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[エッセイ]画家を目指す中卒22歳のゆる話(3)

こんばんわ。陸です。
現在、南信州に位置するとある温泉旅館で仲居をしている中卒二十二歳です。

今日は休みを頂いたのでお隣の町にぶらぶらしに行きまして、''古本を数冊''と''床屋での刈り上げ3mm''と''無口な大将が出してくれる絶品のおでんとお酒2杯''を戦利品として懐に(お酒とおでんは腹に)入れて帰ってまいりました。
それでは本日のゆる話行きましょう。

〜自分へ贈る自分という花束〜

ヘッセの『デミアン』を読み始めたけど、60年も前に訳された物だから所々ツッコミどころの多い文章で苦戦を強いられている。隔週で顔を出す様になったおでん屋さんの大将の口数は、「おでんの具は何が良い」くらいで、大抵新聞を読んでるからこっちもお酒を呑みながら本を読めるんだよね。意識は物語に5割、お酒とあてに4割、聴覚に1割といったところ。夜に出す煮付けやら仕込みに使うのであろうヤカンのお湯の「ピュー」っていう音が聞こえるのがまたホッとする。なんでも、静か過ぎると怖くなるからさ。

今日何も考えずに商店街を歩いてたら花壇に綺麗に花が咲いてさ。人間みたいだなあと思ってこの副題を付けたんだ。というのも、俺の父親は小さな花屋を営んでて、小さい頃から花を見て育ったから花を見たり、匂いを嗅ぐと自然と思考が落ち着くようになったんだよね。それが今になって学びに変わってる。

花にも個性があって、百合や薔薇みたいに1本で存在感のある花も有れば、スターチスとかカスミソウみたいに集合させたり他の花と合わせる事で存在感が出る花もあるんだよね。
あの人気アイドルが''それぞれが世界に一つだけの花''だって歌ってるけど、本当その通りだと思う。でもさらに言うと世界に一つだけの''花束''だと思ってる。
人間は生まれてから死ぬまで、時間と同じ数の感情と共に過ごす事が決められている。''喜'' ''怒'' ''哀'' ''楽'' とカテゴライズは出来ても、細部を覗けばシチュエーションや気持の割合も違い、過去の感情と一見似てはいても、完全に一致する感情は絶対に生まれない。それでも一度生まれた感情は植物の芽の様に良くも悪くも育っていってしまうんだよね。(トラウマみたく悲しみに苛まれる日々もあるだろうし)
でも、生きている今この瞬間までに生まれてきた全ての感情はそれぞれ花として自分の心に咲いていて、好きじゃない花(感情)もあるけど、花束としてみれば美しさに変わる。最終的にどんな花束になるかは生きている内はわからないけどね。
繊細な人が感じやすい、「生きているのかすら分からない」っていう虚しさに近い感情に俺も悩んだ日があった。でも今はそんな不安定な時も思い出す事は''過去の自分も一緒に生きている''って事なんだよね。忘れたい過去もあったけど、突き放すと本当の孤独になってしまう。でも悲しんだ過去の自分を花として愛でてみて、花束にしてあげると自分への最高の贈り物になる。

自我が芽生えてからは嫌でも波のある感情と一生を共にしなきゃいけない訳だけど、疲れた時は自分を愛でてあげる。まあ一番難しい事なんだけどね。でもこの話を自分で言語化してからは疲れた時、落ち込まずに済む様になった。ネガティビティって醜いものに思えるし、''美化しなきゃいけない''ように繊細な人ほど考え込む。でも沢山考えた結果、その気持ちが芽生えたと言う事実が何より美しい事で、ロボットには出来ない俺らの特別な力であるのだと思った。

自分に自分という存在を与えてあげる。生きる意味ってそういう事だと思う。運命みたいに決まっていると考えるのも大いに結構。でもなんのためか分からないじゃん。大抵。だから後付けしてけば良いのよ。そしていつか大切な人や一生のパートナーができたとき、自分という花束を贈ることになるんだと思うよ。

まあこんな風になんの躊躇いもなく綺麗事を言える様になったのは、汚い自分を沢山愛でてきたからなんだよな。と、また自分を愛でてしまったよ。こうして今日もまた、美しい花が心に咲くんだ。と思う。


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