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胡乱の者たち(長編) 8

 2019年3月30日(土)

 この一週間、丸多の気分を多少なりとも前向きにしたものといえば、〈シルバ〉のチャンネルに届くコメント群だけだった。あれから数百件のコメントが集まり、〈シルバ〉の意志を存続させようとする動きは、ネットの片隅でくすぶるような盛り上がりを見せていた。
 事件の方は全く進展しなかった。集めた情報をなぞれば毎回、嫌がらせのような袋小路の壁が立ちはだかった。〈キャプテン〉から聞いた話のどこにもほつれは見当たらず、また、残された謎は未だ謎のままだった。
 難しい事柄の解決法は、大体調べても出てくることはない。ふさぎ込んでいた女がいきなり上機嫌で走り回るようになったり、あるいは、友人が突然何も告げずどこかへ引っ越したり、といった現象は人の理解の範疇(はんちゅう)を軽く超える。それらは、既存の文献を調査したところで解決することはない。〈シルバ〉の事件もそういった類のものだ、と丸多は感じていた。
 犯人以外で、事件の真相に最も近いのは誰か。それは自分である気もするし、そうでない気もする。
 誰か真相を知っている者はいるのか。「すいません、シルバさんを殺した犯人は誰でしょうか」その質問は妄想の中でこだまのように響き、結局何の処理もされないまま、自分の元へ戻って来るのだった。
 PCの画面では、桜並木の道を自撮りしながら歩く〈シルバ〉の様子が流れている。今週の夜は、ネットに残りかすのように浮く〈シルバ〉の映像を観て過ごした。断片的に切り出されたそれらは、事件を解く上で最後の砦となるはずだった。
 しかし、そこに新たなヒントを見つけることは出来なかった。
 〈シルバ〉は寝ている後輩を起こさず、その額にカナブンを何匹置けるか検証していた。また、別の場面では、後輩の頭にぬるいカレーをかけた上で、「ご飯と間違えた」などと言い切っていた。いずれも、子供の頃の遊びの延長のようであった。彼らが楽しそうであればあるほど、丸多の胸の隙間は寂寥(せきりょう)で満たされるのだった。
 桜の道を散策する場面もそういった児戯(じぎ)の一つだろう、と何の期待もせずに眺めた。しかし、あるところで丸多の注意が向いた。
 ここは見たことがあるな。どこだっただろう。―――そうだ、上野公園だ。十日ほど前に行ったばかりで、すぐに思い出すことができた。〈シルバ〉の後を〈東京スプレッド〉の五人が悠々とした足どりでついて行く。
「シルバさん」〈キャプテン〉が後ろから声をかけた。「何で、自分で撮ってるんですか」
「遊矢が忙しいって言うから」
「俺が代わりましょうか」
 〈キャプテン〉の申し出に対し、〈シルバ〉は「いや、いい」と言って、そのまま自分で撮影を続けた。
「『博物館にはどう行ったらいいんですか』って英語で何ていうの?」〈シルバ〉が後ろを振り返った。
「 “How do I get to the museum?”じゃないですか」〈モジャ〉がスマートフォンを見ながら答えた。
「お前、頭いいね」〈シルバ〉が言うと、〈モジャ〉は「いや、今ネットで調べただけです」と返した。
「Excuse me.」〈シルバ〉は、通りがかりの女性二人組に、習ったばかりの英語で声をかけた。「How do I get to the museum?」
 口に手を当てまごつく女性らに対し、彼は同じフレーズを繰り返した。
「ミュージカル?え、何?わかんない」
 戸惑う二人に対し〈シルバ〉は日本語に切り替え、「俺も日本人ですけどね」と言った。女性らは手を叩いて笑った。
 〈シルバ〉もあの辺りを歩いていたんだな。―――丸多は〈ナンバー4〉と待ち合わせたあの日を思い返し、覚えている道筋だけでも頭でなぞってみた。
 また場面は変わり、今度は光沢のある緑の三角帽をかぶった〈キャプテン〉が映った。
「これでいいかな」丸多にも見覚えのある室内。これもきっと〈シルバ〉の部屋だろう。〈キャプテン〉が大きめの紙箱を片手で支え、余った手で蓋を不器用に抑えている。
「もっときつく」横に立つ〈ニック〉も蓋に太い手を添えた。そして〈モジャ〉が箱に赤いリボンを丁寧に巻き付けた。
「シルバさん、メリークリスマス」〈キャプテン〉が呼ぶと、〈シルバ〉が枠の外から現れた。
「何それ」〈シルバ〉が箱を指差し、くだらない物を見る目で言った。実際にそれは「くだらない物」であった。彼は箱を受け取り、リボンを解いた。
 中には、馬鹿のような顔が描かれたバレーボールが入っていた。ボールの下方には、螺旋(らせん)状の針金がガムテープで取り付けられている。
「何これ、びっくり箱?」〈シルバ〉は冷静だった。
「はい」〈キャプテン〉が言い訳を始めた。「閉じたら、バネにくせがついちゃって、それでうまく飛び出なかったみたいです」
 〈キャプテン〉がちょうど言い終わる頃に〈シルバ〉は窓を開け、それを箱ごと外に放り投げた。
 もう切りがない。丸多は動画サイトを閉じ、PCの電源も切った。そして、大きなため息を一つついた。ベッドに放り出しておいた携帯を見たが、誰からの着信もなかった。
 外は晴れている。青空の下で健全になれるのは、元々健全である人だけだ。不健全な者の鬱屈はその青では浄化されず、却(かえ)ってその性質を色濃くする。純色のワイシャツと色落ちしたジーンズが不釣り合いであるように、爽やか過ぎる空の色が沈み気味の気分との調和をなさないのである。
 こんな気持ちの受け皿となるような場所が、どこかにあるだろうか。澄んだ空の下、どこぞの高級な飼い犬までくつろぎだすテラスで、ゆったりとコーヒーを飲みたくなる気分ではない。あるとすれば―――14時か。早くもなく、遅くもない。丸多はスマートフォンを取り、通話するのでなく、テキストメッセージを北原に送った。

 〈シルバ〉が眠る墓を見つける前に、北原の姿が目にとまった。仁那(にんな)寺という寺の裏手にある小さな墓所。彼の家の近所でもあり、早く着いたのだろう。彼岸が明けたばかりで、辺りには他に誰もいない。
「北原さん、今日は家にいてくれて良かったんですよ」
 丸多が声をかけると北原が振り向いた。「ああ、丸多さん。よくわかりましたね」
 「中田家」と彫られた墓石はくすんでいるが、それ以外に退廃を示す点は見当たらない。一平方メートルほどのその区画はよく整理されていて、むしろ清潔な印象を与えた。
 丸多は二段ある石段を上がり、墓前に立った。横に置かれた墓誌の端に、白い字で「銀 二十六才」と刻まれているのが目に入った。
「これ、北原さんが持ってきたんですか」丸多は供物台を指差した。そこには、買ったばかりと見られる缶ジュースや果物が置いてあった。
「いいえ。僕が来たときからありました」
「じゃあ、シルバさんの家族か、ファンが置いていったんですね」「そうみたいです」
 二人は線香も何も持ってこなかった。手を合わせてから、一度お辞儀をした。彼らがうっすらと覚えている最低限の供養の仕方であった。
 しばらく二人は立ったまま黙っていた。丸多は墓石に触れようと手を出しかけたが、すぐ引っ込めた。〈シルバ〉が語りかけてくることはない。〈シルバ〉は人生を閉じる直前に何を見たのか、それが知りたかった。報道の通り、何者かに首を締められ殺されたのか。または、それ以外の方法によってこの世を去ったのか。
 丸多が顔を上げると、北原もそうした。その場で事件の話はしなかった。二人で石段を降りると、墓地の隅で若い女性数人が固まっているのが見えた。彼女らの視線を感じ、丸多は少しの間ばつが悪い思いをした。しかし考えた後、すぐに事態を飲み込めた。
 きっと、あの人たちも〈シルバ〉の墓参りに来たのだろう。
 そうとわかると丸多は、北原を連れて足早にその場を離れた。
「北原さん、これ見てください」
 寺の駐車場の脇で、丸多はスマートフォンを差し出した。画面上で、〈シルバ〉の動画チャンネルのページが開かれている。
「何ですか」北原は言いながら、画面に並ぶ多数のコメントに目を移した。しばらく読みふけった後、彼は携帯電話を返した。
「実は、先週の日曜」丸多は、〈シルバ〉のコメント欄で、「チャンネルをより多くの人に知ってもらえるよう」呼びかけたことを話した。
「だから急に、コメントがこんなに増えたんですね」
「そうです」
 丸多がそう言う間にも、新しいコメントが次々と届いた。「シルバさんが念願だったスタークリエイターになれますように」「シルバさんの動画大好きでした」「みんなで百万人突破させよう」「今でも彼の動画を観ます。死んでしまったのが信じられない」「彼にはスターになってほしいって思ってた」「本当に惜しい人を亡くしたと思います」「生きてたら、今頃美礼に追いついてたのになあ」「犯人が早く捕まりますように」……
「さっき、お墓にいた人たちも」丸多は穏やかに言った。「シルバさんのファンでしょうね。もしかしたら、コメント欄の盛り上がりに触発されて、今日ここに来たのかもしれません。そうでないかもしれませんが」
 北原は自身のスマートフォンを取り出し、もう一度そのコメント欄を眺め出した。そして、「凄い、もう登録者四十万人超えてる」と感嘆の声をあげた。
「そこで、北原さん」丸多はそのままの口調で言った。「お願いがあります。北原さんには確か、SNSフォロワーが五千人ほどいましたよね」「はい」「北原さんも、シルバさんのチャンネルを盛り上げるよう、人々に呼びかけてみませんか」「もちろん、そうします」
 丸多は北原の横に立ち、メッセージを打つ彼の指の動きを観察した。
「みんなで、シルバのチャンネルを盛り上げよう」
 北原のあまりにも貧弱な語彙力を見て、丸多は噴き出しそうになった。ただし、送信した直後の反響には目を見張るものがあった。
「やっぱり、五千人もフォロワーがいると反響の大きさが違いますね」丸多は北原のスマートフォンの画面を覗きながら言った。「いいね」などの通知が、紙束を弾いてめくるように続々と押し寄せた。
 丸多が運転席に座り、北原は助手席に座った。二人ともシートベルトをしてから、一瞬間が空いた。直後、車内に二人の笑い声が響いた。
「すいません、いつもの癖で助手席に乗ってしまいました」北原は恥ずかしそうに笑みを浮かべ、シートベルトを外そうとした。
「いいですよ」丸多は北原にそのままでいるよう、身振りで示した。「乗っててください、せっかくですから。確かに今日この後、何かする予定は立てていませんでしたけど、このままどこかへ行くのも無意味ではないでしょう。北原さん、この後予定は?」
「特にないです」

 遮蔽(しゃへい)物のない高速道路上、傾いた弱い陽射しが日の入りの気配を与えていた。丸多は運転席のサンバイザーを下ろした。
「また山梨に行くんですか」北原が訊いた。
「そうですね。正直何かを期待するわけでもないんですが、今日空振りだったら、もう打つ手はなくなるでしょうね。八方塞がりです」
 弱気な丸多の言葉を聞いて、北原は沈黙した。丸多は「終わり」の予感をはっきりと鼻先に感じていた。どのような結末を迎えるのか、現時点では全く予想できない。孤島の館に容疑者を集め、そこで「犯人はあなたです」と切れ良く名指しすることになるのか、それとも、「わからない」と結論付け、事件の傍観者の一人に戻るのか。
「情報は集め切ったつもりなんですけどね」心の声が漏れた気がしたが、丸多はそのまま続けた。「シルバさんの伝記を書けるくらい、彼については調べ尽くしました。だけど事件を解くとなると、それらの情報が、わざとこちらを混乱させようとしてるんじゃないかと思わせるほど、自由に飛び回るんです」
「力になれなくて、申し訳ないです」
「何を言ってるんですか。北原さんはとてつもない力になってくれました。北原さんがいなければ、東京スプレッドはあれほど喋らなかったでしょうから。まだ早いですがね、北原さんには本当に感謝してるんですよ」
 北原はそれを聞いて、「いやいや」と照れ臭そうに手を顔の前で振った。
 市街地でカーナビに優しく指図されながら、丸多はアクセルを踏み続けた。着いたコンビニに見覚えがあったらしく、北原が言った。
「前に丸多さんが名刺を配ったところですね」
「そうです、モンブランさんが来たはずの店です」
 二人は店に入った。夕食前の時刻でもあり、中には数人の客がいた。丸多は客足が途切れたのを見計らい、レジ前の店員に声をかけた。
「以前この近くで起きた事件について、こちらで働いている方と連絡を取ったんですが」
 その従業員は、十日前丸多にアプリで情報を寄越(よこ)した男子高校生ではなかった。白髪混じりの初老の男で、胸に付けられたネームプレートには「店長代理」と書かれていた。丸多が、事件発生からそこで名刺を渡すまでの経緯を説明すると、男は心得た様子で何度も頷いた。従業員である男子高校生が丸多に目撃情報を提供したことまで、既に把握しているようだった。
「ご存知であれば、話が早いです」丸多は北原も男の視界に入るよう、背後につかせた。「もう半年以上前ですけど、東京スプレッドというグループのモンブランと名乗る人が、ここのお店に水や飲み物を買いに来たそうです」
「ええ、そうらしいですね」男はかすれた声で言った。
「お聞きしたいんですが、モンブランさんはここに一人で来ましたか。他のメンバーはいませんでしたか」
「いやあ、覚えてないですね」
 丸多は男がそう答えることを予期していた。男子高校生の名を告げようと、スマートフォンを取り出したとき、奥から若い男性従業員が出てきた。
「シルバさんの事件について調べている方ですか」従業員が丸多に訊いた。
「はい、そうです。私に連絡をくれた方ですか」
「いえ、違います」
 聞くと、若い男性は丸多に連絡をした高校生の友人らしく、その視線に好気と意欲が感じられる気がした。丸多は「店長代理」にしたのと同じ質問をした。
「多分、一人だったと思います」
「車で来ていましたか」
「いや、そこまでは覚えてないです」
 二人は礼を言い、店を出た。
「あまり多くの情報はくれませんでしたね」助手席の北原が言った。
「まあ、私たちは警察じゃないですから、しょうがないです。あんなものでしょう。まさか、控え室に案内されて、当時の防犯カメラの映像を見せてもらうことまでは期待してないです」
 次に二人はレストランに向かった。北原もその日のルートに合理性を見出し、「ここも二週間振りですね」と納得した様子で言った。
 ここでは、九日前に連絡をくれた女子高生に会うことができた。
「この前は連絡をして頂いて、ありがとうございました」と丸多。
「いえ、そんな」店員の女子高生は突然の二人の訪問に対し、終始一歩引いたような態度でいた。丸多が近づけば、銀の盆で顔を隠してしまいそうであった。
 客席に通されそうになるところを、丸多は手で払って断った。
「いえ、すぐ済む話なんで」
 丸多が話し始めると、背後の扉から親子連れが入ってきた。店員は優先的に客を先導して、奥へと行ってしまった。
「混む時間帯ですからね」北原の顔には諦めが現れていた。
「この場合、北原さんの方がいいかもしれません。私よりも有名ですから」丸多はそう言って、北原に耳打ちをした。そして、丸多だけ先に店外に出た。
 戻って来た北原に、丸多から声をかけた。
「どうでした」
「さっきの子は、今日20時に上がるそうです。その後、店内で話をしてくれるそうです。だから、あと一時間くらいありますね」「上出来です。次に行きましょう」
 すでに山間部は夜に沈んでいた。カーナビは無意味な音声を繰り返すだけで、相変わらず役に立たなかった。丸多は記憶した山道と、ヘッドライトに照らされる木々とを慎重に比べながら車を進めた。
「北原さん、道を間違えてたら教えてくださいね」
「はい、自信はないですけど」北原は本当に自信がなさそうだった。
 まだ肌寒い季節で、虫の音は聞こえない。街灯もいつの間にかなくなり、音のしない暗闇が段々と濃くなっていった。
 視界はほとんど黒一色だが、それでも三度目のドライブであり、迷いはしなかった。丸多は、あの轍のついた小道の入り口で車を停めた。エンジンは切らなかった。
 北原が丸多の顔越しに車外へ視線を送った。「まだ、通行止めがかかってますね」
「ええ」丸多は意に介さずにいる。「その先で温泉でも出れば、その立て看板もなくなるかもしれませんね」
 丸多の顔がスマートフォンの明かりにより、白く浮かんだ。北原が尋ねるより先に、丸多が言い出した。
「コンビニに着いてから、ファミレスまで約十分。さらにここに来るまでに約二十分、大体計三十分かかりました」
 意図がわからず、北原はぼんやりした顔を丸多に向けていた。丸多がさらに続ける。
「レストランで弁当を六人分注文したわけではないですからね。それを加えれば、四十分が妥当なところでしょう」
「東京スプレッドが小屋を出て、また戻ってくるまでの時間を計ってたんですね」北原の顔が少し晴れた。
「そうです。ただ、彼らが当日どのような道順を辿ったかはまだわかりません。それを今から確認しに行きます。誰かが目撃していればいいんですが」
 言い終わると、丸多は車をバックさせ、向きを変えた。
「もう、戻るんですか」北原が訊いた。
「じゃあ、幽霊が出て来るまで待ちますか?」「いや―――」
 このとき二人はまだ、この付近の異常性に気づかないほど呑気だった。車は再び市街地に向けて走った。

 丸多らの食事が終わる頃、私服に着替えた女子店員がテーブルにやってきた。紺のフードパーカーにロングスカートという、飾り気ない高校生を地で行く格好であった。彼女は北原が座る座席の端に、尻を半分だけ預けて座った。まるでそこに、二人に近づくのを妨げる反発力が働いているようだった。
「お忙しいところ、すいません」丸多が言うと、女子店員は「いえ、全然」と遠慮がちに答えた。
 仕事はもう終わったか、といった一般的な世間話をわずかに広げた後、丸多は本題に移った。
「何度も同じ話をして恐縮ですが、ここに東京スプレッドのニックさんが来たらしいですね」
「はい、来ました」店員は、九日前に通話でしたほど流暢には喋らなかった。年頃の娘と実際に顔を突き合わせればこんなものだろう、と思ったが、もはや丸多にとってそれは毛ほども重要ではなかった。
「ニックさんは一人でしたか」「はい、一人でした」「キャプテンさんとモジャさんはいなかったんですよね」「はい、いませんでした」「ニックさんは車で来ていましたか」
 店員は天井を見て考え込んだ後、言った。「すいません、そこまでは覚えてないです」
 丸多は質問を変えた。「ニックさんはお弁当を六人分買い込みましたよね」「はい」「そのくらいの量だと、注文してからどれくらいで出来上がるんですか」
 再び店員は考えた。「十分から十五分くらいですね」「ニックさんも当時、そのくらいの時間、店に滞在したということですね」「確かそうだったと思います」「―――他に何か変わった様子はなかったですか」「そうですね、特になかったです」
 ここで、二人の会話は途切れた。北原が話し出す様子もなかった。沈黙の最中、遠くの座席から、「エリ、何やってるの」と能天気な女子たちの声が聞こえた。女子店員はその声に反応して、「今、事情聴取されてるの」と大声で返した。そのときの彼女は、丸多に応対するときと比べて、遥かに生き生きとしていた。友人らしい女子たちは、「エリが犯人なんでしょ」と言い、大きく笑い合った。すると彼女も「そう、モップで叩いたら死んじゃった」と答え、同じ調子で笑った。丸多と北原は笑わずに、そのやり取りを眺めていた。
 女子店員が向き直ったのを見て、丸多は言った。「あんな事件があって、地元の人たちは困惑したでしょうね」
「はい」女子店員は、やや饒舌になった。「あの日、東京スプレッドは心霊スポットの動画を撮るために来た、ってニュースで言ってましたけど、この辺に心霊スポットなんてありませんからね」
「え」丸多と北原は目を剥いた。驚いた二人の反応が愉快だったのか、店員はさらに語った。
「私生まれてから十七年間この辺に住んでますけど、近くに心霊スポットがあるなんて聞いたことないです。事件が起きた山の中は確かに人気がなくて寂しいですけど、人の住むちゃんとした集落はありますし、出るのは熊かイノシシくらいです。幽霊なんて出ませんよ」
「失礼ですが」丸多は咳を一つした。「山奥で自殺が多発している、という話を聞いたことがありますが」
「ないです」店員は言い切った。「富士山の麓(ふもと)の樹海の話ですか?それだったら、もっと南です。『自殺の森』はここから三十キロ以上離れてます。この辺は『自殺の森』とは全く関係ないんです。この辺の山で自殺する人なんて、ほとんどいないですよ」
 それだけ話すと女子高生は、「あまり店員が客席にいると、心証良くないんで」と言い、軽い別れの言葉を残して席を立った。
 丸多はあまりの衝撃に、しばらく言葉を失っていた。
「心霊スポットなんてなかったんですね」
 北原に言われても丸多はまだ黙っていた。彼の頭の中で、事件関係者の発言が逐一(ちくいち)見直された。それが終わってから、言葉が彼の口から自然とこぼれた。「シルバさんが嘘をついていた」
 二人のテーブルに、もう一人来客があった。
「丸多さんと北原さんですか」低いが若々しい声がし、二人はそちらに顔を向けた。
 座席の横に、上下青のジャージを着た色黒の少年が立っていた。切ったままの短髪で、茶色い頬に上気したように赤味が差している。
「お待ちしてました。お座りください」丸多はそう言って腰をずらし、新客の座る場所を作った。
 北原の不思議そうな顔を見て、丸多が説明した。
「彼はさっきのコンビニで働いている高校生です。十日前私に、『モンブランさんが来た』という目撃情報をくれました。さっきコンビニを出た後に、会えないかメッセージを送ったんです」
 北原は聞く途中で、合点がいったように「ああ」と声を出した。
「ありがとうございます。こんな遅い時間にわざわざ」丸多が顔を向けると、男子高校生は「とんでもないです」と、はにかみながら微笑んだ。
 丸多は卓上の呼び出しボタンを押し、ドリンクバーを一人分追加した。「せっかくなんで、あなたの飲み物でもついで来てください」
「いいんですか」高校生はただ意外そうな顔つきでいた。
「当然です。こちらから呼んだんですから」
 男子高校生がコーラをついで戻って来た。丸多はここでも、学校は休みか、といったありふれた話題から入った。高校生は部活帰りにここに寄った、と答えた。切りのいいところで丸多は話を堅くした。
「それで、何度も同じ話をして恐縮ですが、事件当日、あなたが勤めているコンビニにモンブランさんが来た、と伺いました」
「はい、来てました」「一人でしたか」「はい、一人でした」
 高校生は、話の間常に丸多の目を真っ直ぐ見た。汚れない誠実さを前に丸多は、自分にもこんな時期があっただろうか、と心の中で思った。また、懐かしさと可笑しさによって口元を少し緩めた。
「東京スプレッドの」丸多は続けた。「他のメンバーはいませんでしたか」
「いませんでした」「モンブランさんは車で来ていましたか」
 やはり、先ほどの女子店員同様、この問いの後、少年も目を逸らして考えた。
「車で来てた―――と思います」高校生は、あからさまに迷いを浮かべていた。
「そこに他のメンバーが誰か乗っていたか、覚えてますか」「いや、そこまでは覚えてないです。すいません」「いえ、全然結構ですよ」
 丸多が次の質問を探そうとすると、高校生から言い出した。
「役に立つ情報かは、わからないですけど」「ええ、何でもおっしゃってください」「事件のあった日、ちょうどこの店の駐車場でニックさんを見たような気がします」
「あなたがニックさんを見たんですか」丸多は顔を上げ、少年の顔を見据えた。北原も「君はモンブランを見た後に、ニックも見たの?」と訊いた。
「いえ、違うんです」彼は両手を胸の前で振った。
「モンブランさんは後日、警察と一緒に見たんですよね」と丸多。
「そうです。事件のあった日バイトは入ってなかったんで、コンビニには行ってないんです。その日学校から帰る途中、自転車でこの店の前の道を通ったんです。確か夕方だったと思います。そのとき、駐車場に停めてあった車に、ニックさんが乗っていたように思えるんです。ちょっと視界に入っただけだったんで、断言は出来ないんですけど」
 丸多が間髪入れず尋ねる。「車のどの位置に座ってましたか、そのニックさんと思われる人物は」
「運転席です。何でそんなこと覚えているかって言うと」
 高校生はここで息を整えた。丸多はそれを見て、「自由に喋ってもらって構いません。今私たちはとても大事な話を聞いてるんで、急かしたりなんかしません」
「すいません」高校生は照れ笑いしてから、後を続けた。「それで、何で覚えているかって言うと、ニックさん、本当はニックさんじゃないかもしれませんけど、彼に似た大柄な男性が運転席で奇妙な動きをしていたんです」
 丸多らは息を飲んで次の言葉を待った。
「普通だったら、車の中に人が乗っていても気にしませんよね。だけど、僕が『あれ、ニックさんかな』って思って車の中を見ていたら、運転席のその大柄な人と目が合って、そしたらその後、後部座席に声をかけるような仕草をしたんです。当然それを見て、僕も後部座席の方を見ました。だけど、そこに人影は見えませんでした」
「なるほど」丸多が言った。
「自転車で通りがかるときに見た一瞬の出来事でした」高校生はここで言葉を切った。

 丸多は三人分の会計を支払い、外に出た。高い街灯に照らされた駐車場で、北原と男子高校生が待っていた。
「ごちそうさまでした」二人は丸多に頭を下げた。
「全然、気にしないでください」
 丸多は少年との別れ際、「ニックを乗せていたらしい車」の位置を教えてもらうなどした。話していると、背後で聞き覚えのある黄色い声がした。
「カズヤじゃん、中学校以来じゃない?」
 先ほどの女子店員と、その友人たちであった。彼女らと男子高校生は旧知の仲らしく、夜の駐車場で雑談を繰り広げた。
 丸多が北原を連れ車に戻ろうとすると、女子高生の一人に声をかけられた。
「すいません、一緒に写真撮ってください」
 丸多はスマートフォンを一台手渡された。その言葉は北原一人に向けられたものだった。よく照明の届く場所で北原を取り囲み、彼らはピースサインなど楽しげなポーズをとった。丸多はその光景を一枚写真に収めると、集団の中から「もう一枚、お願いします」と声があがった。丸多は言う通りにしてようやく、ボランティアカメラマンとしての役割を終えることに成功した。
「いやあ、参りましたね」北原は助手席に滑り込んだ。
「若さというのは素晴らしいものです」丸多は無表情で言った。「若さがなくなったとき残るものを、人の内面と言うのかもしれませんね。まあ、今はそんなことはいいです」
 車が走り出したとき、ダッシュボードの時計は午後10時を示していた。
「もう、帰りますか」北原が訊いてきた。
「北原さん」丸多は表情を変えなかった。「私はこれまで、北原さんに無茶なお願いをしてきたつもりはありません。少なくとも自分ではそう思ってます」
 北原が妙な顔つきで運転席の方を向いた。ラジオさえかけられていない車内で、無感情なエンジンの音が際立って聞こえた。北原は何と言って良いかわからない様子で、口を開けたまま丸多の横顔を見つめていた。
「もう夜も更けてきましたから、通常であれば当然東京に戻るべきでしょうね。だけど、私たちがこの先ここに来ることは、きっとありません」
 丸多は手を伸ばして、助手席の引き出しを開けた。そこから懐中電灯を一本取り出した。北原は黙ってそれを目で追った。
「私有地でない山林であれば立ち入っても構わないでしょう。山にピクニックに行くのと同じです。それに、私たちには『正当な目的』もありますし」
「随分険(けわ)しそうなピクニックですね」北原の苦笑いが暗い車内に浮かんだ。
 それ以上深くならない闇夜が、付近一帯までも黒く染め上げている。丸多と北原はそれぞれ、懐中電灯とスマートフォンを手に持ち、車を降りた。耳を澄ませて待つと、遠くのフクロウの鳴き声だけが耳に届いた。
 丸多はまず小道の入り口を明かりで照らした。二人の予想通り、警察による「立入禁止」の看板はまだそこにあった。
「突破するんですか」北原が耳打ちするように尋ねた。
「いいえ」
 丸多は来た道に沿って、数歩歩いた。そこから、山林の奥に懐中電灯の光を向けた。
「北原さん、ここから入りましょう」
 細い木々の踏みつけられる音が辺り一面に響いた。それに驚いた鳥たちが、一斉に枝から飛び立った。顔には、指ほどの胴体を持った虫が何度も当たった。足を運ぶごとにズボンの裾がめくれ、むき出しのすねに無数の硬い葉が触れた。
 しかし、それらに構ってなどいられなかった。ここで引き返すことほど無駄な行為はない。視界は手の届く範囲ほどしかなかった。丸多は特に方角を見失わないように、一歩ずつ確実に進んだ。
 家屋跡へと通じる小道くらいの距離は進んだだろうか。丸多は左に顔と光を向けた。
 あれは―――
「丸多さん」北原が呼び、丸多は振り返った。
 北原は藪の中の一点を照らし、そこを指で示していた。
「何かそこに落ちている白い物―――皿ですかね」
「皿?」
 丸多は茂みに手を突っ込み、それを拾い上げた。その白い物体は確かに陶器の皿だった。
 それを放り出すと、さらに歩みを進めた。木々が一旦途切れ歩きやすくなったが、またすぐに同様の樹林が出現した。奥を照らしたとき、暗闇の中で白いいくつかの点が反射する光となって浮かび上がった。それらを見た途端、丸多は背後の北原も気にかけず走り出した。そして光を照り返した小さな物体の一つをつまみ上げた。
「こっちにも何か捨ててあります」また北原が呼びかけた。
 北原が光を当てている箇所には、白く、重量のありそうなものが横たわっている。近寄るうちに、丸多はその正体に気づいた。
 便器だ。なぜこんなところに。
 丸多の頭に直感が働いた。もしかしたら―――
 丸多は周囲の草むらに注意深く光を向け、そこらを手で探った。しばらく続けると「あった」。指先に触れたのは銀色の指輪であった。
 丸多の脳内で、それまで集めた事実の断片が化学結合のように繋ぎ合わさっていった。
 そうか、そういうことだ―――すると、少なくとも、あいつだけは確実に犯行に関与していたはずだ。
「丸多さん、あっちにもまだ何か落ちてます」
 まるで、罠におびき寄せられる雀だな、と丸多は自分たちの姿を滑稽に思った。
 懐中電灯に群がる虫を払いながら奥へ進むと、さらに多くの調度品を発見した。汚れた風呂桶、洗面台、食器類、空のガラス瓶―――それらを辿るにつれ、丸多の胸にただならぬ予感が湧き上がった。
 それ以上進んではならない。
 冷静な別の自分が、頭の中でそう囁いた。
「何でしょうね。点々と奥に続いているみたいです」
 北原はもはや好奇心だけで、林の中を突き進んでいる。丸多は彼を追いかけた。
「向こうにも大きなものが転がってますね」
「北原さん」
 丸多が呼び止めても、彼はまだ先へ行こうとした。丸多は伸びた草に足を取られながらも、彼を止めようと走った。
 先ほどから、ある予感の原因となっていた、この嫌な匂い。ただの山林が自然に放つ匂いでは決してない。
 北原は立ち止まって、足元を見下ろしていた。
 それ見たことか。油断して進むから、心の準備をする前にこんな光景を目にすることになるのだ。
 蛆(うじ)に食い尽くされた死体の顔など見たくなかったので、丸多は北原の手から携帯を奪った。

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