見出し画像

胡乱の者たち(長編) 1

 2019年3月2日(土)

 特殊な夜の予感がし始めていた。
 我ながら思い切ったことをしたものだ、と丸多好景(まるたよしかげ)はそれまでの経緯を思い返した。目の前の丸テーブルには冷めたコーヒーの入ったマグカップが一つ載っている。新宿のありふれたカフェ。女子大生らしい二人組は次に行くスノーボード旅行の話を無邪気に響かせ、ビジネスマン風の男は薄いラップトップPCをにらみながら、熱心にキーボードを叩いている。
 俺が喫茶店に人を呼びつけるなんて、何年ぶりだろう。それも一度しか会ったことのない、ほぼ初対面といっていい人を。電車内の広告を飾る流行りの女優や、ブリーフケースを提げた大企業の採用担当がやって来るわけではない。来るのは五千人ほどのSNSフォロワーを抱える、いわば「半人気者」である。過度の気おくれは無用であると知りつつも、丸多の心臓は時間の奔流に伴い、律動の間隔を徐々にせばめていった。
 丸多は他の多くの客がそうしているように、自前のタッチパネル付き電子機器を取り出し、その画面を眺めることにした。先ほど北原遊矢(きたはらゆうや)から、三十分ほど遅れるという旨のダイレクトメッセージが届いた。北原も北原で随分律儀だった。
「丸多好景さん、大変申し訳ありません。家のダックスフンドが具合悪くしてしまいまして、三十分くらい遅刻します。申し訳ないです」
 丸多のフルネームをわざわざ打ち込み、さらに「申し訳ない」を二度も繰り返している。その上、文面の最後には汗のイラストの柔和(にゅうわ)な絵文字まで添えられていた。予想した通り温厚な人物であろう、と丸多はこれを読んでわずかながら安堵した。だが、漠然とした懸念が完全に取り除かれたかというと、そうでもなかった。北原は本当に来るだろうか。丸多は刑事でも私立探偵でもなく、一介の会社員に過ぎない。情報提供の点においては、向こうが優位でいるのは明らかなのである。「丸多さん、ごめんなさい、ダックスフンドを連れて行く病院が都内にはありません。遠方の病院を探さなくてはならなくなりました。だから、今日は行けません。また会いましょう。さようなら」というメールが来るのではないか、という不安はまだ、丸多の脳の奥にしつこくこびりついていたのである。
 これまでの経緯の「復習」というと大げさだが、北原が現れるまでの時間潰しのため、丸多は動画投稿サイトを開き、「シルバ」で検索をした。そしてタブレット端末に、持参したイヤフォンを取り付けてから、出現したいくつものサムネイルのうち「背中が汚れていたら、通行人は知らせてくれるのか」と題したものを選択した。
 動画クリエイター[*1]の〈シルバ〉が路上に降り立つしぐさをするところから、その動画は始まる。サラリーマンとは一線を画することを強調するような、ブリーチされた金髪。日焼けサロンに何度も通ったことを物語るムラのない茶色の肌。ふざける準備が整った結果である薄ら笑い。ジャスティン・デイビス風のシルバーネックレス。ピアス。黒のTシャツ。金髪。この男を形容するキャッチコピーとして「私服を着た、毎日が日曜日のホスト」という文言が挙げられたとすれば、これほどふさわしいものはない。画面に上半身を収めた〈シルバ〉は、とある繁華街の一角においてやたらと大きな声で話し始める。
「はい、こんちは、シルバです。皆さん、服が汚れたまま歩いている人って見たことありますか?え、ない?」
 ここで〈シルバ〉が大げさに顔をしかめ、突然モノクロになった画面が大きく揺れた。また、この瞬間の効果音として、ピアノの鍵盤を一斉に押すことで出る、あの耳障りな低音が採用されている。編集ソフトによるこれらのたわいない演出のあと、〈シルバ〉が同じ調子で話し続ける。
「見たことありますよね、服が汚れたまま歩いている人を。僕、この前電車に乗ってたんですけど、ジャケットの袖に乾いたご飯粒いっぱいつけてる女の人を見かけたんですよ。あれって、自分ではなかなか気づかないんですよね。モデルみたいに綺麗な人だったんで、尚さらもったいないと思いました。そこで」
 〈シルバ〉が上体をのけ反らせて、一呼吸おく。そして、声を一段と大きくして言った。
「服に汚れをつけて街なかを歩いたら、誰か優しい人が知らせてくれるのか。気になります。やってみましょう」
 場面が切り替わり、歩道を一人で歩く〈シルバ〉が映し出される。動画のテーマ通り〈シルバ〉が着るTシャツの後ろに、食べかけのクリームパンが丸々一個くっついている。また、その中身であろう白いクリームが、肩から裾にかけてべったりと付着している。パンは糸ででも縫い付けてあるのだろう、シャツの布地にぴったりと固定されている。
 〈シルバ〉は故意に速度を落として歩いていたが、彼を追い抜いていく人々の中から「汚れ」を指摘する者はなかなか現れなかった。時折〈シルバ〉が「なんか背中に違和感あるなあ、気のせいかなあ」とわざとらしく独り言を発したが、それでも声をかける人は出てこなかった。
 しばらく同様の状況が続いたらしく、動画は自動的に早送りされ、〈シルバ〉が信号待ちする場面で再び動画は通常に戻った。憂鬱そうな横顔を見せながら振り向く〈シルバ〉の姿とともに、画面下には「声をかけてもらえない26才(無職)」というテロップが表示された。
「ユウヤ、近づき過ぎ。もっと離れて」〈シルバ〉が撮影者にそう言うと、画面が素早く引いた。撮影者が距離を取った直後、画面端から現れた男性が唐突に声をかけた。
「すみません、背中に何かついてますよ」
「え、今なんて?」〈シルバ〉にとっても予想外だったらしく、その声はうわずっていた。言いながら〈シルバ〉は再び撮影者を呼ぶため慌てて手招きした。
「パンですよね、それ。背中についてるの」答えるこの男性が、実は丸多なのである。
「僕の背中が」〈シルバ〉が重ねて言った。「汚れてるの、教えてくれたんですか」「ええ、まあ」
 〈シルバ〉は抑え気味の笑顔を浮かべたあと、自然界の新法則でもさぐり当てたような叫び声をあげた。
「教えてくれた!みんな、集合!優しい人が、俺の背中汚れてるの教えてくれた!」
 〈シルバ〉のこの合図と同時に、きっと無数にいる〈シルバ〉の後輩たちであろう、暇を持て余したような連中が画面の両脇からぞろぞろと湧き出てきた。そして、状況を飲み込めずにいる丸多はたちまち、彼らに取り囲まれた。
「あなたは優しい人です」〈シルバ〉がそう言うと、丸多の周囲の者たちはまばらな拍手を彼へ向けた。丸多はというと微かに笑ってはいるものの、未だ困惑した様子で立ちすくんでいる。
「すいません」〈シルバ〉が丸多に尋ねた。「動画撮ってるんですけど、顏出しオーケーですか?」「ああ、はい。構いませんけど」こうして改めて見ると、自分には覇気のかけらもないな、と丸多はタブレットを抱えながら自虐的に思った。
「何で」と〈シルバ〉。「僕の背中が汚れているって教えてくれたんですか?」
「いや、気づいてなかったら、かわいそうだなと思って」丸多は蚊が鳴くような声で言った。
「Tシャツのバックプリントだって思いませんでした?」
 思うわけねえだろう。丸多はこのとき、心の中でそう呟いたが、彼らと初対面ということもあり口には出さず、代わりに当たり障りのない返答をした。
「だって、パンまでくっついてますからね」
 再び場面が変わり、今度はいかにも満足した様子の〈シルバ〉が画面に現れた。最初の場所からは離れているようだが、今度も繁華街の外れの路上である。
「僕も歩いてる途中、このまま死ぬまでパンをつけたままでいないといけないんじゃないかと思いました。だけど、声をかけてくれる人が現れましたし、撮れ高もあって本当に良かったです。さっき名前を聞いたところ、マルタさんという方らしいですが、みんなもね、さっきのマルタさんみたいに、明らかに服の汚れに気づいていない人を見たらちゃんと教えてあげましょう。いいことしたら気持ちいいはずですし、そういうことを繰り返していけば多分、世の中から戦争はなくなります」
 〈シルバ〉は手に持っていたパンをかじり、締めくくった。「次回の動画では、ユウヤに寝起きドッキリで、腸内洗浄を仕掛けようと思ってます。じゃあまたな」
 撮影者である北原遊矢がこれに反応したが「俺にドッキリってバラしたら意味な」と、その音声は途中で切られた。そして、そのまま動画は終了した。
 丸多はこの日の出来事を今でもよく覚えている。去年の4月中旬、ちょうど外が暖かくなり始めた頃だった。この動画はやらせでも何でもない。少なくとも丸多にはそう断言する自信がある。丸多はこのとき、東京有楽町の交差点で、偶然撮影中の〈シルバ〉に声をかけたのだった。カメラを持っていたのが北原だったのだが、丸多はこの撮影者の存在には全く気づかなかった。休日に必ず訪れる抵抗し難い脱力感をまといながら赤信号にさしかかり、ふと左に目をやると、そこに背中の奇妙な状態をさらした〈シルバ〉の姿が飛び込んできた。最初は、その人物が動画クリエイターの〈シルバ〉であることに思い至らなかった。そもそもこの時点で、動画クリエイターとしての〈シルバ〉の存在を正確に認識していたか、丸多はよく覚えていない。ただ、背中が汚れていることを教えて彼が振り返ったとき、もしかして知名度の上がりつつある動画クリエイターの某(なにがし)ではないか、と思い、当てのない期待感を覚えたことは、うっすらと記憶として刻まれている。
 その直後の〈シルバ〉らとのやり取りは、先のスナック菓子三つ分程度の刺激を孕む動画が示す通りである。交差点でクリエイターらと別れる際、年齢や職業など互いのパーソナリティに関わる短い会話をした。動画撮影を担当していた北原が、丸多の出演に関して丁重に礼の言葉を述べていたのも印象的であった。
 これが丸多と〈シルバ〉の時間軸上における唯一の接点であり、この動画クリエイターはそれから四ヶ月後、山梨県山中で死体となって発見された。犯人は未だ捕まっていない。
 〈シルバ〉と直接会ってから丸多は、自分が映っている動画が一本含まれていることもあり、〈シルバ〉のチャンネルを中心に、動画を再生する機会を徐々に増やしていった。そんな中、何の前触れもなく出現した次のネットニュースは、丸多に少なくない衝撃を与えた。

 M新聞 2018年8月14日 15時44分
 動画クリエイターの男性、山中の家屋において変死体で見つかる

 山梨県警は、13日午後9時頃、同県三ツ瀬峠の中腹に位置する家屋で若い男性の遺体が発見された、と発表した。被害者の中田銀(なかたぎん)さん(26=東京都=)は、いわゆる動画投稿により広告収入を得る「動画クリエイター」で、知人男性らとともに、「心霊スポット」をテーマとした動画を撮影するために、当該場所を訪れていたという。中田さんはハンドルネーム「シルバ」を用いて動画投稿活動をしていて、そのチャンネル登録者数は今年5月の時点で三十万人に届いていた。
 最初に遺体を発見したのは、知人男性らのうちの一人で、「懸命に蘇生を試みたが、息をふきかえすことはなかった」と話している。
 司法解剖の結果、死因は頸部圧迫による窒息と判明。県警は凶器として「細いひも状のもの」が使われたとみている。また死亡から遺体発見まで一、二時間ほどが経過していた。
 さらに知人男性らは、「被害者は事件発覚直前まで家屋内の一室に、内側から鍵をかけて閉じこもっていた」、なおかつ「遺体発見直後に家屋から出火し、やむを得ず遺体を外に搬出した」とも証言している。
 実際に当該家屋は半焼しており、県警は今後、出火原因を含め殺人事件に至った経緯を詳しく調べていく。

 事件を初めて知ってから、丸多は類似の記事を貪(むさぼ)るように読んだ。〈シルバ〉が残した多くの動画も、それまでの心持ちとは全く異なる心境で観(み)直した。〈シルバ〉と一度しか会ったことがないとはいえ、動画を開くたびに真相解明への情熱が、制御できない腫瘍のごとく膨らんでいった。そのようにネット上の情報をすくっていくうちに、過去に〈シルバ〉の周りで起きた、数々の奇怪な出来事にも詳しくなっていった。
 ただし、世間の反応は丸多の気の高ぶりときれいに反比例していて、素っ気なかった。事件の第一報から三日間だけは各メディアも、青年の非業(ひごう)の死にわざとらしい嘆きを添えた。その間だけ〈シルバ〉は「高校時代、弓道で全国大会進出を経験した、前途有望な若者」などと表現された。
 成り上がりのクリエイターの突然死よりも、多くの視聴者数、閲覧数を稼げる話題が出現したあとは、急速に事件関連の記事は減っていった。犯人が捕まらない上、世間にはまだサッカーW杯の余熱が残り、さらに世界を主導するはずのアメリカ大統領がいつまでも酔っぱらいのように暴言を撒き散らすとあっては、それは無理もないことであった。あくまで国内で有名になりかけた人物が殺害されたことを、世間がいつまでも気にし続けるはずはなかったのである。
 丸多はタブレットを一旦置き、店内を見回した。北原はまだ来ない。マグカップにまだ半分ほど残っているコーヒーをすすり、タブレットに表示されたメールボックスを開いてみる。人差し指で受信ボックスの画面を素早く下に滑らせ、アップデートをかけてみたが、追加されるのは見飽きた広告ばかり載せたメールマガジンばかりで、その中に期待された北原からの新着メールは見当たらなかった。
 今頼れるのは北原しかいない。丸多には、誰か〈シルバ〉の知り合いが必要であった。ネットの情報だけで形作られる事件の概要は、何とも浅はかで物足りなかった。北原が自身の現在地を発信しているはずはなかったが、一応、短文投稿サイト[*2]の彼のアカウントも覗いてみる。最新の投稿は、約一カ月前の「学校帰り。友人たちと焼き肉なう」という無邪気かつ無意味なもので、これが今までずっと更新されていないことを丸多は知っている。鼻から細いため息を放つと、ブラウザのアイコンを指の関節で叩き、再び〈シルバ〉の動画のサムネイルが並ぶ画面を開いた。
 別の動画でも物色しようと、画面をスクロールするとそこに、動画に対する大量のコメントが出現した。〈シルバ〉のチャンネルは今なお残されていて、未だにそこへ視聴者からのコメントが寄せられるようである。内容は、「お悔やみ申し上げます」、「シルバさん、早すぎますよ」といった素直に追悼の意を表すものがほとんどで、あからさまに故人を侮蔑するような文言は見当たらない。中には「スターになるに値する男だった」、「才能は十分あったのに、無念」など、熱心なファンによると思われる投稿もあり、それらを読むうち、丸多の目頭は自然と潤んだ。
 そう、〈シルバ〉は死んでしまった。
 感傷的な気分は、〈シルバ〉の事件に先立って起きたある別の事故を連想させた。丸多は画面に触れ、「美礼(みれい)」で検索をかけた。
 膨大に出てくるメイク関連動画のサムネイルを、上へスクロールすると―――あった。動画のタイトルは「【やや閲覧注意】美人クリエイターの顔面崩壊」。
 本来〈美礼〉の動画は「皆さん、こんにちは、こんばんは、美礼です」と、定型句の挨拶から始まり、彼女が得意とする「愛されメイク」の紹介や、自作の踊りを披露するなどの内容へと移るのだが、この回だけは様子が違う。薄茶色の巻き髪をツインテールにした女性が一人、椅子に座りながら画面に向けて弱々しく手を振っている。本来、「憂いをたたえながら相手のどんな虚飾も見晴(みはる)かすような大きな黒い瞳」、「少し横向くだけでその先端が描く曲線が強調されるような、細くて高い鼻」、「きっ、と真横に結ばれた小さく赤い唇」、という形容も滑稽ではなくなるような美人なのだが、今は眼帯とマスクによって顔の大部分が隠されてしまっている。数秒間の沈黙ののち、〈美礼〉が一言かすれた声で言い放つ。
「階段から落ちちゃいました」ここで、眼帯とマスクが同時に外された。口元を少し緩めているが、目は笑っていない。
 白いガーゼがあてがわれていた片方の目の周りは、インクでも注入されたように青黒く変色している。唇の左端は膨れ上がり、鮮血を拭き取られた後らしい裂傷が細く走っている。撮影はこれらの傷を受けた直後に行われたようで、その痛々しさは想像力を駆使せずとも本能的に伝わってくる。
 動画はそこで唐突に終わった。再生時間二十五秒という短い内容だった。これは、国内有数の人気女性クリエイターだった〈美礼〉が、最後に残した動画である。〈美礼〉のチャンネルに上げられた後、直ぐに削除されたが、衝撃的な内容であるためか、今なおネット上に拡散された状態にある。
 〈美礼〉はこの動画を投稿した一ヶ月後の2017年6月、腹腔(ふくこう)内臓器損傷によって、つまり腹部に位置する内臓に負った傷が原因で夭折(ようせつ)した。22歳の若さだった。
 〈美礼〉は当時、大手動画クリエイター専門事務所「UMORE(ウモア)」に在籍していて、百万人以上のチャンネル登録者を獲得した、国内で指折りのスタークリエイターとして注目されていた。彼女の死に関するニュースは、その頃動画を観る習慣をほとんど持たなかった丸多の耳にも届いた。そのときは、誰か有名な動画投稿者が死んだんだな、というごく軽い感想しか持たなかった。しかし〈シルバ〉の事件以降、ネットを調べることで、二人が恋人関係にあったことを知った。すると当然ながら、丸多の意識は〈美礼〉が死んだ事実にも向くようになった。
 そして、まだある―――
「失礼します」声がして、丸多は顔を上げた。
 見ると何のことはない、ストライプのシャツを着た男性店員が、空いた隣のテーブルを拭きに来ただけだった。反射的に記憶している北原の顔と照らし合わせたが、似ても似つかない。男性店員は垢抜けた、いかにも都会然とした好青年で、どちらかといえばもったりとした印象を与える北原とは対照的であった。北原がまだ来ない事実を容易に受け入れられなかったからなのか自身でも判断がつかなかったが、丸多は横に向けた首をそのままにして、男性店員の所作をぼんやりと眺めた。やがて視線に気づいた店員が丸多の方を向こうとしたので、丸多はそこでまた前に向き直った。
 親しくもない人物をこれほど待ちわびる感覚は、甚だおかしなものであった。しかしそれは、事件の闇に霞む途方もない異常性を再度意識することですぐに、その悪辣(あくらつ)を追究する極めて能動的な衝動に取って代わった。北原に聞きたいことは山ほどある。
 件(くだん)の〈美礼〉の動画とは別に、まるで並行世界からこぼれ落ちてきたような奇妙な動画がある。丸多は再び「美礼 シルバ 喧嘩」で検索をかけ、出てきた動画を開いた。
「やめて」ガラスを切るような女の声。白を基調とした屋内、金髪の男が無言で女の髪を片手でつかみ、そのまま床に力任せに組み伏せる。動画の長さは、さらに短く八秒。この映像に映っている男女はそれぞれ、〈シルバ〉と〈美礼〉であるように見えるが、何しろ画質が悪く断定はできない。
 誰かのいたずらだろうか。あるいは、この動画が示すように、もし〈美礼〉が「階段から落ちた」と報告した時期に、本当は〈シルバ〉から暴行を受けていたのだとしたら、彼女はその事実を隠していた、ということになる。単なる若いカップルの痴話喧嘩であれば、これは注目すべき動画ではない。しかし、二人の男女が結果的に死を迎えている以上、無視することはできない。
 この短い映像は2018年10月に投稿されているが、きっと何度も転載が繰り返されたのだろう、この悶着の起きた具体的な日時は不明である。また、誰によって撮影されたか、出どころも定かでない。
「後ろぉ、手振って」突如〈美礼〉の声が聞こえ、丸多は体をびくっ、と震わせた。空耳ではない。現実の声だ。瞬時に丸多は、いよいよ自分も天国か地獄か、あるいはその他異世界から電波を受信するようになったか、と一種の諦念(ていねん)を抱いた。しかし、タブレットの画面を見直すことで、それが誤解であることを確認した。自動再生機能により、「関連動画」が勝手に始まっていたのである。タイトルは「美礼さんのオフ会に、デビュー前の東京スプレッドの姿が」。
 ちょうどいい。丸多も次にこれを観ようと思っていたところであった。これは動画サイトも示しているように、正に〈シルバ〉及び〈美礼〉の事件に深く関連している。少なくとも、丸多にはそのように思える。
「後ろぉ、手振って」ステージ上の〈美礼〉がマイクで声をかけると、観衆の中の後方に位置する人々が歓声を上げながら、手や光るサイリウムなどを振ってそれに応じる。見事な集客力ではある。自分には絶対にない才能だと、この類(たぐい)の動画を観るたび丸多の心に感服と呆れの入り混じった感覚が走る。
 どこのイベントスペースかは明らかにされていないが、画面の中で千をくだらないであろう客たちがひしめいている。男女の比はほぼ半々で、やはり全員が年端(としは)も行かない中高生のようである。少なくとも、くたびれた背広姿の中年男性や、髪を紫に染めた年配の女性などは動画の中で確認されることはない。常にエネルギーを放射状に放つ彼らは、激しい化学反応のごとく、女王の一言一言に対し敏感に反応する。
「真ん中ぁ」〈美礼〉が叫び、中盤の群衆が同様に沸き返る。以降、「前列ぅ」「最後、全員」と幼い信奉者らを十分に盛り上げたあと、何の合図もなくかかったテンポの早いBGMに合わせて、〈美礼〉は着火したねずみ花火のように踊り始めた。
 きっと音声加工ソフトによる音楽だろう、歌い手は気の抜けるような声で歌う機械の女性で、〈美礼〉ではない。〈美礼〉はあくまで音楽に合わせて、小刻みに踊るだけなのだが、その動作の根底には、観る者を安定して惹きつける熟練が備わっている。
 このイベントが行われた日、〈美礼〉は終始この調子で客を沸かせ続けたはずだが、動画の構成は途中からテキストと静止画のみに切り替わる。この動画はタイトルにもある通り、〈美礼〉の表現者としての資質に視聴者同士で感心し合うために、アップロードされたのではない。あくまで「あの集団」がこのイベントに足を運んでいた、という事実に焦点が当てられている。
 丸多は画面に触れ一時停止させ、映された一枚の画像を改めて睨んだ。これまで、他の事件関連のデータと共に何度となく眺めた画(え)だが、今回も見飽きたと感じることはない。コンサート会場などで必ず見られる、ステージと観客を隔てる柵に沿って、最前列に陣取る〈東京スプレッド〉の面々が映っている。手前から赤髪の〈キャプテン〉、アフロヘアの〈モジャ〉、巨漢の〈ニック〉、そして、三人の後ろに小柄な〈モンブラン〉。もう一人、〈ナンバー4〉と名乗る人物が〈東京スプレッド〉のメンバーに含まれているが、今ここにその姿は収められていない。四人は揃って例外なく、化学発光した棒を持ち、有り余る精気を柵に押しとどめられながら、念願の玩具を初めて与えられた子供のように、光り輝く顔をステージへ向けている。
 丸多は再び動画を進めながら、事件に関連する事柄を今一度脳内で整理する。そして、それらの繋がりを初めて知ったときの、天啓による恍惚にも似た刺激の残滓(ざんし)を感じつつ、一人、頭の奥でつぶやいた。
 そう、こいつらが〈シルバ〉が殺されたとき、最も近くにいた知人男性らなのだ。
 この後動画が流れ続け、〈東京スプレッド〉のメンバーそれぞれの顔が、マウスドラッグで描かれたようないびつな円で囲われていく。そして、次の簡潔な文章が、フェードエフェクトにより現れては消えていく。
「今最も勢いのあるクリエイター、東京スプレッド」「彼らの動画デビュー前の初々(ういうい)しい姿」「憧れの美礼さんを前に、このはしゃぎよう」「やんちゃな彼らにも、こんな一面があったと考えると」「なんだか微笑(ほほえ)ましいですね」
 丸多はそこで動画を止め、再生画面下部の説明欄に目を移す。この動画自体の投稿日は2018年7月とあるが、そのすぐ下に「2017年4月に行われた、UMORE主催の美礼さん単独オフ会にて」という記載が見られる。丸多は一旦動画サイトを最小化した。そして、〈シルバ〉の事件が起きて以来何度も反復して行ってきた作業であるが、頭の中に構築された事件に関わると見られる出来事の連なりを、時系列の順になぞってみた。
 まず、2017年4月、〈東京スプレッド〉の連中が〈美礼〉のオフ会に姿を現す。次に、2017年5月、〈美礼〉が怪我をする。もしかすると〈シルバ〉が彼女に暴行を加えたのかもしれない。その一ヶ月後、彼女は腹部の怪我により息を引き取る。そして2018年8月、〈シルバ〉は山梨県山中で帰らぬ人となる。
 ―――メールだ。北原からだろうか。
 タブレット画面の短文投稿アプリのアイコンに、通知件数を表す数字が追加されていることに気づいた。丸多は迷いなくそれを指でつつき、新着のダイレクトメッセージを開いた。直感の通り、北原からのメールであった。
「すいません。用事ができてしまいました。もう少し遅れます。申し訳ないです」
 悠長ながらも、まだ来る意思を捨てていない北原の様子を思い浮かべ、丸多はひとまず胸をなでおろした。このメールが送信されたのは、今から五分前。しがらみのない間柄であり、その分丸多の側にも誠意はふんだんに用意されている。丸多はメールを読むと、すかさず返信の文面を作成した。
「全然気にしません。ゆっくり来てください。今、白いシャツを着ながら、ドミールカフェの二階でコーヒー飲んでます」すると、向こうにも接待者に対して慇懃に振る舞おうとする物憂い配慮があるのか、一分と経たず返信が来た。
「丸多さん、お待たせして申し訳ありません。できるだけ急ぎます」
 不意に尿意を感じ、腰を上げかけた。しかし、顔も上げると、ちょうど一人の女性客がトイレに向かうところであった。丸多はそれを見て、また固い椅子に座りなおした。
 タブレットに表示されたままの短文投稿サイトには、丸多がフォローしているアカウントの新着メッセージが絶えず届き続ける。その中に〈東京スプレッド〉による、「本日の最新動画」のリンクを載せた投稿を見つけた。すでに〈東京スプレッド〉の動向を調査することは、彼の日課の最優先事項となっている。丸多は尿意も忘れ、反射的にそのリンクを人差し指の腹で叩いた。
 動画のタイトルは「この世のあらゆる知恵の輪を解く男、現る」。
 無内容であるのは観る前からわかりきっている。奴らの動作、表情から、今現在奴らが何を抱え、何を感じているか読み取ることが重要なのだ。丸多は心の中で自分にそう言い聞かせると、タブレットの画面を凝視し始めた。
「東京スプレッドのキャプテンと」相変わらず髪を赤く染めている〈キャプテン〉に続き、その他の者たちが「モジャと」「モンブランだよ」と立て続けに言い添える。ただし、この導入部分の自己紹介はすっかり恒常化しているのだろう、各メンバーが極端にくだけた口調で名乗るため、初見の視聴者にとってはまず聞き取れない。丸多は〈東京スプレッド〉の動画を観慣れているため、彼らがいい加減に言い放つこれらの言葉を、一瞬だけ映されるそれぞれの「名」のテロップと照らし合わせながら、聞き分けることができる。
 撮影場所はいつも通り、彼らが拠点としているどこか都内のマンションの一室であろう。乱れたベッドや、飲みかけのペットボトルが置かれた座卓など、生活感に溢れた家具に囲まれ、〈東京スプレッド〉のメンバーのうち三人が、座位で画面の枠に収まっている。三人とも肌のきめは細かく、いかにも遊び盛りの若者といった風貌である。真ん中に鎮座する、細身で、化粧を落としたピエロのような顔をした男が、このグループにおいて中心的な役割を担う〈キャプテン〉である。醜男(ぶおとこ)ではないが、観る者には「馬鹿々々しいことほど率先して行う三枚目」という印象を与える。その右の、故意なのか無意識なのか判然としないが、カメラから視線を外しているのが、二人目の〈モジャ〉。目鼻立ちはくっきりしているが、積極的に自身をひけらかすことをしないため、やや冷淡な雰囲気をまといがちである。また、丸多は彼らの動画を観察する中で、このハンドルネームが、彼の個性的なアフロスタイルに由来することを突き止めている。三人目の〈モンブラン〉は、アイドルグループから脱退してきたと思わせるような、透明感のある青年である。年少者らしく、切れ長の目から媚びるような視線を放っている。しかしやはり、その眼窩(がんか)の奥からは、ちょうど〈キャプテン〉が持ち合わせているのと同等の、常識よりも低俗さを賛美する意思が覗いている。
 まず〈キャプテン〉が、両脇の二人に向かって口を開く。
「早速ですが君たち、知恵の輪って知ってますか」
 小指の爪ほどの緊張感もない中、眠そうな目をした〈モジャ〉が答える。「知ってるよ。あれでしょ、ぐにゅぐにゅ絡まったやつでしょ」
「そう」と〈キャプテン〉。「実はここに一つあります」
 〈キャプテン〉は言い終わらないうち、ズボンのポケットから知恵の輪を出し、手前の床へ放り投げた。〈モンブラン〉がそれを拾い上げると、あからさまに軽んじた様子で言う。
「こんな金属のへなへなした棒で動画を盛り上げよう、って魂胆ですか、キャプテン」
 〈キャプテン〉が言い返す。「それは、お前らの腕次第だ。モンブラン、お前それほどいてみろ」
 言われて〈モンブラン〉が、絡まりあった金属棒を弄(もてあそ)び始める。それから、意外そうな表情を見せながら「あれ、どうなってんの、これ」と情けない声を漏らす。
「貸してみ」次に〈モジャ〉がひったくるようにして、〈モンブラン〉の手から知恵の輪を取り上げる。そして「あれ、どうなってんの、これ」と、直前に〈モンブラン〉がしたのと全く同じ反応を示した。
「心配するな」〈キャプテン〉が二人を遮る。「君たちのおつむが足りないことを俺は知っている。だからそんなことで、君たちに怒ったりはしない」
「お前外せんの、これ」〈モジャ〉が〈キャプテン〉に知恵の輪を渡す。
「ん?」
「いや、聞こえただろ。俺たち東京スプレッドのリーダーであるキャプテンさんは、知恵の輪を解けるんですか、って聞いたの」
 〈キャプテン〉も二人同様、金属製のパズルに挑み、やや沈黙した後、「どうなってんの、これ」と、それまでの流れの中での約束とも言える言葉を発した。
「キャプテン」〈モンブラン〉が尋ねる。「高校のとき、数学の偏差値いくつでした」
「数学の偏差値?23くらい」と〈キャプテン〉。
 それを聞いて、間髪入れず〈モジャ〉が言った。「お前のおつむが一番足りてないだろ」
 ここで一旦カットが変わるが、場所も面子(めんつ)も元のままである。
「そんなことより」〈キャプテン〉が言う。「今、この部屋に『どんな知恵の輪でも解くことができる男』を呼んでるんだ。お前ら、会いたくないか」
「会いたくはない」「会いたくないです」とそれぞれ〈モジャ〉と〈モンブラン〉。
 二人の返答を無視して、〈キャプテン〉が画面右側に目をやる。そして声を張り上げて言った。「先生、お願いします」
「呼んだ?」声がして、大柄な人物が枠内に入ってきた。〈ニック〉というハンドルネームを用いる男である。まだ寒い季節であるにもかかわらず上半身裸で、有り余る腹のぜい肉を、まるでそれが自身の最上の誉(ほま)れであるかのようにさらけ出している。思慮深さとは無縁の、明らかに人を小馬鹿にする意図を持った笑みは、やはり〈キャプテン〉らの浮わついた態度を彷彿させる。
「お前たち」〈ニック〉が、芝居がかった口調で言う。「簡単な知恵の輪一つも解けないらしいな。そんなことでは、家の鍵も回せないんじゃないか?いや、もっと具体的に言い直そう。お前たちなら、缶詰めを缶切りで開けるのにも十万年はかかるだろう」
「何なの、こいつ」と無表情の〈モジャ〉。
「ニックさん、解けるんですか?」〈モンブラン〉が訊いた。
「このお方は」〈キャプテン〉が口をはさむ。「この世にある、あらゆる知恵の輪を解くことができる、いわば『知の巨人』だ。お前らみたいな、チリチリの毛の奴とか、色気づいた勘違い野郎が、この方と対面できるだけでも奇跡なんだ。その辺のところをわかってるか?」
「ニック」〈モジャ〉が大男の方に顔を向けた。「お前、高校のとき、数学の偏差値いくつだった?」
「数学?」〈ニック〉が答える。「そもそも、偏差値って何?」
「こいつが一番バカでしょ」〈モジャ〉が言い捨てた。
「そんなことより」〈キャプテン〉は床を手のひらで叩いた。そして言った。「準備はいいですか、先生」「いいだろう」〈ニック〉が言うと、再びカットが変わった。
 やはり場所は先ほどと同じだが、天井から一本のひもがぶら下がっているところが、直前の場面と異なる。さらに、ひもの下端には冒頭から取り沙汰されている知恵の輪が結ばれている。
「この知恵の輪に」〈ニック〉が意気揚々と言う。「もう一本ひもをぶら下げる。すると、知恵の輪をはさんで上下にそれぞれ一本ずつひもが結ばれている状態になる。ここまではわかるな」
 〈ニック〉の問いかけに〈キャプテン〉と〈モンブラン〉が「はい」と応じる。〈ニック〉以外の三人は、部屋の壁際に並んで正座しているが、その中で〈モジャ〉だけは一連のやり取りに一切の興味を示さず、人差し指で耳の奥を掻いている。
「さらに」〈ニック〉がそれまでの調子のまま、喋り続ける。「天井と繋がってない方、つまり今結びつけた、知恵の輪の下にあるひもの先端を、もう一度知恵の輪にくくりつける。すると、天井から、ひも、知恵の輪、ひもで作った輪、がそれぞれ順に連結して、ぶら下がっていることになる。これ以上の説明は必要ないだろう。この輪の中に」
 長広舌をふるう〈ニック〉が、三人の反応も確かめず、さらに続ける。
「俺が入る」〈ニック〉はそう言うと、網のないテニスラケットに体をねじ込むように、たった今自分で作ったその輪を、ぎこちなくくぐり始めた。そして、輪が太い胴体に巻きついたとき、床を蹴り、宙に浮いた。
「ちょ、想像してたより、だいぶ怖い」
 空中で不器用にあがく〈ニック〉の姿は、吊るされたヒキガエル、及び石の下で人知れず蠢(うごめ)く虫の裏、この二つを丸多に連想させた。
「キャプテン」〈ニック〉は泣き声をあげた。「キャプテン、助けて。いや、これガチで。いててて、腹にめっちゃ食い込む。キャプテン、マジで。キャプテンって」
 〈キャプテン〉は達観した高僧のように身じろぎ一つせず、〈ニック〉の動作を見守っている。次の瞬間、〈ニック〉の胴体が上向きの力に見捨てられ、米俵のようにどさりと床に落ちた。
「知恵の輪は」〈ニック〉がひもの間の知恵の輪を、慌てて拾い上げる。しかし、それは全く変形しておらず、ただ天井に固定されていたフックが外れただけであった。
 真っ黒の画面の中央に「説教」の文字が数秒間表示され、その後、次のカットに移った。
「あのさ」部屋の端に立った〈モジャ〉が話し出す。他の三人は並んで正座をしながら、うなだれている。「今回の動画ではさ、ニックが、知恵の輪を結んだひもにぶら下がって、それで、その重量によって知恵の輪が無理やり変形されて外れる、っていう筋書きになってたじゃん。キャプテンが昨日、台本書いたよね。『ニックは太ってて重いから、きっと知恵の輪は外れるだろ』とか、酔っ払いながら言ってたの、俺覚えてるよ。で、何?ニックが天井からひもでぶら下がって、床に落ちただけ?タイトルで『世界中のどんな知恵の輪も外す男』とかなんとかほざいてさ、こいつみたいな体脂肪率50パーセントの奴が空中でじたばたする姿見せただけで、最後『はい、知恵の輪は解けませんでした』って、そんな動画ある?」〈モジャ〉は冷ややかな目つきで、メンバーを見下ろした。一同は静まり返っている。
「キャプテン」〈モンブラン〉がリーダーに顔を向ける。「どうですか、この動画は有り?」
 少しの間を置いて、四人全員が画面の方に顔を向けた。それぞれの表情を見たとき、丸多は意表を突かれた気持ちになった。正座していた三人に加え、それまで苦言を呈していた〈モジャ〉までが、はちきれそうな笑顔でいる。そして四人全員が、立てた親指を前面に出しながら、声を揃えて叫んだ。「有り!」
 動画は終わった。
 知恵の輪を解く気など、最初から微塵(みじん)もない。いつも通り〈東京スプレッド〉らしい動画だな、と丸多は思った。彼らのチャンネルの登録者数は現時点で十六万人弱。コメント欄では、「知恵の輪解く気全然ないやんwww[*3]」「人を食ったような動画。もう見ない」「有り!のところ草[*4]」「社会の底辺にいる奴らの悪ふざけ」「最後の四人の笑顔かわいい」「時間を返してほしい」など、ファン、アンチ、それぞれのコメントが入り乱れている。高評価、低評価の票数も、各々半数ずつある。
 動画を観飽きたと感じ始めた丸多は、その場で大きく背筋を伸ばした。丸多にとっては、この動画が面白いかどうかということは全く重要でない。今回も、事件を解く鍵となる有力な情報は得られなかった。〈東京スプレッド〉が、動画またはその他の方法で事件について言及したことは、少なくとも丸多が確認した限りでは一度もない。〈東京スプレッド〉が動画内で真犯人の名を告げる、ということまで期待しているわけではないが、またしても丸多は肩透かしを食らう格好となった。
 そういえば、と丸多はタブレットに向き直った。〈ナンバー4〉を最近見ていない。〈ナンバー4〉は〈東京スプレッド〉の一員だが、撮影や編集など裏方に回ることが多い。もしや脱退したかと思い、短文投稿サイトの〈ナンバー4〉のアカウントを確認する。すると、丸多の懸念に反し〈ナンバー4〉は健在で、最新の投稿としてあげられている「夕食はステーキにした。オニオンソースがいい感じ」というありふれたメッセージが目に飛び込んできた。もちろんここにも、事件の核心に近づく真新しい情報など見られない。

 これ以上時間潰しのイメージが湧かないな―――丸多は半ば途方にくれた思いで、ブラウザの画面を無作為にスクロールし始めた。未だ姿を現さない北原について考えながら、肺に溜まった息を勢いよく吐き出した。
 もはや動画を眺める気をすっかり失くした丸多だったが、次の文言が彼のその停滞した気分に予想外の揚力を与えた。「【悲報、閲覧注意】ちょいすの頭、イカれる」
 〈ちょいす〉?誰だ。この映像データは先ほどの〈美礼〉の場合と同様、直前に再生された〈東京スプレッド〉の動画の関連動画としてアップロードされている。サムネイルには、全裸に近い女性の姿が、夜空を背景にして映されている。丸多は迷わずそれをタップした。
 色白の肌が闇夜とのコントラストをなし、まるで発光しているように浮かび上がっている。肌の露出が際立つのは他でもない、その女性が下着以外何も身につけていないからである。女性は、どこか街角の公園らしい場所で一人、ブランコをこぎ続けている。カメラもきっと地面に置いてあるだけで、誰か他に撮影者がいる気配も感じられない。女性はおもむろにブランコの速度を緩めると、立ち上がり、おぼつかない足取りでカメラに近づいてきた。
 顔立ちがはっきりしてくると、その細部や特徴を入念に観察できた。黒目の引き立つそれは現代的な均整を従えている。肌の質感からするとかなり若い。20才にようやく届くくらいだろうか。未成年かもしれない。丸多はそのように冷静かつ分析的に思考を進めていたが、ある時点から、その動画に蔓延する毒々しい負の感情を感じずにはいられなくなった。
「この世から」いまや、女性の顔は画面の枠いっぱいに映っている。「この世から男なんていなくなればいい。みんなもそう思うでしょ。私はどうすればいい?どうすればいいと思う?この苦しみを一生抱えて生きていく気なんてない。この苦痛を誰かにぶつけてやりたい。世の中の人全員、同じ気持ちになったらいい。そしたら全員自殺して、最後私一人、笑いながら死ぬんだ。エベレストくらい高い、死骸の山のてっぺんで。それがいい。私より傷ついたことない人には、私の痛みなんてわからない。のうのうと生きてる人には、想像しようとしたって無理だろうね、きっと。ねえ、私どうすれば」
 動画はここまでで、続きはどのリンクにも見当たらない。
 呪詛。動画を観終えた後、丸多の頭には真っ先にこの言葉が浮かんだ。この動画の投稿日は2018年6月11日とあるが、それ以外の情報は一切なく、実際にいつ撮影されたものかはわからない。
 これが果たして、今丸多が興味を抱いている事件と間接的にも「関連」しているのか。全く関連がない可能性だって当然ある。丸多はこれまで集めた事件に関わる知識を総動員して、今の動画と事件との繋がりを見つけだそうとした。しかし、如何(いかん)せん、幽霊の入門講座のようなこの動画に出演している女性の正体を知らず、その作業はすぐに暗礁に乗り上げた。
 まるで、はめ込むべきパズルのピースを、否応(いやおう)なしに追加された心地だった。丸多は試しに表示されたままの画面から、当の動画をあげたユーザーのチャンネルを開いてみた。すると予想通り、無関係の雑多な動画のサムネイルが出てくるだけで、そのページが、あの下着姿の女性に関する知識を深めることに、全く役立たないことを知った。
 〈ちょいす〉か。丸多はこの言葉を検索しようと手を動かしかけたが、自身の膀胱から、破裂寸前であることを知らせる信号が届いていることに気づき、仕方なく立ち上がった。店内のトイレの前にはまだ、先ほど顔を上げたときに見た女性客がいた。手のひらのスマートフォンを眺めつつ、トイレがなかなか空かないことに、明らかにいら立った様子でいる。
 排尿ができるとしてもこの女性の後か、と丸多は軽い絶望感を味わった。別のトイレを求めて近くのデパートに駆け込むか、または、しとどに濡れたチノパンを新宿の衆目にさらすか、これら別々の未来を思い浮かべていると突然、トイレのドアがバタンと開いた。
 出てきたのは北原遊矢だった。
「あれ、北原さん」丸多は、通り過ぎようとする北原に声をかけた。北原は顔をあげ、驚いたような表情をした。
「あれ、丸多さんですか」「はい、そうです。丸多です。お久しぶりです」
 二人は意外な形での再会に笑顔を分け合った。
「そこの席を取ってます」丸多はそれまで座っていた席を指差した。「北原さん、座っててください。すいません、ちょっとトイレが近くて」
 北原はそれを聞いて再び笑顔を浮かべると、素直に丸多が指定した席へと歩いていった。北原の背中を見ていると、喜びや期待など迎えるべき正の感情が、自分でも信じられないほどみなぎってくるのを感じた。同時にそれは、何もしない休日を過ごすときのあの鉛のような体を、少しでも軽くする原動力ともなった。膀胱から伝わる尿意さえ、幾分和らいだ気がする。丸多は、人の出現によりそれほどまで劇的に気分を転換させる自身の単純さを思い、心の中で少し苦笑した。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

 1章 年表

 2017年4月  〈美礼〉のオフ会に〈東京スプレッド〉が参加。
 2017年5月  〈美礼〉怪我をする。
 2017年6月  〈美礼〉死去。
 2018年8月  〈シルバ〉の死体が見つかる。

[*1]: 2010年代、インターネットの動画投稿サイトに自ら制作した動画を投稿し、広告収入を得る人々が出現した。特に、当時世界最大の動画サービス「youtube」を利用するクリエイターは「ユーチューバー」などと呼ばれた。

[*2]: 半角280文字のメッセージ、また画像や動画などを投稿できるサービス「Twitter」などが流行した。

[*3]: 笑ったり、面白がったりするときに用いるネットスラング。英語ではlol(laugh out loud)に相当する。

[*4]: 「www」が生えた草に見えることから、「草」もwwwと同じように用いられるようになった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?