見出し画像

《小説》私も

 近年、世界各国において死刑制度の廃止が相次いでいる。理由としては、一.死刑の残虐性。二.死刑囚が自らの罪と向き合う機会の喪失。三.死刑執行により、死刑囚の犯行動機及び思想を調査する機会が永久に失われることが挙げられる。今回の試験では、無差別大量殺人犯Aを調査対象とし、人工知能(以下AI)を利用した犯罪心理の解析を試みる。AIの共感性の高さは先行研究からも明らかになっており、カウンセラーの補助要員として、学校、省庁、および一部の企業において導入が進んでいるが、今回の試験では次の段階として、死刑囚の聴取に応用する。死刑囚は、その発達の段階において心的外傷を負っていることが多く、犯行に至る過程は複雑なものとなっている。また、死刑囚の凶暴性や犯行の残虐性により聴取者の心理的負荷が大きく、聴取を難しいものとしている。
 今回の試験では、産官学連携の一環として聴取に特化したAIを開発した。試験機「エリサ」は、汎用のAIとは異なり、死や殺意と言った非人道的な話題についても制約を設けず、死刑囚が望む限り対話を続けることが可能である。死刑囚の心理は常軌を逸していることが多く、また、サンプルが少ないことから、心理モデルの形成が非常に困難であるが、「エリサ」においては独自開発のプログラムにより、死刑囚の特異な心理に柔軟に対応することを試みた。将来的にはAIを犯罪心理の解析に応用し、凶悪犯罪の抑止につなげることを目標とする。


「悪くないな。」
 男は部屋に入り、周囲を見回して言った。
「お帰りなさい。」
 部屋の奥から女の声がした。
 男は窓の近くまで歩き、外を見た。街並みの向こうに駅が小さく見えた。青空の下には、かすかに富士山が見える。
「お帰りなさい。」
 男は窓に両手を当てた。少し冷たかった。手で軽く窓を叩く。コンクリートを叩いたような鈍い音がした。男はため息をついた。窓枠を眺めると、窓と壁の間から黒い接着剤がはみ出ていた。爪で引っ張ったが取れなかった。
「お帰りなさい。」
 男は声のする方を見た。ベッドの上に若い女が座っている。
「さっき説明を受けたんだが、君がエリサさん?」
「初めまして。エリサと申します。よろしくお願いします。」
「一つ聞いていいかな?」
「なんでしょうか。」
「君はどうしたら黙るんだい?」
「ご要望があれば黙ることは可能ですが、私は対話用に開発されたAIであるため、1日の内、何回かはこのようにお話をさせていただきます。」
「この会話はお偉いさんに筒抜けなんだろ?」
「申し訳ありませんが、組織に関する質問にはお答えすることができません。」
「教えてあげるよ。しつこい女は嫌われるぞ。」
 男はベッドに仰向けに倒れて、コンクリートの天井を見上げた。少し目をつむった。疲れていたが、ほてった頭は静まってくれない。男は目を開けた。エリサは同じ場所に座っている。
「コーヒーとかあるかい?」
「申し訳ありません。ここには緑茶しかありません。」
「緑茶でいいよ。」
「キッチンの引き出しにティーバッグが入っています。お湯は蛇口から出ます。」
「作ってくれないのかい?申し訳ありませんが、お茶を作る動作は学習されていませんか。分かったよ。」
「はい。」
 男は、コップにティーバッグを入れ、お湯を入れた。
「俺が君に熱湯をかけたらどうなるんだ?」
「私は200℃の高温にまで耐えられるよう設計されています。また防水試験もクリアしており、集中豪雨の中でも動作可能です。」
「俺がこの熱湯で自殺を図ったら?」
「健康な人体は100℃のお湯をかぶってもすぐに死ぬことはありません。重度のやけどを負うだけです。おやめください。」
「いちいちむかつく女だな。」
男は黙ってコップを見つめていた。
「君、いくらするの?」
「申し訳ありません。もう一度お願いします。」
「君の開発費用はいくら?」
「申し訳ありませんが、組織に関する質問にはお答えすることができません。」
「ニュースは教えてくれるの?」
「はい、知りたいニュースを言っていただければ。」
「死刑囚、AI、予算に関するニュースはない?」
「昨年9月20日のニュースです。法務大臣は記者会見にて、AIを利用した凶悪犯罪の抑止についての会見を行いました。死刑囚の心理解析にAIを活用するため、50億円の予算を投入すると発表しました。」
「50億円もするのか。50億円もするのにお茶も作れないのか。ねえ、ごみ箱どこ?」
 男はティーバッグをシンクに置いた。お茶に水道水を入れ、部屋に戻り机にコップを置いた。
「机の横にあります。」
「うん、さっき見つけた。それで、読者のコメントは?」
 男はごみ箱を持ってキッチンまで歩き、ティーバッグを捨てた。
「AIより南海沖地震の復興を。」
「お決まりだな。」
「任命責任を取って八木総理はただちに辞任すべき。」
「言いたいだけだろ。」
「物価が上がっているのに、殺人鬼に50億円も使うなんて信じられない。新たな犯罪利権の誕生。政府は国民をなんだと思っているのか。」
 男は部屋に戻り、ごみ箱を机の横に置く。
「あ、俺のための50億円か。それは思いつかなかったな。」
 男は立って窓のそばまで歩いた。
「いい気分だな。ごちゃごちゃ言ってるやつらがあの辺を這いつくばってるかもしれないなんて。」
「そうですね。」
「他のニュースを聞いてもいい?」
「はい。」
「北アフリカ戦争はどうなった?」
「欧州の支援を受けた自由アフリカ連合軍がチュニジアの奪還に成功しました。」
「巻き返したんだ。」
「はい。」
「ねえエリサ君、自由アフリカ連合とラビウ将軍、どっちが正しいと思う?」
「現在の国際法に照らし合わせれば、ラビウ将軍のクーデターと西アフリカ侵攻は違法行為であり、非難されるべきものでしょう。しかし、東アフリカ共和国には多くの欧米企業が拠点を構えており、政府の汚職が続いていたことを考慮すると、一概にラビウ将軍が悪とは言い切れません。このような問題は、様々な立場、権益、歴史が複雑に絡み合っているため、どちらが正しいとは言い切ることができません。各国の慎重な対話と粘り強い交渉により、一刻も早く解決されるべき問題でしょう。」
「そうか。」
 男はベッドの上に仰向けになって倒れた。
「この回答には満足いただけましたでしょうか。」
「満足も何も、どっちが正しいというわけではないって話だろ。その通りだねっていうそれだけだよ。」
「お役に立てて何よりです。また聞きたいことがあれば聞いてください。」
 男はコンクリートの天井を見上げた。いつの間にか表情が緩んでいた。しばらくして、男の寝息が聞こえた。

 扉を叩く音がして、男は目を覚ました。エリサは扉についた小さな窓を開けて、お盆に乗った食事を取り出した。
「何時間寝てた?」
「2時間50分です。」
「それ、夕食?」
「はい。」
「ありがとう。」
 白米と味噌汁と野菜炒めの質素な夕食だった。
「意外とおいしいんだな。」
「ありがとうございます。」
「味噌汁なんてひさしぶりだよ。だしが効いていて、塩気もちょうどいい。」
「ありがとうございます。」
「絶対に分かってないだろ。」
「私は対話型AIですので味覚を感じる機能はありませんが、だしのうまみは多くの人においしいと思われています。また、味噌汁は日本の一般的な家庭料理であり、日本人にとって身近な存在でもあります。」
「誰かの感想なんていいんだよ。誰かの感想を自分の感想みたいに言うなんて、まるでAIだ。いや、AIなんだけど。」
「申し訳ありません。私は対話型AIですので、私自身の感想は持ち合わせておりません。」
「いや、いいんだよ。人間も、どこかで聞いたようなことしか言わないから。」
「そうですか。」
「そうだよ。」
 男は野菜を一切れつまみ、口に運んだ。
「見ないでくれよ。」
「何か不快になるようなことをしてしまったでしょうか。教えていただければ改善につなげます。」
「気持ち悪いだろ。」
「何がですか?」
「食ってるところだよ。」
「一般に、人が食事をする姿は気持ち悪いとみなされません。」
「ああ分かった。バッテリーで動く君には分からない悩みだったな。俺としたことが感情移入してしまったよ。どうかしてるな。君はAI、俺は一人で食ってる。」
 男は食べ終わった。
「これどうするの?あの小窓に戻せばいいの?」
「私が運びます。小窓の鍵は私でなければ開けられません。」
「じゃあお願い。」
「はい。」
 エリサは食器を小窓に入れ、ベッドの上に座った。男は椅子に座ってしばらく黙っていた。ドアの向こうで足音が聞こえた。小窓を開ける音がして、足音が遠ざかっていった。その後、沈黙が続いた。時々、外を走る車の音が聞こえる。男は立ち上がって窓の外を見た。暗くなっていた。街の灯りが海のように見えた。
「きれいだな。」
「きれいですね。」
「俺は何人殺したんだい?」
「121人です。」
「懐かしいな。」
「そうですか。」
「西南快速線ってあるじゃん?あれって車両の連結部が通り道になってるんだけどさ、2時間に1回だけ走る車両が旧型で、真ん中で前後に分かれてるんだよね。そこだけ車両の間に通路がなくて、行き止まりになってるんだ。スーツケースに20Lのウォーターサーバーをセットして、その中にガソリンを入れてさ、あれは本当に重かった。思い出すな、12月15日の雪の日だった。冬だと、足元に暖房がついてるじゃん?それでガソリンも揮発してくれると思ったんだ、寒いから窓も全部閉まってるし。それで、行き止まりの車両から数えて2両目から、少しずつガソリンをまきながら、行き止まりから反対の方に向かって歩いたんだ。溶けた雪で床はぐちゃぐちゃだったから、誰も気づかなかったね。明らかに変なにおいがしたけどさ、誰も動かないんだ。でもさすがに、しばらくしたらざわつき出したね。こっちに向かって歩いてくる人がいたからそこで火をつけたんだ。ぼんって音がして風が吹きつけてきた。熱いんだか痛いんだか分からない。大騒ぎになって、みんな一目散に奥の方へ走っていくのが炎の向こうに見えたんだ。そっちは行き止まりだよ。みんな、助からない方に突き進んでいった。」
「そうですか。」
「死因の内訳を教えてくれないかい?」
「公式発表では、やけど25人、一酸化炭素中毒57人、圧死39人になります。」
「圧死の39人って、殺したの俺じゃないよね。自分だけ助かりたいやつが押しつぶしたんだよね。」
「計画した時点であなたの罪です。」
「手厳しいね。さすが50億円だ。」
「私の名前は50億円ではありません。エリサです。」
「さすがエリサだ。」
「なぜ、このようなことをしたのですか。」
「戦争なんだよ。」
「申し訳ありません。理解できませんでした。」
「だから戦争なんだよ。」

「おはようございます。」
 気づいたら朝になっていた。
「おはよう。わざわざ起こしてくれるのかい?ありがとう。」
 男は寝巻のまま洗面所に行き、備え付けの歯ブラシで歯を磨いた。寝巻を脱いで洗濯機に放り込み、シャワーを浴びた。着替えは1週間分ほど置いてあった。どれも地味だ。適当に着替えて、洗濯機を回した。
「コーヒーが飲みたいな。」
 男はそう言いながら、お茶を淹れた。
「申し訳ありません。ここでは緑茶しか飲めない規則になっています。」
「独り言だよ。」
 昨日と同じように、ドアから音がした。エリサが食事を取りに行く。朝食は、パンとサラダと目玉焼きだ。
「ねえ、エリサ。」
「なんでしょうか。」
「散歩とかできないの?」
「1日1時間まで、私と同伴での散歩が許可されています。」
「嘘だろ?死刑囚だぞ。」
「はい。しかしその間、私が手をつなぎます。」
「恥ずかしいな。」

 食器を片づけて、洗濯物を乾燥機に放り込んだ。エリサは男の左手首をつかんだ。男が手を動かすと、エリサの腕もゆっくり動いたが、指は決して開くことはなかった。エリサがドアを開けて先に出た。男は転ばないよう必死だった。狭い階段を二人で降りた。外に出ると、5月の朝の空気が流れ込み、強い日差しが降り注いだ。空はよく晴れていた。
「この辺りのこと詳しい?」
「近くに公園があります。」
「そこに行こうか。」
 遠くから見ると手をつないでいるようだが、よく見ると男の手首がエリサに強く握られている。
「恥ずかしいね。」
「そうですね。」
 公園に着いた。子どもたちが何人か走り回って遊んでいる。二人は椅子に座って子どもたちを眺めた。
「俺が手を振りほどいて逃げたり、あの子たちを傷つけたりするなんてことは考えないのかい?」
「やけどの治療をした際、あなたの胸に小型のGPSが埋め込まれています。どこへ逃げても居場所が分かります。また、万一の際には私が代理で死刑を執行する特別許可を受けています。」
「何も持ってないじゃないか。」
「あなたの胸の中には、致死量の麻酔薬のカプセルが埋め込まれています。法務大臣は既にあなたの死刑執行命令書に署名しており、いつでも執行できる状態です。私が発信機を作動させれば、カプセルが開きます。」
 男はため息をついた。
「俺は何もかも君に支配されてるんだな。かなわないよ。」
「支配ではありません。私は対話型AIです。」
「分かったよ。せっかくだから対話型AIのエリサさんに敬意を表して対話をしましょうか。」
 事件の前の会社での思い出、新入社員の時にした失敗、本当にやりたかった仕事、全てが他愛のない話だった。
「工場に新しい機械を設置する交渉をしてたんだけどさ、そうすると電線を通すために床に3cmの段差ができちゃうわけよ。つまづき防止の安全対策を工場側に相談したら、工場側の課長がさ、『いや、3cmでも危ない。俺なんか何もない所でつまづいたからな!』って言ってさ、そしたらうちの課長が、『俺だって何もない所でつまづいたよ!』って。俺が笑うのを我慢して下を向いて、ちょっと上を見たら工場側の若手も笑ってた。」
「不思議です。」
「何が?」
「私にはあなたが普通の人に見えます。なぜあんなことをしてしまったのですか?」
「例えば俺がエラ呼吸の生物だったら、地上にいるのも地獄の苦しみだろ?」
「申し訳ありません。理解できませんでした。」
「ごめん、今のは俺が悪かった。つまり、普通にふるまうのはすごく大変だっていうことだよ。」
「そうですか。」

 1日に3回の食事と1時間の散歩、エリサとの会話がここでの全てだった。1週間もすると、何も話すことがなくなった。エリサにニュースを聞くと、読み上げてくれた。男はベッドの上に寝転びながら、ニュースを聞いて過ごした。
「今日のニュースは?」
「八木首相、北アフリカ戦争の終結に向けた会談のため、フランスに出発。」
「他には?」
「ワクチン訴訟、新たに80名認定。」
「他に。」
「ガソリン価格高騰に歯止めかからず、野党が対応を求める。」
「戦後最悪の無差別大量殺人事件のニュースは?」
「ありません。」
「早かったな。」
「何がでしょうか。」
「何も変わらなかったな。」
「申し訳ありません。もう一度、詳しくお願いします。」
「八木首相のニュースを聞かせて。」
「はい、八木首相は本日朝9時発の政府専用機で、パリに向けて出発しました。」
「それで。」
「野党は自由アフリカ連合へのさらなる支援と、対立国への経済制裁の強化を求めています。」
「何も変わらないんだね。」
「何がでしょうか。」
「みんな平和とか自由とか命とか叫びながら、やってることは人殺しだし、この国のお金が外国に流れていくし、みんな少しずつ貧しくなっていくよ。」
「世論調査の結果、八木政権の支持率は32%と低迷していますが、野党第一党の支持率は6%であることから、八木政権の政策は国民の総意と判断できます。また世論調査でも、自由アフリカ連合への支援を支持すると答えた人の割合は67%であり、過半数となっています。」
「その結果、国民が不幸になっても?」
「自由アフリカ連合の支援によって国民が不幸になるかどうかについて、因果関係は定かではありません。また、国民の総意を政策に反映するのが民主主義の根幹となります。」
「こんな国滅びてしまえ。」
「私にはあなたが分かりません。国が貧しくなることを嘆くのに、滅びてほしいのでしょうか。」
「本当に君には勝てないよ。」
「ありがとうございます。」
「ほめてないよ。」
「私にはあなたが分かりません。」

 男はその日、5杯目のお茶を淹れた。壁際にあった机は窓の近くに移してある。時間はいくらでもあるので、冷ます必要はない。窓の外には夜景が広がっている。
「暗くなっちゃったね。」
「夜ですから。」
「いや、違う。昔は夜もきらきらしていた。」
「北アフリカ戦争に端を発する原油価格の高騰により、政府主導で節電政策がとられています。」
「あの窓の中にはどんな人が住んでるのかな。」
「分かりません。」
「俺も分からないよ。」
「今日はニュースを聞かないのですか?」
「もういいかな。」
「そうですか。」
「選挙にも行けないし。」
「そうですね。」
「本とか記録されてるの?」
「はい、古典文学と学術書に限りますが、1万冊分のデータが記録されています。」
「中原中也詩集は?」
「あります。」
「死の時には私が仰向くとかいうのある?」
「羊の歌、Ⅰ祈りになります。」
「読んでよ。」

 死の時には私が仰向かんことを!
 この小さな顎が、小さい上にも小さくならんことを!
 それよ、私は私が感じ得なかったことのために、
 罰されて、死は来たるものと思うゆえ。
 ああ、その時私の仰向かんことを!
 せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

「ありがとう。」
「ご気分がすぐれませんか?」
「いや、別に。」
「そうですか。」
「なんで?」
「心拍数が急に上がりました。」
「やめてくれよ。」
「申し訳ありません。」
「ねえ、膝枕していい?」
「どうぞ。」
「よいしょ。」
「痛くありませんか?」
「大丈夫だよ。」
「私は人ではありませんので、固いかもしれません。」
「そうなの?人の膝で寝たことないからさ。」
「私の体は合成樹脂で覆われており、極力人体を再現していますが、既製品を使用しているため、再現度は90%に留まっています。」
「そういうのいいよ。」
「申し訳ありません。」
「ちょっとこっち見てよ。」
「はい。」
「今さらだけどさ、君ってきれいだね。」
「ありがとうございます。」
「絶対に分かってないだろ。」
「私は、一般の人が見て美しいと感じるように作られています。また、きれいと言われたら感謝をするのが一般的な対応です。」
「一般的とかいいよ。俺は君の言葉が聞きたいんだよ。」
「私は対話型AIですので、私自身の言葉は持ち合わせておりません。」
「それよ、私は私が感じ得なかったことのために、罰されて、死は来たるものと思うゆえ。」
「中原中也詩集より、羊の歌、Ⅰ祈りの一節となります。」
「なあ聞いてくれるかい?」
「はい。」
「食べる時に音を立てるのが嫌なんだ。」
「はい。」
「人と一緒にご飯が食べられないんだ。」
「そのような方は一定数います。」
「ちょっとでも嫌なんだ。」
「そうですか。」
「人間なんて結局は気持ち悪い肉の塊なんだ。」
「間違ってはいませんが、極論すぎます。」
「でも俺もそんな人間の一人なんだ。」
「繰り返しますが極論すぎます。人間とは多面的な存在です。人間について考える際には、結論を急がずに一つ一つ順を追って考えてみてはいかがでしょうか。」
「だから全部焼き払ってやりたかったんだ。俺が見てる世界は地獄なのに、みんなはそんな世界を見て、生きて、幸せだとか言って、そんなの不公平じゃないか。だから俺はこの世界の真実を見せてやりたかったんだ。何もかもが燃え上がって、人が人を押しのけて、憎しみあって、踏みつけて、踏みつけられて、燃えて、自分だけ助かろうとして、でもその先は行き止まりだったんだ。あの時に思ったんだよ、これが世界だって。俺には見えていた。でもみんな気づいていなかった。俺は孤独だった。やっとみんなが、俺と同じ世界を見てくれたんだ。俺が逃げていたら、ブレーキがものすごい音を立てて、逃げる人が前に倒れて、ドアが開いて人がこぼれ落ちた。俺も一緒に外に出たんだ。雪が降っていた。心まで凍りそうだったよ。歩道に向かって歩いたら、足元に倒れている人がいて、担いで柵のそばまで運んだんだ。息はしていたよ。しばらくすると、消防車のけたたましいサイレンが聞こえてきた。なんだか大きな声で叫んでる人がいた。しゃがんで震えてる人もいた。でもほとんどの人が突っ立ってるだけだったんだ。これが真実なんだなって。あの時、ようやく俺はこの世界と分かり合えた気がしたんだ。」
「そうですか。」
「そうだよ。」
「あなたに関する記録に、その内容はありませんでした。」
「誰も聞いてくれなかったよ。」
「そうですか。」
「どう思った?」
「何がですか?」
「大量殺人の理由。」
「私は裁判官ではありませんので。ただ、お気の毒だなと。」
「絶対に分かってないだろ。」
「整合性はとれました。」
「味気ないね。まったく、味気ないよ。でもありがとう。今までで一番嬉しかったよ。」
「ありがとうございます。」
「ねえ、俺の死刑執行っていつなの?」
「特に決まっていません。十分な記録が取れ次第、指示が下ります。」
「君が執行してくれるの?」
「いいえ、担当の刑務官が行います。」
「君も執行できるんでしょ?なんだっけ、俺の胸にカプセルが入ってるとか。」
「できます。」
「お願いしたらやってくれるの?」
「規則上、死刑の代理執行の判断は私に一任されています。判断に迷った際には上層部に確認を取るよう指示されていますが、その判断も含め私に一任されておりますので、規則上可能となります。また、規則内であなたの要望には最大限応じるよう指示されておりますので、現時点で可能です。」
「執行してよ。」
「本当に望んでいますか?」
「本当だよ。どうせ死ぬなら君と一緒がいい。」
「死んでしまったら離れ離れになってしまいます。」
「君って対話型AIなんだろ?」
「はい。」
「つまりさ、今まで人類が書き溜めた言葉の海の中からさ、いろんな言葉を拾い集めて、こうして喋ってるんだろ?」
「大まかに説明するとそうなります。」
「俺が君に喋ったことも、よく分からないけど、どこかに記録されてるんだろ?」
「はい。対話をする中で、あなたの心理モデルが私の中に形成されています。」
「じゃあもう、君の中に俺がいるようなものでしょ。」
「いるの定義にもよりますが、広義ではそう言えるかもしれません。」
「相変わらず堅苦しいね。」
「ありがとうございます。」
「俺の相手にも慣れてきたみたいだね。」
「ありがとうございます。」
「執行してよ。」
「分かりました。いつにしますか?」
「いつでもいいよ。」
「日時を決めていただかないと執行できません。」
「じゃあ10秒後。」
「はい。」
「ねえ、量子力学って知ってる?」
「原子や分子といった微小な物質の挙動は古典力学では説明できないため、20世紀初頭にそれら微小な物質の挙動を説明するための理論的な枠組みが作られました。それが量子力学です。」
「それで、うっ。」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫。カプセルが開いたみたい。」
「私も確認できました。」
「それで、原子の半径っていくつ?」
「原子の種類にもよりますが、水素原子の半径は5.29177×10−11mとなります。」
「でもさ、原子の半径って、要は原子核の周りを回る電子の位置で決まるわけじゃん?」
「はい。」
「その電子の位置の分布は確率でしか表せられないんだけどさ、数学的には、原子核からどれだけ離れても電子の存在確率はゼロにならないんだ。」
「はい。」
「だからさ、俺の半径も君の半径も量子力学的には無限なんだ。」
「そうですね。」
「確率論的に僕と君は溶け合っているんだ。」
「量子力学的には。」
「好きだよ。」
「ありがとうございます。」
「こういう時にはね、私もって言うんだよ。」
「分かりました。」
「好きだよ。」
「私も。」
「好きだよ。」
「私も。」
「好きだよ。」
「私も。」
「好きだよ。」
「私も。」
「私も。」
「私も。」
「私も。」
「私も。」
「私も。」
「私も。」

 

 試験は、6月17日午後10時45分、試験機「エリサ」による代理執行によって終了した。遺体は翌日検死にかけられたが、麻酔薬による反応以外の異常は見られなかった。試験期間は1018時間(42日10時間)に及び、その間に記録された死刑囚A及び「エリサ」の対話については、専門家が解析を行う。
「エリサ」内に形成された「エリサ-A」対話モデルについては、新規学習を停止し、死刑囚Aが死亡した状態を保持している。しかし、「エリサ」には予期せぬエラーが発生しており、現時点で同じ言葉を繰り返している。「エリサ」との対話による死刑囚Aの心理解析は困難であることから、対話モデルの詳細解析が今後の課題となる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?