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胡乱の者たち(長編) 5

 2019年3月21日(木)

「もっと人の少ないところにすれば良かったですね」
 丸多は夜まで絶えることのない人込みを見て嘆息をもらした。〈ナンバー4〉の連絡の後、集合場所は、三人ともアクセスしやすいという理由で上野に決まった。そのとき安易な発想で、「西郷隆盛像の前」と提案したことを、丸多は後悔していた。この混雑では、あの特徴のない〈ナンバー4〉が現れても簡単に発見できない。
「大丈夫ですよ」北原は随分リラックスしていた。「あいつが来たら、僕が知らせます。顔は見慣れてるんで」
「そういえば」丸多は北原の方を向いた。「昨日、山梨県のコンビニからメッセージが届いたんですよ」
 何事か把握できないでいる北原を見て、丸多は補足した。「あれです。東京スプレッドの目撃情報です。私が先週の土曜、ファミレスとコンビニ何軒かで、名刺ばらまいたじゃないですか」
「えっ」北原は目を見開いた。「東京スプレッドを見た人から、連絡来たんですか」
「はい。昨日、山梨県のあるコンビニの従業員から、直接アプリにメッセージが届いて」「丸多さんと一緒に昼食取った後に、回ったところですよね」「はい。地元の男子高校生だそうで、だいぶ前、警察からも似たようなことを聞かれたそうです。その人は、『事件当日、モンブランさんが来店した』と言ってました」「やっぱり、あの辺で買い物をしてたんですね」「そうみたいです。夕方6時半くらいに、飲み物などを買っていったそうです。何でそんなに詳しく覚えていたかというと、事件の数日後に、そのコンビニに直接来た警官らから、防犯カメラの記録映像を見せるよう要請を受けたんだそうです。従業員の控え室でその視聴が行われ、その高校生もその場に立ち会ったのでよく覚えている、と言っていました」「警察は、東京スプレッドの供述が事実と食い違わないか、確認しに来たんでしょうね」「そうですね。確かモジャさんが、『ナンバー4さん以外の四人は、小屋に着いて撮影準備をした後、買い出しに行った』と言ってました。一応、昨日の証言と合致はしていますね。まあまだ、一部の事実についての確認しか取れていませんが」
 周囲では何人かの外国人が、像に向けてスマートフォンのレンズをかざしている。二人は人の流れが変わるたび、立ち位置を器用に移さねばならなかった。
「花見の季節ですからね」北原の顔は観光客のそれと変わらなかった。
「今日は上野は混む、って教えてくれれば良かったのに」そう言われて、北原は八重歯を見せて笑った。
「決して、桜で思い出したわけじゃないですけど」丸多が続けて言った。「北原さん、ちょいすさんの持ち物って、何か持ってないですよね」
「ちょいすの持ち物ですか」「はい。シルバさんが亡くなったとき、もしかしたら北原さんは彼の遺品のいくつかを受け取ったんじゃないかと思って。それで、その中にもし彼女の物があれば、一つ譲ってもらえないかと思いまして」
 北原は腕を組んで考えた。「多分僕、ちょいすの持ち物は持ってないですね。確かに遺品整理のとき、シルバの服を何着か引き取りましたけど、ちょいすの物はなかったと思います。前にも言った通り、あいつとちょいすが別れたとき、ほとんど彼女の実家に返しちゃったんですよ」「そうでしたよね」「別れた後も、シルバの家にちょいすが使ってた歯ブラシとか残ってたと思いますけど、もう三年も前だからとっくに捨てられてるんじゃないですかね」「そうですよね」「丸多さん、そういえばあの後、ちょいすの家に行ったんですよね」「ええ、行きました」「どうでしたか」「母子ともに、素晴らしい人格の持ち主でしたよ。話もまともに聞いてもらえないまま門前払いです」
 丸多が言い終えた後、二人は大きく声に出して笑い合った。
 〈ナンバー4〉を探す手間は省けた。約束の時刻17時の三分前に、彼は目ざとくも二人を見つけ声をかけてきた。
「こんちはっす」〈ナンバー4〉は黒いブルゾンのポケットに両手を突っ込んでいたが、中に短銃など握っているのでもなさそうだった。その日は黒縁の眼鏡をかけていて、前回会ったときと比べ、いくらか理知的に見えた。
 丸多が「先々週以来ですね」とわかり切ったことを言ったが、〈ナンバー4〉はそれを軽々しくとらえず、「そうですね、お久しぶりです」と丁重に返した。
 〈ナンバー4〉が事前に駅前の居酒屋を予約していて、三人は徒歩でそこへ向かった。店内は、すでに出来上がった客たちの、耳をふさぎたくなるような喧騒であふれていた。丸多と北原は上がり框(がまち)に靴下で上がり、脱いだ靴を備え付けのロッカーに入れた。その間、〈ナンバー4〉が店員に予約名を告げていて、丸多はそちらを見ずに聞き耳を立てた。しかし、彼が伝えたのは姓名でなく、団体名としての「東京スプレッド」であった。
 三人が通されたのは、三方が分厚い壁で囲われた四人掛けの席だった。残る一辺の上方には丸めた簾(すだれ)が備わっていて、それを下ろせば、ほぼ完全な個室にすることができる。
「随分高級なところですね」丸多は率直な感想を漏らす。「こんなところ、会社の飲み会でも滅多に来ないです」
「僕もこんなところ滅多に来ません」〈ナンバー4〉は照れ隠しのように、少し笑みを浮かべた。「今日は個室でないと話ができないんで、無理にこういう高いところを選びました」
 ひとまず三人は、現代の儀式とも言える乾杯をすることにした。丸多、北原はそれぞれ、生ビール、梅酒を注文した。〈ナンバー4〉は「酒を飲むと、肌がかゆくなる」として、ジンジャエールを頼んだ。
 夕食も兼ねていて、続々と食事が運ばれる中、〈ナンバー4〉が切り出した。
「丸多さん、この前は失礼しました。僕も含めて、うちの連中はあの日、丸多さんを週刊誌の記者か何かだと勘違いしてました」「いえ、全然気にしてないです」「丸多さんは真剣に、シルバさんの事件について調べてるんですよね」「ええ、完全な素人ですけどね。あの事件を知れば知るほど、何もしないでいることに我慢ができなくなってしまって」
 〈ナンバー4〉はリュックサックから一台のノートPCを取り出し、テーブルに置いた。ある程度予想してはいたが、それを見て丸多の胸は急激に高鳴り始めた。
「キャプテンに知られたら、俺きっと殺されます」〈ナンバー4〉のその発言が冗談か本気かわからなかったが、丸多は黙ってその先を促した。
「事件当日の映像データをこっそり持ってきました」
「見せていただけるんですか」「はい。警察にはもうだいぶ前に提出したんですけど、いつまで経っても犯人は捕まりませんし、こうなったら事件を解決してくれそうな人に見せるしかないと思って。正直、僕も本当に悩んでるんです。事件が解決しないと、どうしても俺らが疑われますし」
「グロいとこ映ってる?」北原が横から訊いた。
「いや」〈ナンバー4〉は少し考えてから答えた。「グロくはない。ただ、最後の方は緊迫して、ちょっと怖いかも。そもそもグロかったら、こんな飯食うところで見せないよ」
「わかりました。ナンバー4さん、非常に助かります」
 〈ナンバー4〉は画面の再生ボタンを押した。
 木造の簡素な建物が画面に現れた。それは丸多が事前に写真で確認したものに違いなく、またはるかに鮮明でもあった。〈シルバ〉と〈東京スプレッド〉らが、その前庭をうろつきながら呑気に談笑している。〈シルバ〉の逆立てた金髪と日焼けした肌を見ると、丸多の胸に懐かしさと親しみがこみ上げた。
「これは現場の家に到着した頃ですか」丸多が訊いた。
「そうです。確か、夕方の5時前でした。車で到着した直後です」「撮影してるのは、ナンバー4さんですか」「はい、この日の撮影は大体僕が担当してました」
 しばらくは参加者の和気藹々(あいあい)とした様子が流れた。〈シルバ〉、〈キャプテン〉、〈モジャ〉の三人は立ち話をし、〈ニック〉は〈モンブラン〉のキャップを奪おうとするなどして浮かれ騒いでいる。
 丸多は鞄のクリアファイルから、おなじみの「建物図面」を出し、PCに並べて置いた。「今皆さんがいるのは、建物のこの付近ですね」
 〈ナンバー4〉は、指差された紙面上の一点を見て答えた。「そうです。家の前の庭ですね。車道の脇に車を置いて、曲がりくねった小道を歩いてきたところです」
「ここで一旦、オープニング撮ろう」〈シルバ〉が言い、撮影者以外の五人が建物の前で横一列に並んだ。全員が、ブランド品らしい半袖Tシャツにハーフパンツという、いかにも若者らしい格好でいる。ただし、〈キャプテン〉の白いシャツには「お化け上等」という、真剣さの対極にある意思の反映された文言がプリントされている。
 彼らの姿がクローズアップされる中、一瞬、丸多によってそれまで意識されなかった物が画面上部に映った。
「今、家の屋根に何か四角い物が張り付いてませんでしたか」
「どれですか」〈ナンバー4〉が少し映像を戻し、該当する物が映るところで止めた。
「これです。この屋根の中央にある」「ああ、天窓です」「あの家には天窓がついてたんですか」丸多はいかにも意外そうに、〈ナンバー4〉の顔へ視線を移した。
「はい、僕らが待機していた『真ん中の部屋』があったじゃないですか。そこに陽が差すように取り付けられてました」
 丸多は建物図面を改めて眺めた。なるほど、確かに「真ん中の部屋」に窓はなく、日光を取り入れるためには、天井に天窓がついているべきである【図4】。丸多は図面とPCを交互に眺め、問題の家屋を三次元的にも捉えようとした。

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「はい、こんちは」「撮影」を始めた〈シルバ〉の声が聞こえ、三人の注意は再び画面へと向いた。「スターになると言われているシルバです」
 〈シルバ〉の半ば冗談めいた挨拶の後、〈東京スプレッド〉の面々が順に名乗る。もちろんここでも、彼ら特有のいい加減さは捨てられていない。
「皆さん、見てください」〈シルバ〉が後ろに体をひねり、片手で家屋を示した。枠内の四人はそれにつられて振り返り、「夜になったら怖そう」「これ、ガチじゃないっすか」「近くに他の家全然ないし」などと、各々似たような感想を述べた。建物の上には、嫌味なほど澄んだ青空が広がっている。陽気なピクニックとしか釣り合わないであろうその空が、沈鬱さを助長するその家の哀れな性質を浮き彫りにしている。
「見てわかる通り、今日の企画は心霊スポット探索です」〈シルバ〉だけは特に平静を保っている。
「本当にここに一泊するんすか」〈キャプテン〉の顔に明らかに恐怖が浮かんでいる。しかし、それが本物の感情かただの芝居かは、映像だけでは判断できない。
「皆さん、『住めば都』という言葉をご存知ですか」〈シルバ〉は、あくまで表向きはふざけている。
「そりゃ、幽霊にとっては都でしょうけど」〈モジャ〉はむき出しのすねを手で掻いた。
「モジャくん」〈シルバ〉が彼に視線を向ける。「今何て言いました?」
「いや、『幽霊にとっては都』って」「その通り。実はこの辺」
 〈シルバ〉は一呼吸置いてから、囁くように言った。「自殺の名所です」
「はい、解散」〈キャプテン〉がそう言い、〈東京スプレッド〉が走って枠外に散らばっていった。
 本来であれば、ここでカットが変わるのだろう。四人はだらだらと〈シルバ〉の周りに歩いて戻り、カメラを気にしない様子で雑談を始めた。
「オープニング、これでオッケーっすか?」〈キャプテン〉が〈シルバ〉に訊いた。
「うん。じゃあ全員、車から荷物持ってきて」
 カメラは地面を映しながら、不規則に揺れ始めた。
「ここで」〈ナンバー4〉がキーボードに手を伸ばした。「僕も含めて、全員で家に荷物を運び入れます。長いんでちょっと飛ばしますね」
「あ」丸多が制止した。「すいません。もう一度、建物の外観がわかる部分で止めてもらえますか」
「ここで、いいですか」〈ナンバー4〉は、出演者が整列する直前の場面で動画を停止した。
「はい、ありがとうございます」丸多はそう言って、一分ほど画面を睨み続けた。従業員が天ぷらの盛り合わせを運んできたが、彼はそれに一目もくれなかった。
「ナンバー4さん」丸多は顔を上げ、訊いた。「家は一つの強固な建物だった、とみていいでしょうか」
「と、言いますと」〈ナンバー4〉が飲み込めない様子で訊き返した。
「例えば、どこかに取り外せる壁があったり」「それは有り得ないです。ご覧の通り、この家は一つのしっかりとした建物でした。見た目はシンプルですけど、人の手でちょっと動かして穴が空いたりするような箇所はなかったと思います」「そのようですね。建物の外部に裂け目のようなものも見当たりませんね―――」「もう、いいですか」「あ、どうぞ続きをお願いします」
 映像の〈ナンバー4〉は玄関の扉を開け、床に足をかけた。そして靴を脱ぎ、湿っぽい板張りの廊下を数歩進んで、中央の部屋へと入った。床、壁も廊下同様、古びた材木から成っていて、家具などの調度品は一切見当たらない。当然、家主が出迎える様子もない。
「これ、もう17時過ぎですよね」丸多がぼつりと言った。
「そうですね」と〈ナンバー4〉。「もう外は暗くなりかけてましたね」
 室内には先ほど確認した天窓から光が差し込んでいる。しかし〈ナンバー4〉の言う通り日没も近く、持ち込まれたキャンプ用ランタンによって光が補われている。
「暑いから窓開けよう」〈モンブラン〉の声がし、〈ナンバー4〉のカメラは開いたままの右の部屋の扉をくぐった。
「モンブラン」〈シルバ〉が忠告のように言う。「窓開けないで。蚊入るから」
「ここは、あの右の部屋ですよね」丸多が念を押すように、図面も指し示す。
「そうです。後でシルバさんがこもる部屋です」
 部屋の隅には、中央の部屋のものと同型のランタンが置かれている。そして部屋の前方には、以前〈モジャ〉が書き込んだ通り、すりガラスの窓が設けられている。窓枠には茶色い錆びが目立ち、軽く引いても滑らかに開きそうにない。
 〈シルバ〉は〈モンブラン〉が開けようとしていた窓に近づき、その鍵を閉めた。それは窓の内側に固定されている一般的なクレセント錠で、こちらも腐食甚だしく、指先に力を込めてもすぐには回せないらしかった。
「窓を開けるのは大変そうですね」丸多は言った。
「はい」〈ナンバー4〉が画面を見つめながら答える。「でも、開けても蚊が入ってくるんで、開きづらくても特に問題はありませんでした」〈ナンバー4〉は一つ一つを思い出すようにして言った。
 それからカメラが中央の部屋へ戻ろうとした。ここでも丸多は「ちょっといいですか」と、映像を止めさせた。
「右の部屋にはいくつかダンボール箱が置いてありますけど、これらには何が入ってるんですか」
 〈ナンバー4〉が一つ咳払いをした。「これらには人数分の布団とか扇風機とか、車で運び切れなかった物が入ってます。事前にシルバさんと僕で搬入しました」「ナンバー4さん、事前にこの家に行ってたんですか」「はい。シルバさんに言われて、彼と一緒にこれらのダンボール箱を車に詰めてここに行きました。シルバさんの運転で」「いつ頃ですか」
「ええと」〈ナンバー4〉は腕を組んで少し考えた。「事件の日の三日前だったと思います」「具体的にシルバさんは何と言って、あなたを連れ出したんですか」「いや、ただ単に『新しい企画やるから、荷物運び手伝ってほしい』って言われました」「箱の中身は確認しましたか」「はい。ガムテープで閉じられたりしてなかったんで、中は確認しました。掛け布団と敷布団が六人分、充電式扇風機が一台、あと枕、ロープ、電池、ゴミ袋など細々とした物が入ってました。あと正確に何が入ってたかは、すいません、覚えてないです」「そうですか、わかりました」
「お前ら、ちょっと集合」〈シルバ〉が合図をした。すると、それぞれの作業をしていたらしい残りの三人が、のろのろと部屋へ入ってきた。
「あの先が心霊スポットだから」〈シルバ〉は言いながら、クレセント錠を回し窓を開けた。
「シルバさんは平気で窓を開けますね【図4②】」丸多は白けた様子でいる。それに対し、〈ナンバー4〉が補足するように言った。「まあ、シルバさんは絶対的なリーダーでしたからね」
 映像ではまだ〈シルバ〉が喋っている。「あれ見ろ。『立ち入り禁止』って書いてあるだろ」
 〈東京スプレッド〉の〈ナンバー4〉を除く四人が一斉に窓から顔を出す。そして、カメラもそこに向けてズームした。
「あの『立ち入り禁止』の向こうが自殺の名所らしい。夜になったら、全員であの先に行くぞ。今から心の準備しとけよ」
「見るからに気持ち悪いところだな」〈ニック〉の声が枠外から聞こえた。
 庭の先には、草木自らそこをどいてできたような筋が伸びている。それもやはり大きく曲がっていて、向こうを見通すことはできない。何事かを隠し持つ薄気味悪い林にはすでに、墨汁を混ぜたような仄(ほの)暗い空が覆いかぶさっている。
 その小径(こみち)の入り口の両脇には一本ずつ朽木(きゅうぼく)の杭が刺さっていて、それらに渡された鎖がだらんと懸垂線(けんすいせん)を描いている。そして、そのカーブの中央に、「立ち入り禁止」と書かれた木の札がぶら下がっているのである。これらは同質の腐敗によって互いに負の調和をなし、付近一帯の救いがたい荒廃に拍車をかけていた。
「この『立ち入り禁止』の看板を見ると」丸多がつぶやく。「少なくとも、公的な機関による最近の通行規制でないことはわかりますね」
「そうですね」〈ナンバー4〉にも異論はないようだった。「『立ち入り禁止』の文字も手書きですし、文字が書かれた板もかなり古ぼけてますよね」「ナンバー4さん、この看板、誰が設置したかわかりますか。家主でしょうか」「さあ、僕には全くわかりませんね。この看板も、僕が最初にここに来たときからありました」「事件の三日前にも」「はい、そのときにもありました。ちらっと見ただけですけど」
 動画はさらに続く。部屋の窓は再び施錠され、企画の参加者は屋内に散っていった。〈シルバ〉を除く全員が、直前に見た「立ち入り禁止」の看板に対し、「気持ち悪い」などの否定的な感想を与えていた。しかし、全体としての雰囲気はまだ、旅館に着いたばかりの修学旅行生と変わらなかった。
 次に〈ナンバー4〉は、手前に開きかけていた左の部屋の扉を引き、中へ入った。
「こっちは広いな」部屋に入るなり、〈ナンバー4〉がそう言った。それから〈キャプテン〉が手荷物を床に置きながら、通る声で言った。
「シルバさん、こっちの部屋、俺らで使っていいんですか」彼はすでに上半身裸でいて、汗で濡れた背中が隣室の光を照り返している。
「いいよ」カメラは、大声で答える〈シルバ〉の方を向いた。「お前らの荷物は、基本全部そっちに置いといて」
「左の部屋には何もありませんね」と丸多。
「この部屋は、僕らの荷物置き場に使われてました。夜には寝室としても使われる予定でした」
 薄暗いその部屋の中で、カメラがぐるりと回った。丸多は無言で、部屋の形状や窓の位置が「図面」の通りであることを確認した。うまく身を隠せるような場所も無さそうであった。
 荷物の搬入が完了し落ち着いた頃、陽は完全に沈んだ。〈ニック〉と〈モンブラン〉が相撲を取り、じゃれ合っている横で、三脚を持った〈シルバ〉が〈ナンバー4〉に声をかけた。
「4、カメラ貸して」カメラが〈シルバ〉の手に渡り、映像が固定された。
「ここは大事ですね」丸多が言った。「ナンバー4さん、ここでカメラをシルバさんに渡して、彼がカメラを三脚に固定しましたね」「はい」「位置は真ん中の部屋のここで間違いないですか【図4】」
 丸多がボールペンで図面に書き入れ、〈ナンバー4〉がそれを覗く。
「はい、その位置で合ってます」
 それ以降、カメラは部屋の端に置かれ、録画が続けられた。右の部屋の扉がしっかりと収まっているところに、丸多は何か作為的な意思を感じた。
「おい、お前ら。遊んでないで、ちゃんと仕事しろ」〈シルバ〉が歯切れ良く言うと、二人はそれぞれ「相手から仕掛けてきた」と、使い古された言い訳をした。しかし、すぐ後に奇襲のようにして〈シルバ〉は、〈ニック〉に下手な柔道技をかけた。それを見て〈東京スプレッド〉のメンバーらは「シルバさんも遊んでるじゃないですか」と、口を揃えて愉快そうに言った。
 その中で〈ナンバー4〉が一人、無言で室外へと出ていった。丸多はこの場面も逃さずに質問を投げた。
「この場面では、ナンバー4さん、どちらに行かれたんですか」
「トイレです。廊下を曲がって突き当りの。カメラ持たなくて済むようになったんで。ずっとトイレに行きたかったんですよ。でも、すぐ戻ってきますよ」
 言う通り、〈ナンバー4〉は二分ほどで室内に戻った。その際、誰にともなく「トイレ暗くて、めっちゃ怖いですね」と言い放った。ここで初めて彼の全身が画面に映った。軽装であることは他のメンバーと変わらないが、ここでも今日の黒縁眼鏡をかけている。
「じゃあ、お前らさあ」中央の部屋に立ち、〈シルバ〉が指揮をとる。「街まで行って、飯とか買ってきて、六人分」
「シルバさん、何がいいですか」〈キャプテン〉が訊いた。
「お前らのセンスに任せる。ああ、あと、水も買ってきて。飲む以外にも、手洗ったりするのに必要だから。一億リットルくらい」
 一億リットルという現実離れした指示内容について、メンバーらは特段何らかの反応を示すことをしなかった。
「俺、こっちの部屋で編集してるから」〈シルバ〉は右の部屋のドアノブに手をかけた。丸多は音をたてずに、喉の奥で唾を飲んだ。「集中するために鍵かけとくから、勝手に開けんなよ」
「鶴の恩返しみたいですね」〈モジャ〉が揶揄し、〈シルバ〉が「恩返しして欲しいのは俺の方だけどね」と受け流すようにして返した。
 〈シルバ〉は手にノートPCを持ち、部屋に入りかけた。すると〈ニック〉が、彼に声をかけながら後について行った。〈ニック〉の手にはスマートフォンが握られている。
「ニックさんが中に入りましたね」丸多は言った。
「すぐ出てきますよ」〈ナンバー4〉が答え、確かに一分も経たず〈ニック〉が出てきた。彼がノブを押して扉を閉める際、中から「チーズメンチカツがなかったら、ハンバーグでいいや。あと唐揚げもよろしく」という〈シルバ〉の声が聞こえた。
「了解です」〈ニック〉がそう言ってから、扉は完全に閉じられた。
「ここでは」丸多は増えてきた料理の皿を脇にどけた。「ニックさんはやっぱり、シルバさんの好みを訊いていたんでしょうか」「多分そうだと思います。あと、店の位置など確認しようとしたんじゃないですかね。電波の届かない場所だったんで、携帯はほぼ意味なかったと思いますけど」
「さてと」〈キャプテン〉が部屋の真ん中で大きく伸びをした。「俺らで買い出し行くか。4、お前は留守番ね」
「任せてください」画面内の〈ナンバー4〉が低い声で言う。敢えて気の利かないように話すところは、丸多とよく似ている。
 〈ナンバー4〉以外のメンバーは、各々得意の冗舌をふるいながら、出かける準備を始めた。〈キャプテン〉も上に一枚Tシャツを着た。その中で〈モジャ〉は、言葉少なに早い段階で外へと出ていった。
「モジャさんは随分早く外へ出ましたね」丸多が言うと、〈ナンバー4〉は「車の中でスマートフォンのゲームでもしてたんじゃないですか」と諦めたように言い捨てた。それから〈キャプテン〉と〈ニック〉も出ていった。〈モンブラン〉も財布を取ってきて、二人を追うように出かけていった。
 〈ナンバー4〉は床にノートPCを置き、要領を得た様子で何やら作業に取りかかった。
「ここからは長いですよ」〈ナンバー4〉から言い出した。「あいつらが帰ってくるまで、全く何も起きないんで」
「何も起きない」という言い回しが、丸多の思考の途中で異物のように引っかかった。
「シルバさんは、部屋に入ってから発見される前までに殺されたんですよね」「おそらく、そうだと思います」「本当に『何も起きなった』んですか」「見ればわかります。映像では本当の本当に、何も起きません」「このときは、大体何時頃だったんでしょうか」「そうですね、夕方の6時過ぎだったと思います」
 メンバーが戻るまでちょうど一時間ほどあると教えられ、ある程度映像を速めて再生するのはやむを得なかった。ふいに画面内の〈ナンバー4〉が立ち上がり、直後映像が途切れた。これについて、丸多が訊く前に〈ナンバー4〉が説明を加えた。
「バッテリーが切れそうだったんで交換しました。途切れた時間はほんの数十秒です。誓って言いますが、バッテリーを交換してる間、僕はそれ以外の行動は何一つしませんでした。シルバさんも相変わらず部屋から出て来ませんでしたし、誰かが戻って来ることもありませんでした」
 〈ナンバー4〉は真っ直ぐ丸多の目を見ていた。そう言われて丸多は、その言葉を信じて頷くことしか出来なかった。
 再び映像が流れた。状況は〈ナンバー4〉が「バッテリーを交換する」前と変わらない。
「見たらわかりますけど」と丸多。「ナンバー4さんも、このとき動画の編集作業をしてたんですよね」「はい、そうです。シルバさんと同じで、僕も溜まってた編集をここで行ってました」「シルバさんと一緒に作業する、という流れにはならなかったんですね」
 これに対し、〈ナンバー4〉は若干言葉を詰まらせる素振りを見せた。
「まあ、必ずしも二人で作業する必要はないですからね。別々に動画を制作してますし」「それはそうですよね」「正直僕も、このときのシルバさんの行動がいまいち理解できないんですよ。こんな人里離れたところで一人作業してたら、普通寂しくなりますよ。実際僕は、メンバーが帰ってくるまで心細かったですし。もしかしたら、シルバさんは右の部屋で、何か他人に見られたくないようなことをやってたのかもしれません」
 買い出し班四人が出かけてからは、単調な映像が続いた。〈ナンバー4〉の言葉通り、シルバの部屋の扉は一度も開かれなかった。四倍速の動画に丸多ら三人は目を凝らした。特に丸多は、ほんの些細な動きにも最大の注意を払うつもりでいた。しかし、彼が期待する「完全不可能犯罪のほつれ」はどこにも見当たらなかった。
 三人が無言でいる中、画面内に再び姿を現したのは〈キャプテン〉だった。両手に弁当が入ったビニール袋をぶら下げている。〈ナンバー4〉はそこで映像を通常の速度に戻した。
「ただいま」〈キャプテン〉が入り口の扉を押し開け、入ってきた。床にあぐらをかいた〈ナンバー4〉が「おかえり」と返す。他の三人も大量の袋を抱えて、続々と部屋に入ってきた。どの袋にも見慣れたレストランやコンビニのロゴがプリントされている。
「ここで大体夜の7時くらいですか」と丸多。
「はい、確か7時過ぎだったはずです」
 丸多はすかさずコンビニの袋を観察し、それがメンバーの目撃情報を寄越した店の名前と一致するのを確認した。レストラン名にも見覚えがあった。それは、先週、北原と共に昼食を取ったファミリーレストランに違いなかった。
「シルバさん」〈ニック〉が右の部屋に向けて言った。「ハンバーグと唐揚げ買ってきましたよ」
 〈モンブラン〉も同じように報告する。「ライムソーダ買ってきたんですけど、シルバさん飲めますか」
 部屋から応答はなく、いっとき家全体が静まり返った。
「寝てんのかな」〈モジャ〉が不思議そうな顔をした。
「シルバさん、中にいる?」〈キャプテン〉が編集中の〈ナンバー4〉の方を向いた。
「いますよ。僕ずっとここにいたんで、少なくともその間シルバさんは出てきませんでした」
 〈ナンバー4〉が言い終わる前に、〈キャプテン〉は進み出て、〈シルバ〉の部屋の扉を軽く叩いた。「シルバさん。飯買って来ましたよ」
 それでも応答はなかった。
「寝てんだろ」〈キャプテン〉は首をかしげながらも、引き下がった。「いいや、俺たちで先に食べてよう。そのうち出て来るだろ」
「シルバさん、先食べてますよ」〈ニック〉が大声で言い、〈東京スプレッド〉の五人は中央の部屋で円座して夕食を取り始めた。
 食後、五人は弁当の殻をそのままにして、しばらく談笑を続けた。狭く密閉された室内にも関わらず、〈モジャ〉と〈ニック〉は煙草をふかしている。
「雨降ってました?」誰にともなく〈ナンバー4〉が訊いた。
「降ってないよ」〈モジャ〉がアルミ容器に灰を落とした。「そっちは?」
「いや、雨の音はしてないですけど、いきなり降ってきてもおかしくない、と思って」
「雨降ったらだるいな」二人の話を聞いて〈モンブラン〉が言った。
「確かに、山の天気は変わりやすいからな」〈キャプテン〉が言うと、〈ニック〉がポケットからスマートフォンを取り出した。「天気予報だと―――ああ、やっぱ電波届かないから、わかんねえ」
「ちょっとトイレ行ってきます」〈ナンバー4〉が立ち上がった。
「あ、そのあと、俺も行こうかな」〈ニック〉が〈ナンバー4〉の背中を目で追った。「4、俺もその後行くから、臭くするなよ」
「それは無理です。何出しても臭くなりますよ」〈ナンバー4〉は笑顔を見せ、室外へ出て行った。
「っていうか、煙臭いから廊下の窓開けていい?」〈キャプテン〉が立ち上がった。
「シルバさんに怒られるんじゃない?」〈ニック〉が言いながら、煙草をもみ消す。
「いいや、俺がスプレーで蚊を退治する」〈キャプテン〉は開けっ放しの左の部屋の扉を通り、また戻ってきた。手には殺虫スプレーが握られている。「シルバさん、ちょっとだけ廊下の窓開けますよ」
 返事は全くなく、声をかけた〈キャプテン〉をはじめ、一同は顔を見合わせた。このときから、その場に少しずつ不穏な空気が混じり出した。
「それにしても、シルバさん遅いな」戻って来た〈キャプテン〉は、こまめにスプレーの噴霧を始めた。〈ニック〉は立ち上がり、新しい煙草に火をつけた。
「後で、あの『立ち入り禁止』の札の向こうに行くんだよな」〈ニック〉が言い、〈モジャ〉が「何、お前びびってんの?」と茶化す。
「そりゃ、びびるよ。あんな気持ち悪いところ。自殺者の霊がいるんだぞ」
 その後〈モジャ〉も立ち上がり、一つの扉のノブに手をかけた。
「このドアだけ最初から開かないんだよな【図4①】」〈モジャ〉はノブを二三度回してから、諦めてまた床に座りなおした。
「何、お前もう行く気?」〈ニック〉が訊くと、〈モジャ〉も煙草を取り出して言った。「いや、まだだけど、開けたらまた『立ち入り禁止』の札が見えるかな、と思って」
「やめとけ。その辺のものをむやみにいじるな」〈キャプテン〉が鋭く言ったとき、ちょうど〈ナンバー4〉が戻ってきた。
 彼の口から、この日初めて現場の奇妙さを具体的に表す言葉が吐き出された。
「俺の指輪がないんですよ」〈ナンバー4〉の顔には、その事態よりももっと大きな不安が貼り付いている。
「4の指輪ないの?」〈キャプテン〉が尋ねた。
「はい、さっき突き当りのトイレに忘れてきて、今取りに行ったんですよ。でも、見当たらないんです」
「暗いからじゃない?」〈モジャ〉が指摘する。
「いや、携帯で隈なく照らしましたけど、無かったです」
「本当にトイレに置いてきたの?」と〈キャプテン〉。
「はい、トイレットペーパーかけるところの上に小さなでっぱりがあって、さっき間違いなくそこに置いたんですよ。でも今見たら無くなってました」
「いつ頃?」今度は〈ニック〉が訊く。
「二時間くらい前です。シルバさんがそこにカメラをセットしたときです。そのタイミングで俺、ちょうどトイレに行ったんです」
 静寂が降り、それまでの彼らの楽しげな旅行気分が一掃された。
「シルバさんを呼びません?」〈モンブラン〉の顔は緊張でこわばっている。
「シルバさん」〈キャプテン〉が右の部屋の扉に駆け寄り、強めに叩いた。「そろそろ起きてください」
 部屋の雰囲気は一気に張り詰めた。
「シルバさん」〈キャプテン〉が拳で何度もノックをする。「いますよね。出てこないなら、こっちから無理やり開けますよ」
「ドッキリだとしても、長すぎじゃない?」〈モジャ〉が真顔で言った。それに〈ニック〉が同意する。
「俺もそう思う。何が起きてるのか、全然わかんない」
「シルバさん、どうしました?具合悪いですか」
 〈キャプテン〉の最後の呼びかけも虚しく消え、それから十分ほど、五人はなす術なく、室内をさまよい歩いた。
「皆さん、なかなか扉を開けませんね」丸多はじれったい様子でいた。
「まだ、このときは」現実の〈ナンバー4〉は、動画内の自身と同様、微かに怯えた表情でいる。「シルバさんの悪ふざけだと思ってたんです。僕は、シルバさんがお化けの格好でもして、部屋から出てくるんじゃないか、と思ってました。むしろそうであってほしい、と願ってました。他のメンバーも同じように考えてたんだと思います。だから、企画を台無しにする可能性もまだあったんで、僕らからむやみに行動に移れませんでした」
「ダメだ」一旦外に出たらしい〈キャプテン〉が戻ってきた。「シルバさんの部屋の窓には鍵がかかってる。中の明かりも消えてる」
「電話かけたらどうですか?」〈モンブラン〉は言ったあと、すぐ渋い顔に切り替えた。「いや、ダメか。ここだと電波届かないしな」
「よし、ぶち破ろう」〈キャプテン〉が言い、五人は〈シルバ〉の部屋の前に集まった。
 まず〈キャプテン〉が肩から扉にぶつかった。その振動で映像が縦に揺れた。
「俺がやる」〈ニック〉が代わり、同じように巨体を扉にぶつけた。四人は黙ってそのさまを眺めた。もはや軽口を叩く者は一人もいない。
「扉の鍵は誰も持ってなかったんですか」丸多が〈ナンバー4〉に訊く。
「はい。鍵は誰も持ってませんでした。扉は内側からサムターンを回して閉めるタイプで、逆側からは鍵がないと開けられませんでした。さっきモジャさんががちゃがちゃ回してた扉も多分同じだと思います。屋内の扉の見た目はどれも同じでしたから」
 丸多は複雑な顔をしてから、また画面を覗き込んだ。
 その間、〈ニック〉による体当たりが繰り返され、扉とドア枠の間に細いすき間が出来上がった。そして、〈キャプテン〉がそのすき間から扉をつかみ、全体重をかけて引き、ようやく扉が開いた。
「シルバさん、どうしました」真っ先に入った〈キャプテン〉が叫んだ。
 映像では右の部屋の様子を詳しく観察できなかったが、事前に〈キャプテン〉が報告した通り部屋の明かりが消えていることは確認できた。彼は室内にかがみこみ、床に横たわっているらしい〈シルバ〉を素手で何度も叩いた。
 四人も立て続けに入ろうとすると、〈キャプテン〉が厳しい口調で止めた。
「入るな。やばい、シルバさんの意識がない」
 〈キャプテン〉は暗い室内で足音を響かせながら、何度もそこらを往復した。どうやら辺りを入念に調べているらしい。ドア枠から室内を覗く四人の背中が、尋常でなく切迫した事態を示していた。
「死んでる?」〈ニック〉が涙声で言う。
「シルバさん」〈モンブラン〉が声を震わせて言ったが、中から返答はなかった。
「裏、燃えてないですか?」〈ナンバー4〉が部屋の奥を指し示し、〈キャプテン〉以外の三人も一斉にそちらに顔を向けた。
「やばい、燃えてる、燃えてる」〈モジャ〉ががなり立て、まだ室内にいる〈キャプテン〉を派手な身振りで呼び戻した。
 部屋から飛び出てきた〈キャプテン〉は、鬼気迫る様子で言った。「お前ら、出ろ。早く」
 〈ナンバー4〉がすぐさまカメラをつかみ、それにより映像は観るに堪えないほど混濁した。
「そんなのいいから、早く逃げろ」〈キャプテン〉の絶叫、火のはぜる音、混乱した足音、それらが無秩序にスピーカーから流れる。丸多はノートPCに手を伸ばし、場にふさわしくないその音のボリュームを下げた。
「さっき」〈ナンバー4〉はここで映像を止めた。「『グロくない』って言いましたけど、実はここから少しだけ死体が映ります。どうしますか、続けますか」
 丸多と北原は無言で頷いた。その三人の姿は、店内のあらゆるところから届く酒宴の声とは極めて対照的であった。
 炎に包まれる家を背景に、完全に力の抜けた人体を、〈キャプテン〉と〈ニック〉が運んでいる。〈シルバ〉の首、腕、脚が、今にももげ落ちそうに胴体から垂れ下がっている。
 映像の対象はすぐに、遺体から燃える建物へ移った。開け放たれた玄関の扉を通して、すでに室内を舐め尽くす炎が確認できる。それは慌てふためく人々の感情とは無関係に発達し、あたかも一切の慈悲を撥ね付ける地獄の意思であるようにも見えた。
「お前ら」両手を膝に当てて喘ぐ〈キャプテン〉の姿が、画面端にちらっと映る。「シルバさんのそばに付いてて。俺、街に下りて救急車呼んでくる。誰か携帯持ってる?」
「俺、持ってる」〈ニック〉がポケットから取り出し、〈キャプテン〉はそれを奪うように片手で取った。
「俺らはここにいるんですか」〈モンブラン〉は今にも泣きだしそうでいる。
「すまん」と〈キャプテン〉。「とにかく、すぐ戻ってくる。シルバさんを頼んだ」
 丸多は少しの音声も聞き逃さないよう、スピーカーに耳を押し当てている。このときの〈ナンバー4〉はカメラをただ抱えているだけで、大幅に揺れ動く映像にもはや意味はなかった。
「シルバさん、シルバさん」〈モンブラン〉の声が断続的に聞こえる。
「このときは」丸多の視線だけが、〈ナンバー4〉に向く。「もしかして、モンブランさんが人工呼吸してますか」
「そうです。僕とモンブランがその場に残りました。何故か、ニックさんとモジャさんもキャプテンについて行きました」
 丸多がノートPCから離れ、壁に寄りかかったとき、〈ナンバー4〉が呼び止めるようにして言った。
「丸多さん、まだ続きがあります。特にこの最後の場面を見て欲しいです」
 今の場合に気を持たせるような言い方をされ、断る理由など思いつくはずもなかった。丸多は再び前のめりになり、画面を見つめた。
 火勢はまだ衰えず、暗い空を執拗に炙(あぶ)っていた。〈シルバ〉の遺体が脇に転がっているようだが、このときの画面には収められていない。
「ここ、よく見て下さい」〈ナンバー4〉が浅黒い指で、画面中央を指した。「何かが小さく光ってるの、わかりますか」
 燃えて崩れ落ちる建物のわずか上方、ちょうど「自殺者の霊が出る」と言われた奥の林で、不規則に点滅する青い光が見えた。
「確かに、建物の後ろの方で何かが光ってますね」言いながら丸多は、足下から怖気が這い上がってくるのを感じた。北原も画面に顔を近づける。三人の双眸(そうぼう)がその一点に視線を注ぐ間も、その正体不明の火はその法則性を明かさないまま瞬いていた。
「向こうで、何か光ってる」〈ナンバー4〉が枠外の〈モンブラン〉に言った。
 火に包まれた家の屋根が轟音と共に崩落した。このときから映像は再び振動を始め、証拠資料としての価値を低下させた。
「ここ、やばい。普通じゃない」取り乱す〈モンブラン〉の声。そして、荒い呼吸と、芝の上を駆け出す二人の足音。
「これで終わりです」〈ナンバー4〉が長い息を吐いて、停止ボタンを押した。
 酔いたい気分は塵(ちり)一つ分もなかった。しかし、飲み物がぬるくなったビールしかなく、丸多は仕方なくそれを一口分だけ飲んだ。
「最後の場面で」丸多はグラスを置き、尋ねた。「お二人はその場を離れたんですか」
「はい。お恥ずかしい話ですけど、今見てもらった通り、あの家の上の方、空中で何か青い火が揺らめいているのが見えて」「『立ち入り禁止』の林の上あたりですね」「はい。それで、猛烈に怖くなって、モンブランと二人で逃げ出しました。もと来た小道を車道に向かって、無我夢中で走りました。シルバさんが気がかりでしたけど、どうしようもありませんでした。次に異変が起きるのは自分じゃないか、とさえ思えてきて」
「気に病む必要はないと思います」丸多は相手の目を見た。「同じ状況なら、命知らずでない限り誰もがそうしたでしょう。そして、その後、お二人は車道でキャプテンさんらの帰りを待った」「そうです。僕たち二人は震えてました。二十分くらい経ったら、救急車と一緒にキャプテンたちの車が戻って来ました。あれほど長い時間を経験したのは人生で初めてでした」「なるほど」
 〈ナンバー4〉は映像を戻し、家屋が炎上する場面で再び止めた。そして、請うように訊いてきた。
「この映像の青い火、丸多さんは何だと思いますか」
 丸多は画面を見つめてから、壁に寄りかかり、実直に思考を巡らせた。
「さっぱり、わかりません」
「やっぱり」〈ナンバー4〉は、なおもせがむように言った。「あの『自殺者の霊が出る』奥の林に何かがあった、ということですよね」
「そのようにも思えますし、何とも言えませんね。方向はそちらの方でしょう。ただ、その火が見えた箇所の高さが気にかかります」
 〈ナンバー4〉は口をつぐみ、丸多の次の言葉を待った。
「最後の場面は、家屋の正面の庭から撮影されましたね。そこから建物の上方に火らしいものが見えたということは、その『自殺者の林』の木々の樹冠、つまり葉を生やす枝の辺りでそれが揺らめいていた、と思えます。今私に言えるのはそのくらいですね。力になれなくて申し訳ないですが」
 〈ナンバー4〉の顔にうっすらと物足りなさが浮かび上がった。しかし、彼はそれを口に出さず、小さな声で「いえ」とだけ言った。
「ナンバー4さん」丸多はそれまでと同じ口調で尋ねた。「奇妙なことはもう一つありました」
「何ですか」「シルバさんが遺体で発見される前、『指輪を紛失した』ということを言ってましたね」
「そうです」〈ナンバー4〉は掌(てのひら)に拳を置くしぐさをした。「あのとき、僕の指輪が無くなったんです」「あれから見つかったんですか」「いえ、見つからずじまいです」「高価なものだったんでしょうか」
 訊かれて〈ナンバー4〉はスマートフォンで素早くウェブページを表示させ、丸多に見せた。
「その画像に映ってるのと同じ物です」
 通販サイトの画面に、百合の紋章をあしらったシルバーリングが掲載されている。値段は五万六千円。丸多はそれを見て、自分も中学生の頃であれば欲しがったかもしれない、などと考えた。
「相当高いですね」
「はい」〈ナンバー4〉はスマートフォンをしまった。「僕、シルバーアクセサリーが好きで、これ、ずっと欲しかったんです。東京スプレッドとして初めてもらった給料で買って、思い入れもありました。だから、無くしたのが今も惜しくて」
「動画内での同じ質問を繰り返すのもなんですが、トイレに置き忘れたんですよね」「確かそうだったと思います。今になるとあんまり自信ないんですよね。もしかすると、あの家のどこかに置き忘れただけかもしれません」
 丸多は考えたが、答えらしい答えが出る予感はなかった。指輪の行方が分かれば、すぐにでも知らせてあげたかった。彼が考えあぐねる最中、〈ナンバー4〉がさらに情報を加えた。
「キャプテンは腕時計を失ったんですよ」
「え」丸多の動作は、うたた寝から目を覚ますときのようであった。
「キャプテンのはもっと高くて、百万くらいする物だって聞きました」
「百万」丸多と北原は聞いて、文字通り口を開けながら、大いに呆れを示した。〈ナンバー4〉はそれに構わず続けた。
「キャプテンはあの家に置きっぱなしにしてたから、火事で燃えてしまったんだろう、って言ってます。それに他のメンバーのスマートフォンとか財布とか、あの家に置いてあった物は全部燃えちゃいました。可哀そうですよね」
 丸多は口ごもりながら、「可哀そうですね」と気のない返事をした。直前に〈ナンバー4〉から聞かされた事柄に関して、衝撃を払拭(ふっしょく)できなかったのである。彼はたまらずに訊いた。
「動画クリエイターってそんなに儲かるんですか」
「いやあ、その月によります。大したことないですよ」
 予想されたことだがやはり、〈ナンバー4〉は言葉を濁すだけで、それ以上の言及はしなかった。
 動画を一通り観終えたところで、北原が消え入りそうな声で言った。
「あいつ、本当に密室で殺されたんだな」
 〈ナンバー4〉は北原の顔を見据えた。それから、かける言葉を探すためか、指でテーブルを何度か叩いた。しかし、適切なそれを捻り出すことはできないようだった。
 膠着(こうちゃく)する二人の横で、丸多はまだ動画の要所を眺め続けた。
「この動画データって、もらうことできないですよね」丸多が〈ナンバー4〉の顔を窺う。
「さすがにそれは無理ですね」〈ナンバー4〉は丸多に視線を移した。「それこそ、キャプテンに知られたら一大事です。これは絶対外部の人には見せるな、って言われてるんで」「そうですよね」
 丸多は動画を冒頭で止め、その画面を改めて見つめた。そこには現場に着いたばかりの五人が前庭で整列する姿が収められている。
「まだ何かありますか」〈ナンバー4〉が飽きているのは明らかであった。
「はい」丸多だけは倦怠的な空気に流されないでいる。「さっき言った、この屋根の天窓のことですけど」
 丸多が画面を指さすと、〈ナンバー4〉は大儀そうに再び身を乗り出した。北原も疲れ切った顔をしながらも、再び画面に注意を向けた。そして、丸多はそれまでとほとんど変わらない熱意と共に言った。
「中にあった天窓の形状とは違う気がするんです」
 言われた二人も、いくらか集中力を取り戻したようだった。
「本当ですか」〈ナンバー4〉の目に一転、光が復活した。
「ナンバー4さん、この家の屋根は明らかに三角屋根ですよね。でも内部を観察したところ、たしか内部の天井は、一般的な家と同じように床と平行だったと思うんです」「そんな細かいところ全然覚えてないです」「見てみましょう」
 丸多が率先してPCを操作した。すでに彼は要領を得ていて、動画内の必要な箇所はすぐに表示された。カメラを持った〈ナンバー4〉が初めて中央の部屋に入った場面。
「やはり」丸多が言い、二人は無言で見守った。「天井は床と平行です。四角いすりガラスの窓が一枚、天井にはめ込まれています」
「つまり」〈ナンバー4〉も食い入るように画面を見つめた。「外から見た天窓と、中から見た天窓は別物ってことですか」
「そうなりますね。つまり、屋根と天井の間には空間があった、ということです。それが何を意味するのか、現段階ではわかりません。天窓がただ単に二重だったという、それだけのことかもしれませんし」
 丸多はまだ考え足りないと感じた。しかし彼はここで初めて、テーブルに十皿以上の食事が届いていることに気付いた。それを見た丸多はようやく、動画以外の事柄に意識を向けた。
「一旦、気を取り直して食べませんか。もうすっかり冷めてしまいましたけど」丸多は難問を前に沈み込む二人に、一転して明るく声をかけた。
 すると〈ナンバー4〉も「食べましょう、食べましょう」と言い、顔を緩ませた。北原だけは箸を取らずに、しばらく黙っていた。友人の死を直に見せられ、食欲などわくはずもないだろうな、と丸多は彼を不憫に思った。この場合、「どうしたんですか」などと、無神経な言葉などかけられるはずもない。丸多はどのように振る舞うべきか迷いながら、ゆっくりと箸を進めた。

 支払い時、丸多が財布を出そうとすると、〈ナンバー4〉が涼しい顔で言った。
「僕が全部払うんで大丈夫ですよ」
 レジの前で、丸多と〈ナンバー4〉との「自分が払う」と言い合うあの攻防が始まった。最終的に、譲らない〈ナンバー4〉に丸多が折れた。いかにも日本人然とした二人のやり取りを前に、北原は少しく笑い声をあげた。
「使わない分のお金が余ってて、それを使い切りたいんですよ」〈ナンバー4〉は言いながら、鞄に片手を入れた。
「使わない分のお金なんてあるんですか」丸多はここでも景気の良い言葉を聞いて、目を丸くした。
「そんなお金あるんなら、ちょっとくれよ」帰る段になると、北原もいくらか活力を取り戻していた。
「やだよ。遊矢もシルバさんみたいに自分で稼げ」
 〈ナンバー4〉は手慣れた動作で、店が提示した画面をスマートフォンで読み取った。決済は一秒とかからなかった。
 丸多と北原は、こうして一円も払わずに外へ出た。上野駅で別れ際、丸多は〈ナンバー4〉に「何から何まで世話になった」と重ねて礼を言った。〈ナンバー4〉は「犯人がわかったら教えてください」と笑みを浮かべ、改札口を抜けて行った。手を振りながら丸多は、やはり今日も〈東京スプレッド〉は名乗らなかったな、と思った。
 午後9時半に丸多は自宅マンションに戻った。見せてもらった動画内容を、忘れないうちに紙にでも書いておきたかった。しかし用事はまだ残っていて、ベッドに腰かけてからすぐに〈ちょいす〉の家に電話をかけた。
 ネットで調べたところ、「橋井工務店」の営業時間はとっくに過ぎている。丸多は呼び出し音を聞きながら、店舗と一体化した彼女の自宅を思い浮かべた。留守電に切り替わったら諦めようと思っていると、ふいに受話器の上がる音がした。
「はい」声の主はその後に「橋井工務店です」とは言わなかった。しかし、その声が先週会った〈ちょいす〉の母親のそれであるのは明白だった。独特の棘(とげ)のある響きは、あのとき受けた印象そのままであった。
「夜分遅く恐れ入ります」丸多は言う一方で、これ以外の第一声はないものか、とうんざりした。信頼関係がないうちは仕方がない。このまま顧客として台所のリフォームでも依頼すれば、少しでも相手が多弁になるだろうか、などと空想しながら続けた。
「この間、中田銀さんのことでお話を伺った丸多好景と申します。その節はお約束もないまま訪問してしまい、大変失礼いたしました」
 丸多の予想に反し、相手は低姿勢で返してきた。「こちらこそ、大変失礼しました」
 丸多はここでも、私的に事件の調査をしている旨を伝えようとした。しかしそれは簡単に遮られ、電話口からは聞いてもいない家庭内の近況が早口で流れてきた。
「あの子は病気なんです」
「でしょうね」この言葉は、丸多が自分でも驚くほど滑らかに出てきた。
 以後十数分、丸多は「橋井まどかが、いかに聞き分けのない娘か」、また「自分が母親としてどれだけ苦心してきたか」といった、極めて一方的な話を聞き続けなければならなかった。
「お母様の気苦労は重々承知しています」これも「夜分遅く――」と同様、定型句に違いなかった。
「それでですね」丸多はそこで話題を転じることに成功した。「中田銀さんの遺品を整理していたら、たまたま、まどかさんの私物を見つけまして」
「まどかに代わりましょうか」「いえ、お伝え頂ければ結構です。もしご迷惑でなければですね、今週の土曜にでもそれを届けに、またそちらに参る考えでいるんですけれども、ご都合はつきますでしょうか」「まあ、わざわざありがとうございます―――」
 丸多は空気に向かって何度もお辞儀をしてから、電話を切った。さあ、次は北原だ、とスマートフォンの画面を見直したとき、アプリによる通話がかかってきた。見たことのないアカウントだったが、大体の察しはついた。気負い立つ気分を何とか抑え、親指で通話ボタンを押した。
「もしもし」幼い女性の声がした。
「もしもし」の後、こちらから用件を聞くのも無粋に思い、丸多は続けざまに話した。「もしかして、××レストランの従業員の方でしょうか」「はい、そうです」
 丸多の予想通り、山梨県のファミリーレストランでアルバイトとして雇われている女子高生であった。聞くと、丸多の名刺を受け取った女性店員から大まかな話を聞き、通話をかけた、とのことだった。その高校生はすでに〈東京スプレッド〉の存在を把握していた。
「半年以上前なんですけど」丸多は流暢に言った。「2018年の8月ですね、お店の近くの山奥で良くない事件が起きましたが、その日の夕方、東京スプレッドのメンバーのうち誰か来店しませんでしたか。メンバーがそこで沢山のお弁当を購入したことを、こちらでも確認し―――」
「ニックさんが来ました」学生は、丸多が言い終わるのを待ち切れないらしかった。
 それから、記憶するに至った顛末も聞き出した。やはりこちらもコンビニ店員同様、事件から数日後、警官立ち合いのもと店内カメラの映像を直接確認した、と述べた。
「ニックさんだけでしたか。他にキャプテンとか―――」
「ニックさん一人でした」女子の声に迷いはなく、また耳によく通った。「マスクをかけてましたけど、大柄でこの辺では見ない男の人だったんで印象的でした。そのとき私がレジを打ったんで余計、その、何て言うんだろう」「それも、より強く記憶に残る要因の一つだった、ということですね」「はい、そうです」電話の向こうで学生は照れて、少し笑った。
「重ねて訊きますが」丸多は端末を耳に強く当てた。「周囲でキャプテンさんとモジャさんの姿は見なかったんですね」「見ませんでした」「わかりました、ありがとうございます」
 通話は向こうから切れた。
 事件を覆う繭(まゆ)の糸口は依然つかめない。しかし、硬かったその繭は徐々にほぐされていくように思える。丸多は新たな情報を頭の片隅に置きつつ、先ほど観た映像を脳内で再現するよう努めた。

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