね」丸多が言うものの、助手席に座る北原は愛想笑いを返すだけで、結局それは独り言にしかならない。タッチパネルを搭載した最新鋭まがいのカーナビも、殺人が起きた現場へ案内するために設計されたわけではないらしく、明らかに崖である箇所をも通行可能な道として表示している。
「前は結構簡単に行けたんですか」北原が遠慮がちに訊く。
「そうですね。前来たときは事件発生直後だったんで、割と他の車の往来もあったんです。それにパトカーも停まってましたから現場の位置はすぐわかりました。でも今はもう閑散としてダメですね。どこも同じような景色で、まるで区別がつかない」
 年中人がいないのには理由がある。そこらには楠(くすのき)やバオバブなど、力強さを分けてもらえるようなどっしりとした巨木は一本もない。栄養を奪い合い痩せ細った木々が、骨にまで染み込んでくるような湿気を従えつつ、周囲の陰気臭さに永久的な持続を与えている。少なくとも、大学の卒業記念に若い男女が胸を膨らませながら来るような場所ではない。
 マップのスクリーンショットだけを頼りに車を走らせていると、右手に斜面防護用のコンクリートブロックが出現した。
「あ」丸多は見覚えのある構造物を目にし、そう声に出した。
「わかりましたか」「わかりました。この道をまっすぐです。思い出してきました。途中、脇にそれる道が何本かあって、それらを通り過ぎればもう目の前です」
 蘇り出した記憶を元にそのままアクセルを踏み続けると、ブロック塀の代わりに雑草だらけの横道がいくつか現れる。その中に特徴的な轍(わだち)のついた小道が現れ、丸多はその前で車を停めた。
 二人は車を降り、小道の入り口で立ち止まった。車窓から眺めることで二人が既に気づいていたことだが、未だにそこには厳重な規制線が張られていた。
「もう解かれていると思ってました」丸多は退屈そうに言った。
「跨(また)いで行ったらダメですかね」「不法侵入になるんで、さすがにそれはまずいですね」
 そこでは横に張られた数本もの金属棒によって通行止めが敷かれ、そしてその手前に「立ち入り禁止 山梨県警」と大きく記された立て看板が置かれている。
「東京スプレッドが言ってた」北原がつぶやく。「『立ち入り禁止の札』ってこれじゃないですよね」「絶対違います。去年の8月に私が来たときも、ここは今と同じ状態でした。この規制線は、単に警察が事件後に張ったものです」
 必然的に二人はそこに立ったまま、通行止めの向こうに目をこらした。しかし、車一台分の幅のその道は、城の本丸かまたは風俗街にでも通じるかのように曲がりくねっていて、そこから目的の家屋跡を拝観することはできない。二人の視線をはばむ樹木の向こうには青々とした稜線(りょうせん)がそびえ、さらにその上には筆でひいたような幾筋もの雲がたなびいている。
「前来たときも」丸多は、やはり面白くない様子でいる。「こうやって向こう側を眺めましたけど、まあ無理です。数ヶ月後に来たからといって、道が真っ直ぐになってるなんてことはないでしょうから」「この向こうに家屋の跡があって、そのさらに向こうに『自殺者の霊が出る』林があるんですね」
 北原にそう言われて丸多は車に引き返した。そして例のタブレットを携え、再び彼に歩み寄った。
「これが、ここ周辺の航空写真のスクリーンショットなんですが」
 丸多が持つ機械の板を北原も覗き込む。
「家屋の位置は」丸多が説明を続ける。「一目で分かります。群生する樹木の中にぽっかりと空いた土地があって、そこに一軒茶色い家が建っているのがわかります」「燃える前の画像ですね」「はい。そして、カーブを描きながら車道へ小道が伸びているのも、よく見ると確認できます」「今、僕らが目の前にしている小道ですね」「はい。ですが、家屋から車道の逆方向に」
 丸多はつい早口になるのを何とか抑えた。「何か道が伸びているかというと、何とも言えません」
 北原はさらに画面に顔を近づけ、丸多が示す箇所を見つめた。北原が顔を上げてから、再び丸多が口を開く。
「樹木が重なっていて見えないだけかもしれません。ただ、はっきり道だと断定できる箇所はこの画像だと確認できません」「あいつらが言ってた『立ち入り禁止の札』の向こうは、木が生い茂っていて―――」
「おい」怒鳴り声がし、二人は反射的にその方向へ顔を向けた。
 見ると、向かい側のガードレール脇に年老いた男が立っていた。禿げ上がった頭の側面には、短く刈った白髪がわずかに残っている。油の染みのついたスラックス、くたびれた白のスニーカー、着古して穴の開きかけたフリースジャケット、これら三点には、これまでの人生で蓄積した労苦が染み出したかのようであった。

 癇癪(かんしゃく)を起した男は、不快感を隠さずわめき続けた。
「くだらない動画でも撮るために、こんなところまで来たんだろう」
「いえ」
 丸多に反論の余地を与えず、男はなおも怒声をあげる。「最近やけに騒々しい。ここ数年でお前らのような輩が増えてきたんだ。山奥まで来て騒ぐのがそんなに楽しいか」
 二人は呆気(あっけ)にとられ、返す言葉を失った。
「用がないんなら、とっとと出ていけ。ここはお前らの遊び場じゃない」
 そこまで言葉と不満を吐き出した男は踵(きびす)を返し、丸多らが来た方とは逆へ歩き出した。丸多は咄嗟に、その背中に声をかけた。
「あの、付近住人の方ですか」
 男は少しだけ振り返り「当たり前だろ」と吐き捨てるように言った。そしてまた向き直り、「騒ぎが静まったと思ったらあれだ。全く嫌になる」と、文句を言いながら道の奥へ消えて行った。
「きっと」丸多は肩でもすくめたい心地でいた。「我々が心霊スポットの動画でも撮ろうとしている、と勘違いしたんでしょう」「まさに目の前にありますからね」
 車に戻ると、北原が心配そうに尋ねた。「これからどうするんですか」
「そうですね、今の男の人が行った方へ行ってみましょう。ネットのマップで調べたんですが、ここから200メートルほど北に小規模な集落があるんです」「そんなとこに行って、また怒られませんか」「公道を車で走るくらい問題ないでしょう。あれです、文句をつけられたとしても、六本木ヒルズに行く途中で道に迷ったとでも言えば、それまでです」
 丸多は言葉通り車をさらに進ませた。そこは、先ほどの現場付近と比べてやや開けた印象を与えた。助手席の北原が窓外を見て、「この辺りなら夜空がきれいでしょうね」と呑気なことを口走る。ぐるりと界隈を一周した後、手近な空き地を見つけそこに車を置くことにした。一応、あの怒りをまき散らしに来た老人が、まだその辺をうろついていないか確認した。しかし、その一帯において、歩く人一人の姿も目にすることはなかった。
 丸多の後ろを北原が追う格好で、二人は家々の間を縫って歩いた。
「ここにしますか」丸多が立ち止まり、一軒のひなびた家を指差した。
「何がですか」「何となく中に人が居る気がします」丸多の返した言葉は答えになっていなかったが、北原はそれ以上訊くことをしなかった。
 丸多は控えめに二三度、ガラスの引き戸をノックした。そして応答を待つ間、首を回して玄関付近を観察した。無造作に転がる植木鉢や箒(ほうき)、ダンボールなどは土埃(つちぼこり)をかぶり劣化しているが、家の脇に停めてある軽自動車だけは、よく手入れされているのか光沢を保っている。
 一分ほど待つとガラスの向こうに人影が現れ、レールのきしむ音をたてながら戸が開いた。
 現れたのはベージュのストレッチパンツにグレーのセーターを合わせ、その上からどてらを羽織った老婆だった。彼女は戸口に立つ二人に怪しむような視線を投げた。
「恐れ入ります」丸多は発揮できる最大の恭(うやうや)しさで相手に臨んだ。「この先にあった家に奥寺健男さんという方が住んでおられたはずですが、その方をご存知ですか」
「奥寺さんね」老婆は、ざらついてはいるが芯のある声で言った。「知ってるけど、あんたがたどこの人たち?」
 丸多は取り出したスマートフォンで〈シルバ〉の画像を見せた。そして、〈シルバ〉が奥寺の所有であるはずの家屋で殺されたこと。また、二人が〈シルバ〉の友人であることを洗いざらい説明した。すると老婆は、危ぶむ態度こそ変えなかったものの、丸多の口の動きに触発されてか、事件について少しずつ語り始めた。
「あんな物騒な事件が近くで起きるなんて、嫌だわね」
「お察しします。急に押しかけてしまい、申し訳なく思います」丸多が答える。
「奥寺さんはね、変わり者でね。私、もう十年以上あの人と喋ってないの」「事件があったとき、奥寺さんがどこにいたかご存知ですか」「知らないわよ、あの人と交流がないんだもの。世捨て人みたいでね、挨拶してもろくに返さないし、うちが野菜なんか届けてもね、全然知らない振りでね―――」
 野菜と聞いて後ろの北原が失笑を漏らしたが、丸多は迷わず尋ね続けた。
「先ほどお見せした中田銀という人と、奥寺さんが接触しているところを見たことがありますか」「そんな若い人と話してるとこは見たことないわね。あの人独り身になってから、ずっと一人であの家で生活していたみたい」「奥寺さんはかなり前から、あの家に住んでたんですよね」「そうね、もう五十年くらいになるんじゃないかしら。あの人が四十過ぎた頃に奥さんが病気で亡くなってね。それから一気に老けだして、それまで続けてた材木屋も辞めた後、蓄えだけで細々と暮らしてたみたいね。その前は元気だったのよ。挨拶すればちゃんと返してくれたし―――」「ちなみに、奥寺さんは今おいくつなんですか」「今は八十超えてるんじゃないかしら」「わかりました。ありがとうございます」
 二人は辞去し、歩きながら主に丸多が感想を述べた。
「わかりきってはいましたけど、シルバさんと奥寺さんに親交があった可能性はほぼゼロですね。東京スプレッドが『シルバさんは知り合いからあの家をもらった』という意味のことを言ってましたが、きっとそれも嘘でしょう」「確かに、シルバに山奥に住む八十歳の知り合いがいたとは考えられないですね」
 車に戻った後、北原が訊いた。「シルバたちは、どうやってあの家を手に入れたんでしょう」「今はまだわかりませんね」「付近に似たような家はないんですか」「私もそれを考えましたけど、ありませんでした。さっきの航空写真の周囲をくまなく見てみましたが、少なくともここの峠に同様の家は他に一軒もありません」
 時刻は正午。丸多は市街地に戻り、近場のファミリーレストランの駐車場に車を停めた。
「また、先週みたいに御飯にしますか」と北原。
「それでもいいですよ。北原さん、ここで昼食取りたいですか」「僕はどっちでもいいですけど」
 通された席に着くと、丸多から話し出した。
「ここは、さっきの現場から最も近いレストランなんです」「そうなんですか」「はい、直線距離で大体十キロメートル離れてます」
 北原は丸多の言葉から言外の意味を取り出せず、ぽかんとしている。やがて、主婦らしいウェイトレスが注文を取りに来た。二人は「野菜たっぷり日替わりランチ」を注文し、さらにドリンクバーをセットでつけると百五十円お得になるということで、それも追加した。
 ウェイトレスが注文を復唱してから去ろうとするとき、丸多が呼び止めた。
「お忙しいところ申し訳ありませんが、この人たちを知っていますか」
 丸多が差し出したスマートフォンには〈東京スプレッド〉の五人が映っている。中年のウェイトレスは小さな画面を覗いた後、やや迷惑そうに知らないと言った。しかし丸多が、〈シルバ〉の事件と五人について手短かに教えると、彼女は手で口を抑えながらはっと息を呑んだ。
「ここには」丸多はいたって平然としている。「学生さんのアルバイトも何人かいるでしょう。事件当日、彼らを見たと言う従業員がいたら、後日でもいいのでこの番号に連絡を下さい」
 丸多は常備している名刺を一枚渡した。その裏には、彼のメッセンジャーアプリのQRコードまで印刷されている。そして最後に、こう付け加えた。
「安心して下さい。変なナンパなんかじゃありません。向かい側の彼は、殺されたシルバさんの友人の北原遊矢さんです。本物です。嘘だと思ったら休憩時間にでもネットで調べてみて下さい。彼の顔も検索すればすぐ出てきますから。改めて、お忙しいところ、大変失礼しました」
 ウェイトレスが行った後、ウィンクでもしそうな丸多が言った。
「一般人がむやみにこういうことをやるのは、本当はあんまり良くないですけどね。特に、お昼どきはお店の人たちも忙しいでしょうから。さて、ドリンクバーを頼んだから、ジュースでも注(つ)ぎに行きましょう」
 北原は、丸多がウェイトレスと話す間ずっと、曲芸でも眺めるような、感心のこもる顔つきをしていた。
 それから丸多は、ファミリーレストランのときと同様、事前に調べておいた付近のコンビニ数軒でも名刺を配った。その場ですぐ目撃情報を得ることはできなかったが、やはり行く先々で北原の顔は捜査に合理性を持たせるのに大いに役立った。

 高速道路を東京へ抜けると15時を過ぎた。都内で一般道に出た途端、運転の難易度が上がり、ハンドルを握る丸多の手に汗がにじむ。そこで優秀なナビへと変身した北原に道順を確認しつつ、慎重に車を進めた。
 北区の落ち着いた住宅地の一角に、皆川明日美(みながわあすみ)の住む家はあった。
「さすが、立派な家ですね」丸多は運転席から、〈美礼〉の遺産であるその邸宅を見やった。
「僕もこんな家住んでみたいです」北原の羨望(せんぼう)の眼を見ると、その陳腐な決まり文句が、豪奢(ごうしゃ)な家の門を開ける間抜けな合言葉のように聞こえた。しかし、白い門扉(もんぴ)はすでに開いていて、すっかり矮小(わいしょう)になった二人に対し、不必要なほどの寛容さで進入を促していた。
「来客用の駐車スペースがあるのは、本当に助かりますね」丸多は言いながらバックで敷地に入り、黒光りするミニバンの横でエンジンを切った。
 玄関まで敷き詰められた白いタイルの上を、二人は落ち着かなげに歩いた。二段あるポーチをのぼりインターホンを押すと、スピーカーを通じて若い女性が応答した。
「丸多と申します」「北原です」息の合わない漫才師のように二人が声を投げかけ、その後、バロック風の重そうな扉が控えめに開いた。
 〈美礼〉の生き写しと言ってもよい、体の隅々まで洗練さの行き渡る女性が姿を見せた。ロングドレスにファーのショールといういでたちでこそないものの、黒いスキニージーンズの曲線、薄青いチュニックの幅広いネックライン、そしてそこから覗くキャミソールの細い肩紐、これらが自然に組み合わさり、素朴ななまめかしさを醸し出している。上に反ったまつげで強調された瞳には確かに、画面越しにささやかな悦楽を送る頃の〈美礼〉の面影があった。疲労からくるらしいやつれた表情も、常に厭世的で儚(はかな)い面立ちでいたあの妹の姿と重なった。
「すみません、若干遅れてしまって」丸多が詫びると、皆川明日美は「どうぞ、私一人しかいませんので」と寂しげな口調で言った。
 重苦しい雰囲気を二人は事前から予期していた。決して、毎週一緒にバーベキューをする間柄でない女性を前に、丸多らは「お邪魔します」とだけ言い、慎み深い様子で前に出た。
 ここでもやはり二人はリビングに通され、一対の白いソファーの片方に座らされた。目前のガラス製の低いテーブル、そこに敷かれた毛の長い絨毯、そして頭上の軽薄な豪華さを備えたシャンデリア、それらを前に凡庸ななりの二人は圧倒されかけた。丸多は広い空間を見回しながら、自分の拙(つたな)い話術でも、そこいらの家具についての評価だけで、相手を数時間はおだて続けることができる、などと考えた。
 ドイツ製の紅茶でも出てきそうなそれまでの運びだったが、出されたのは意外にも炭酸水のペットボトルや缶ジュースなど親しみやすいものばかりだった。
「すみません、余り物で」皆川明日美は、空いている方のソファーに腰かけた。
「いえ、お構いなく」〈美礼〉の姉と形式的なやり取りをする間、丸多の脳内で「ここで炭酸水を一気に飲み干せば、少しでも相手がほほ笑むかもしれない」という案が浮かんだ。しかし、相手は当然初対面の女性であり、また、胃から逆流する二酸化炭素を制御できない自身の姿も思い浮かべ、そのデメリットの多い博打をやめることにした。
 丸多はひとまず「いただきます」と炭酸水をとり、一口飲んだ。そして、言った。
「お姉さんにとって、あまり嬉しくない訪問かもしれません。美礼さんが亡くなられてから時間が経ったとはいえ、まだ悲しみは完全に癒えてないと思いますので」
 皆川の何も答えない様子を見て、丸多はそのまま続けた。
「北原さんと私は、シルバさん、つまり中田銀さんの友人でして―――」
 丸多はそれまでの経緯をかいつまんで説明した。〈シルバ〉、北原との出会い、〈東京スプレッド〉との接触、そして事件現場へと直接赴(おもむ)いたこと。すると、皆川は素人探偵を見下すふうでもなく、むしろ彼の話に感嘆した様子でいた。
「中田さんのことは、よく覚えてます。ここで何度か、彼と妹と三人で食事をしたこともあります」
「明日美さんが北原さんと会うのは」丸多が尋ねた。
「今日が初めてです。でも、お話で北原さんについて聞いたことはありました」
 北原は照れ笑いするだけで、何事かを口に出そうとはしなかった。
「それで」丸多が本題を切り出す。「こういったことを訊くのは大変失礼であるのは承知していますが、美礼さんは2017年5月に、怪我をした姿を映す動画をアップロードしました。傷は生々しくて、非常に衝撃的な内容でした。彼女はそのとき『階段から落ちた』と言っていました」
「そうですね、確かにおととしの5月の夜だったと思いますけど、その日妹は酒に酔った状態で帰ってきました。中田さんにタクシーで送ってもらった、と本人は言ってました」「そのとき、美礼さんはシルバさんと一緒だったんですか」「ええ、新宿あたりで二人で食事をして、それで一緒に家までタクシーで帰ってきたそうです。中田さんが泥酔した美礼を支えて、そこの玄関まで運んでくれました。私は中田さんにお礼を言って、その後彼はすぐに、待たせておいたタクシーに再び乗って自宅に引き上げました」
 丸多と北原は黙って、皆川の口から出る言葉を聞き続けた。
「妹を引き取った後、私はあの子をこのリビングまで引っ張っていこうとしました。でも『一人で歩ける』と言って、何度も私の手を払っていました」
「以前から」と丸多。「美礼さんが泥酔して帰宅することはあったんですか」
 皆川は少し考えるしぐさをした後、言った。「何とも言えません。お酒を外で飲んで帰ってくることは何度もありました。ただ、そのときはいつもよりも深く酔っていたように思います」「そして、上に上がろうとして、階段で転倒してしまった」「はい、私がちゃんとついていれば良かったんです。上にあの子の部屋があったんですけど、あの子は朦朧としながら、上の自室に行こうとしました。そのとき私は大ごとになるとも思わずに、一階のキッチンで水を汲もうとしていました。そしたら」
 美礼の姉の目は、はっきりとうるんでいた。丸多がかける言葉を見つけられないうちに、また皆川が話し出した。
「すごい音がして。固いものに何度もぶつかるような音でした。私びっくりして、慌てて階段の方に行きました。そこであの子が、ぐったりしてうつぶせで倒れてました」
 丸多は聞きながら、当時〈美礼〉が上げた怪我の動画を思い出していた。
「救急車は呼ばなかったんですか」
「ええ」皆川は気丈な様子を保っていた。「私はすぐに救急車を呼ぼうとしたんです。でも、あの子は『平気』と言って聞きませんでした」「意識はあったんですね」「はい、意識ははっきりとしてました」「顔には傷を負ってしまった」「はい。あの子の顔の怪我を見て、私、気が動転してしまいました。救急車で病院に行くようにしつこく説得しましたが、何を強がってるのか、あの子頑(がん)として首を縦に振りませんでした」「結局、救急車も呼ばず、病院にも行かなかったんですか」「はい。しばらくしたら酔いも覚めてきたのか、おぼつかない足取りでまた二階に上がって行きました。部屋に入った後は、どのように過ごしていたかは」
「あの動画を上げましたよね」丸多が冷静に言った。
「ええ、そうです。私は、もう知らないと思って、ここで座りながら雑誌を広げていました。静かになったので、その日は私も二階の私の部屋で就寝しました。その間にあの子は部屋であの動画を撮って、アップロードしたんだと思います」「あの動画を公開した理由はやはり、事務所に関連したことでしょうか。美礼さんは当時、人気クリエイターらを揃えていたUMOREに在籍していました」
 ここでも皆川は少しの間沈黙した。そして、ふうっと息を吐き出してから言った。
「多分そうだと思います。だけど、私にははっきりとしたことは言えません。丸多さんがおっしゃる通り、あの子は怪我したことをすぐに自分のファンたちに伝えようと思ったんじゃないかと思います」「対応に迷うところですよね。確かに、美礼さんの立場からすれば」「そうなんです。あの顔のままだったらしばらく動画を上げられなくなりますし、そうしたら日本全国にいるあの子のファンが心配するでしょうし。かと言って、怪我の様子をすぐに公開していいものなのか、判断には迷ったと思います」「お酒に酔っていたから正常な判断ができなかった、ということも考えられますしね」「動画を上げる前に、事務所の人に連絡はしたそうです。もちろん自室から携帯で」「そのとき、事務所の方がどういう指示を出したかご存知ですか」「ええ、確か『怪我をした事実は、できるだけ早くにファンに伝えるように』ということをあの子に言ってたはずです。後になって妹から口づてに聞いたことですけど」
 そこまで聞き丸多は、視線を上に向けながらソファーに背をもたせかけた。ここで〈美礼〉と〈シルバ〉それぞれに似た人物が映る、あの暴行動画を出そうか迷った。しかし、破られうる均衡があるとすれば、まだそれを破りたくない思いもあった。どのみち、刺激的な質問を避けることはできないのだが。
「そして」丸多が恐る恐る言う。「それから約一ヶ月後、美礼さんは亡くなってしまいました。気の毒に思いますし、ふさわしい言葉が見つかりません」
 皆川は丸多の気遣いを十分察したようで、今度は自らその成り行きを説明した。
「あの子の傷は、想像よりもずっと重いものでした。顔の怪我の回復は早いように見えましたので、私は事故以降、あの子の容体にあまり注意を払いませんでした。ですが内臓も傷ついていたのでしょう、それから腹痛を訴える日が何日かあって、一ヶ月後―――」
 その先はわかっていたので、丸多は何度か頷き、話の方向をわずかに変えた。
「すると、やはり美礼さんの死因は、階段からの転落だった」
「はい」皆川の語気には鋭さがあった。
「美礼さんはその5月の転落から、外出などされましたか。あるいは、誰か訪問者など」「いえ、怪我をしてからは動画撮影を一切控えて、家にこもってました。その間、生活に必要な物は一揃い私が買ってきました。お見舞いには、中田さんや、UMOREのスタッフの方々が来てくださいました。特に中田さんは、とても熱心にここに通ってらっしゃいました。よほど、あの子のことが心配だったんだと思います」
「じゃあ」丸多は頃合いを見計らい、スマートフォンを出した。「この動画は全くの出鱈目なんですね」
 例の、金髪の男が茶髪の女に暴行を加える短い動画。皆川は、身を乗り出してそれを一瞥(いちべつ)した後、つまらなそうに言った。
「話になりません。中田さんは本当に穏やかで優しい人でした。私、中田さんが美礼に暴力をふるっているところは見たことありません。それに、あの子が中田さんから暴行を受けたなんてことも、聞いたことがないです」「シルバさんは、動画では軽はずみな言動をする人物を演じてましたけど、裏では品行方正でいたんですね」「そうです」
 皆川はやにわに立ち上がり、リビングを横切った。
「どうぞ、おうちの中をご覧になってください。シルバさんの事件の解決につながるような物があれば、こちらからお見せしたいほどです」
 皆川に連れられ、二人は階段を上がった。いわくつきの場所であったが、それは直角に折れながら階上へとつながるごく一般的な階段であった。ただし、各段には確かに硬い木材が使用されていて、先の皆川の話と符合する点は多々あった。
「この部屋を美礼が使っていました」
 二階の端に位置する十二畳ほどの空間。PCが乗る作業用デスク、化粧台、薄紫のカバーに覆われたベッド、その他いかにも女性らしい生活用品が、過去の住人の存在を過剰なほどに示していた。
 丸多らは、まさに美術館の中を行くようなしぐさで、室内をおもむろに眺めていった。あまりにも遠慮深く振る舞う二人を見て優越感を覚えたのか、皆川はこの日初めて可笑しそうに微笑んだ。
「いいんですよ。元あった位置に戻してくれれば、その辺にある物を手に取ってもらっても構いません」
 二人も皆川につられ、つい表情を緩めた。せっかくの申し出に対し、空になった化粧水の小瓶など持ち上げようとしてみた。しかし、底に〈シルバ〉殺害犯の名が書いてあるとも思えず、丸多は逡巡(しゅんじゅん)した。
 オーガニックコスメのブランド名よりも丸多の目を引いたのは、背後の広い壁に油性ペンで書かれた落書きの数々だった。彼はそれらを指差して訊いた。
「これは、美礼さんの友人たちが書いたものですか」
 そこには「チャンネル登録者百万人突破おめでとう」というメッセージ、かろうじて読める他のクリエイターのサイン、抽象的で全く判読できないサインが、二流アートのごとく無秩序に描かれている。
「そうです。『百万人突破~』のメッセージは、その通り、美礼のチャンネル登録者数が百万人を超えたとき、UMOREの方々が来て書いてくれました。他のは、あの子と親しくしていた動画クリエイターさんが、ここに遊びに来たときに書き残したものです」
 よく見ると壁の下方に、「俺も早く美礼に追いつくぜ」という景気の良い文言と、それと同じ筆跡で書かれた〈シルバ〉のサインもあった。「2017.3.28」と日付まで添えられている。
「ここには」丸多は皆川の方を向いた。「ずっと美礼さんと二人で暮らしてたんですか」
「ええ、そうです。美礼が動画クリエイターとして有名になり始めたとき、確か2016年の秋くらいだったと思いますけど、私と妹で思い切ってお金を半分ずつ出し合って、ここを購入しました。申し遅れましたけど、私、家具のデザイナーをしてまして、実は私の収入の方があの子のよりも上だったんですよ」
 皆川は最後の一節だけ冗談めかして言い、また少しだけ笑った。
「才能あふれるご姉妹だったんですね。能力をちょっとでも分けてほしいです」
「でも、まだローンは残ってるんですけどね」
 この丸多と皆川とのやり取りから、三人の間を流れる空気は幾分柔らかくなった。続いて二人は隣の明日美の部屋も見学し、そこで彼女が自作だとする家具一つ一つに、その価値以上のお世辞を吐いた。
 三人がリビングに戻ると、裏庭と隔てるガラス戸の向こうに、暮れかけた都会の空が見えた。和やかな雰囲気の中、丸多はそこに立ち「お庭も広くて立派ですね」と言った。
「もう、そろそろ陽が沈みますね」皆川は丸多の前に無理やり体を入れるようにして、素早くカーテンを引いた。丸多はすぐに半歩退いたが、そのとき遮られる前の光景に不自然さがあることをはっきりと意識した。
 庭の隅に置かれた巨大な直方体の物体。あれは何だろう。
 人の身長よりもやや大きいそれにはグレーの幕がかけられ、その上から太いゴムバンドが何重にも巻かれていた。退出時刻は迫っていたので、丸多は即座に訊いてみた。
「あの大きな物置きみたいのって、あれですか。明日美さんのお仕事に関連するものですか」
「ええ」皆川は明るい笑顔を保っていた。「今度の展示会に出品するアイテムのモデルをしまってます。発表前なのでまだお見せすることはできないんですけど、よろしければ、来月に銀座でお披露目するんで、お二人もいらっしゃってください」
「はい、ぜひ楽しみにしています」丸多は言いながら家主の目を盗み、ソファーの下に自身のハンカチを一枚滑り込ませた。

「北原さんはもう帰るんですよね」皆川邸を出た後、信号待ちの車内で丸多が言った。
「はい。学校の課題が溜まっていて」
 最寄り駅の停車場で車を停めると、助手席の北原は礼を言った。
「丸多さん、これから埼玉にも行くんですよね」
「はい。もう夕方ですけど、行くだけ行ってみます」「頑張ってください」「はは、ありがとうございます」丸多は、顎が外れそうなほどのあくびをした。休日に朝5時に起きたのは何年ぶりだろうか―――よほど重要な用事がなければ、彼は大体その時間、花粉に鼻を詰まらせながら夢を見ている。
 土曜だが、スーツ姿で駅に吸い込まれていく人の姿も案外多い。丸多はスマートフォンを取り出し、マップアプリの画面を北原に見せた。
「一応確認なんですけど、ここで間違いないですか」
 画面には、埼玉の郊外のある地点と、「橋井工務店」の文字が表示されている。
「多分それで合ってると思います。何しろ、行ったのがもう三年以上前で、記憶が曖昧で。でも僕も数日前ネットのビュー機能でその辺を確認して、そしたら見覚えのある街並みが出てきたんで、きっと大丈夫でしょう。間違ってたらすいません」「いえ、ダメで元々なんで。助かりました。こちらこそ、ありがとうございました」
 東京から北へ、一時間ほど孤独なドライブをした。東京から遠ざかるにつれ、大きな布で丸ごと磨いたような高層ビルは減っていく。代わりにホームセンターや、国産車のショールームなど丈の低い身近な建物が目立ち始める。埼玉県大宮市の東端に着くと、午後7時を過ぎた。
 大きめの公園の隣に廃病院を見つけ、丸多はその前で車を一時停車させた。スマートフォンのロックを外し、メッセンジャーアプリのアイコンを見つめる。山梨県の店員らから目撃情報が届いていないか期待したが、それが示す新着メッセージの件数はゼロであった。
 目的の一軒家の一階は幅広のシャッターで閉じられていた。街灯に照らされ、「橋井工務店」の文字をはっきりと読むことができる。丸多は店舗の側面に、トタン屋根付きの階段が設(しつら)えられているのを見て、それを静かにのぼった。
 扉の禿げた赤い塗装と、さびでざらついたドアノブが、もはや不可逆な家全体の衰えを物語っている。家主が粗暴に振る舞うことで、同居人をストレスのはけ口にする。内面の傷がいかに治癒し難いものであるかも知らずに。神経をすり減らした家人は徐々に萎え、その姿に影響を受けた家主の気力もどんどん低下していく。家主はさらに不満、鬱屈を抱え、家人を前よりも一層邪険に扱う。このサイクルの中でその家の活力は、再び浮上させるのに多大な手間のかかるレベルまで落ち込んでいく。丸多は扉の前に立ちながら、そういった気の滅入る悪循環を勝手に想像した。
 インターホンはかろうじて生きているようで、それを鳴らし応答を待った。丸多の立つところから切り取ったような小窓が見え、そこから味気ない蛍光灯の光が漏れている。足音が近づいてきて、扉が手のひらほど開いた。内側のチェーンはかけられたままだった。
「夜分遅く恐れ入ります」丸多はすき間に向かって、顔を傾けた。
 薄暗がりの中、髪を後ろで束ねた中年女性と目が合った。
「どちらさま」普段顧客対応もするためだろう、明らかに訝(いぶか)しんではいるが、完全に突き放すような態度でもない。くたびれの現れ始めた顔は〈ちょいす〉に似ていなかったが、気の強そうな口調には、生配信動画で聞いた音調が含まれている気がした。
「私、中田銀さんの知人で、丸多好景と申します」
「はい?」〈ちょいす〉の母親であろう女性は、愛想のかけらも見せずにそう聞き返した。丸多は同じセリフを繰り返し、「中田銀さんのことで、まどかさんに大事な話がありまして」と鷹揚(おうよう)に言った。すると一旦ドアは閉じられ、足音は遠ざかっていった。耳を澄ますと、「あんた、誰か来てるよ」「誰」「知らない男の人」という淡白な会話が聞こえた。丸多はそれを聞いて、「『中田銀の知人』だと、二回言っただろ」と心の中で不平を言った。
 若い女性が戸口に立った。白いマスクをかけているが、動画で見た〈ちょいす〉に間違いなかった。上下グレーのスウェットを着て、肩までの黒髪はほんのりと濡れている。風呂から上がったばかりなのか、押し売りのような濃いシャンプーの匂いが丸多の鼻腔(びこう)をついた。ウェブページで確認したプロフィールが正しければ、今彼女は21才のはずである。見たところ、学校に通っている様子も、会社に勤務している様子もない。
 〈ちょいす〉は丸多の自己紹介も待たず、口を開いた。「アンチなら帰ってくれますか」
 丸多は慌てて、顔の前で手を振った。「違います。私はアンチじゃありません。私は丸多好景と言いまして、中田さんの友人です」「誰」「中田銀さんです。去年までシルバという名前で、動画クリエイターをしていた人です」「ああ、銀ね。それで、何?」
 いつまでも臆病な犬のような態度を崩さない女に、丸多は東京の豪邸で最初したのと同じ内容の話をした。
「お電話だと、それこそ」丸多はさらに付け足した。「アンチだと思われて一蹴されると思いまして、それでここまで直接参りました。ご迷惑なら、すぐに帰りますが」
「迷惑です」
 丸多は、「お前もシルバを見習って、『ポップ路線に切り替えた』らどうだ」という指摘を思いついた。しかし、自身の立場を考えた上、それは口に出さず、あくまで企業面接のような波風立てない姿勢を保つことにした。
「ネット上に上がっている【GN過去動画】というのを観まして」
「もごもご言ってて、何言ってるかわかんないんですけど」「橋井さん、あの、高校生のときにシルバさんと喧嘩凸やってましたよね。あれ楽しく拝見し―――」「あいつのこと話す気分じゃないんです。いい加減にしてもらっていいですか。そろそろ警察呼びますよ」
 扉は閉まり、その直後鍵を閉める乾いた音が響いた。それは当てつけに違いなかった。いつか〈シルバ〉が言っていた「お前は鼻毛を出すレベルの女だ」という意味の言葉に、あやうく同意してしまうところだった。
 丸多は車のボンネットに手をつき、大きく伸びをした。路上で、キャスター付きの買い物バッグを引く老婆が、通り過ぎざまに丸多の顔を珍しそうに覗いた。
 丸多は思った。素人がヤシの木に登り、一気に二つも三つも実をもごうとしても仕方がない。十分に上出来ではないか。最後は不発に終わったが、それでもヤシの実一個半は地面に落とせた気がしていた。

 川崎のマンションに戻ると、アナログ時計の針は10時を指していた。労働の余韻は、両隣に分け与えたくなるほどあった。茹でたパスタにオリーブオイルを絡め、さらにバジルソースで味付け、といった技量が丸多にはなく、深夜まで開いている弁当屋の弁当で夕飯を済ませた。
 チューナーを備えたPCの画面で、TV視聴ソフトを起動した。夜の番組では、非常に重大な事柄について、非常に重大な人たちが、非常に重大な顔をして話し合っていた。その重大さは、食後にコーヒーを飲むか、それとも茶を飲むかといった選択のそれにも匹敵した。観ていると、今日丸多が出会った人々が語った話のうち、どれが真実でどれが嘘か、正確に言い当ててくれる人はそこにいないらしかった。
 丸多はソフトを止め、動画サイトを開いた。その手の動きはすっかり染みついていて、もはや目をつむっていても行うことができる。ウィンドサーフィンなどの、もっと日常を彩る行為を体に染み込ませるべきなのだが、と自嘲気味に思いながら、出てきたサムネイルを順に見ていった。
 〈東京スプレッド〉が最新の動画を上げていて、例に漏れずそれをクリックした。タイトルは「メントスコーラ[*1]をカリウムでやってみた」。再生回数はすでに八万回を超えている。
 〈キャプテン〉、〈モジャ〉、〈モンブラン〉が横並びで座り、あの真面目さのかけらもない挨拶を口にする。丸多は連中の部屋に一度入ったことがあるため、カメラの位置や三人がいる箇所を、もはや厳格に把握することができる。
「皆さん、カリウムって知ってますか」〈キャプテン〉が遊び半分の口調で言う。
「知らない」「知る予定がないです」と、それぞれ〈モジャ〉と〈モンブラン〉。
「まずこれを観てください」
 〈キャプテン〉が言った後、ワイプで〈東京スプレッド〉とは無関係の動画が流れる。同じ動画を二人が、脇に置かれたノートPCで観ているようである。机の上に水が半分ほど入ったビーカーが置かれている。枠外から手袋をはめた手が出現し、ピンセットで挟んだ小さな個体を水に放り投げる。少し間が空いた後、猛烈な爆発が起き、ビーカーは粉々に砕け散った。爆発に合わせて、元の画面の〈モジャ〉と〈モンブラン〉は、驚きの声を上げ、体を激しく震わせた。
「やばいじゃないですか」〈モンブラン〉がわざとらしく抗議をする。「何ですか、これ」
「やるんだよ、俺たちが」
 〈キャプテン〉は言うと、背後に隠しておいた水入りのビーカーと固体を取り、二人の目の前に置いた。そして間髪入れず固体を水に投げ入れた。
「ばかばかばか」〈モジャ〉が慌てふためき、枠外に飛んで逃げる。〈モンブラン〉も同様にそうした。
 〈キャプテン〉はそれを見て、腹に両手を当てて笑い始めた。
「何」戻ってきた〈モジャ〉が言う。「何入れたの、お前」
 ビーカーの水と固体は何の反応も起こさず、完全な原型をとどめていた。笑い終えた〈キャプテン〉が一言つぶやく。「ただのラムネ」
 カットが次に移ったが、やはり部屋もメンツも直前と同じである。
「そういえば」と〈キャプテン〉。「今日は、あの豚がいませんね」
「ニックさん、どこ行ったんですか」〈モンブラン〉が首を左右に振る。
「ニックは外出中」〈キャプテン〉は答えた後、居ずまいを正した。「今の動画で水に入れられた物はカリウムといって、非常に危険な物質です。ご覧の通り、水に触れただけで激しく反応します。そんな危険な物を我々が買うことはできません。その辺のコンビニに、グミと一緒に売られているような物とは違うのです。そこで」
 〈キャプテン〉は溜めを作った後、声をやや上げた。「ニックに今の動画を見せて、今みたいに水にそれっぽくただのラムネを入れて、そしてあいつの後ろですぐ風船を割る、こういうことをしていきましょう」
「いいねえ」〈モジャ〉が薄笑みと共に言い、さらにカットが変わった。
 帰宅した〈ニック〉が何も知らされず、画面中央に座らされる。
「何何何」〈ニック〉の怯え方は演技には見えなかった。「良くないことが起きるのだけはわかる」
「ニック、これ観て」先ほどの爆発シーンが流れ、〈ニック〉が先ほどの二人と同じ反応をする。次に〈キャプテン〉が素早い動作で、コーラのペットボトルにラムネを入れた。そして、〈ニック〉の初動と同時に〈モンブラン〉が膨らんだ風船に針を刺した。
 〈ニック〉が悲鳴を上げる様子がスローで流れ、丸多はそこで動画を停止した。
 いつもと変わらない。事件に繋がる情報を期待し、首尾よく裏切られたのはこれで何度目か、数える気にもならない―――
 他のサムネイルも確認するが、一週間前撮影されたはずの、丸多らが訪問した場面を映す動画はまだ上げられていない。
 ふと思いつき、〈美礼〉の事故が起きた2017年5月頃に上げられた〈シルバ〉の動画を探してみた。
 良い考えだと思ったが、ちょうどその日に撮影されたと断定できる〈シルバ〉の動画はなかった。その時期の動画をいくつか確認してみたが、すべて屋内における彼単独での撮影で、ここでも事故に関わる情報は一切なかった。
 それからザッピングのようにして、関連動画を目につくまま開いていった。野球投手の格好をした〈シルバ〉が、〈東京スプレッド〉の五人に「劇薬入り」とうそぶき、ただの水風船を投げつけるコラボ動画。これは、約一年前の投稿とある。そもそも、〈シルバ〉のチャンネルの動画は全て閲覧済みで、そこには新たな情報はおろか、ささやかな刺激さえ含まれていない。
 同じような内容が続き退屈した丸多は、画面下部のコメント欄に目を移した。
「シルバなら、登録者百万人夢じゃなかったのになあ」「生きてたら、今頃大物になってたかも」「スターになって当然だった」「スター性十分だったのに」「何で死んじゃうかなあ」「犯人がまだのうのうと生きてると考えると、許せん」……
 〈シルバ〉の死後、彼へ送られる追悼句の数々。それらを読むと、彼がいかにファンから支持されていたかを実感する―――
 スマートフォンが鳴った。メッセンジャーアプリによって、北原からかけられた通話だった。
「もしもし、丸多さんですか」
「他の人が出ること、ほぼないだろ」と言いたくなったが、まだそこまで親しくないことを思い出し、代わりに「はい丸多です。今日はお世話になりました」と応じた。
「いえ、こちらこそ。今日はずっと運転していただいて、ありがとうございました」
「ええ、どうされました」「先週僕ら、東京スプレッドの家に行ったじゃないですか」「はいはい」「ナンバー4っていう奴がいたの、覚えてますか」「もちろん、覚えてます」「そいつが、僕らと話をしたい、と言ってて」
 背筋に寒気、そして脳に期待感、両方が同時に走った。丸多が一瞬考える間、北原がさらに話した。
「一旦切りますね。それですぐに、ナンバー4のIDを送信します。あいつ、今丸多さんと話したいみたいで」
 北原の言葉通り、〈ナンバー4〉のアカウント情報が送られてきて、それをすぐに追加した。丸多は追加されたばかりの〈ナンバー4〉のアカウント名を確認した。それはシンプルに「N4」とされていて、本名はどこにも記載されていなかった。
 ほどなくして着信音が響き、丸多は迷わず「通話」ボタンを押した。
「もしもし、東京スプレッドのナンバー4です」非常に丁寧な口調で、緊張と声の震えも多分に含まれていた。
「丸多です。先週はお忙しいところ、ありがとうございました」「いえいえ」「珍しいですね、何かありましたか」
 〈ナンバー4〉は口ごもりながら言った。「来週のいつか、お会いできないでしょうか。ちょっと、お話ししたいことがありまして」
 よく聞くと通話口の向こうで、〈ナンバー4〉の声が反響していた。どうやら、バスルームから一人でかけているらしかった。

[*1]: コーラにメントス(ペルフェティ・ファン・メレ社製のソフトキャンディ)を投入すると、気化した炭酸と共に中身が一気に吹き出す。その様子を映す動画が2000年代後半から大流行した。

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