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こじらせアラサーの思考の癖の記録

人生における根本的な思考、というか、根底にある考えとして「勝ちたい」よりも「正しく平等でありたい」がある。ここは残念ながら「公平」ではなく「平等」である。そして、この「正しく平等でありたい」が、ときに私のことを大切に思う周りの人を傷つけることがわかっている。でも私にとって平等な軸で評価をすることこそが正しさであるから、自身が傷つこうと、大切な人が傷つこうとやめられない。

しかし、この「辞められない」は思い込みかもしれない。それに、すぐにやめるのは無理でも、やる回数を減らしていきたい。そういう心づもりで、普段の思考の癖をここに記録する。

例えば、ジャニオタごとでいうと担当以外のメンバーに仕事が決まること。私は担当以外の仕事が総じて羨ましい。ライバル(①)に仕事が決まること、悪いことか良いことかでいうと、もちろん「良いこと」ではあるものの、私としては喜ばしくない。そのため、まあバーター枠だし…だとか、担当にはもっといい仕事決まるし…、とか言い訳(②)をしてみる。

私は関連づけ、カテゴライズ、論理的思考、優先順位の判断といったものが著しく苦手だ。①の「ライバル」。これは私があくまで勝手に「ライバル」として判断しているだけで、向こうからしたらこちらはそもそも「ライバル」に値しないかもしれない。カテゴライズが下手くそなので、極論同じ人類であれば「ライバル」になってしまうのだ。

例えばかりで申し訳ないが、機嫌が悪い時の私は『石原さとみは私より可愛い』という簡単な事実(③)すらも許せなくなってしまう。状況をロジカルではなく、平等に評価しようとするあまり「同じ人類で有る以上、私は石原さとみと同じぐらいかわいくなれるポテンシャルがある=ライバルである」という発想に至る。そしてライバルである以上、対等に渡り合えるはずであるのに、渡り合えないのは私が努力を怠っている(④)からだ、というふうに論理を展開してしまう。

これを聞かされるのが妹や母だ。彼女たちは私が好きなので、私が悲しんでいるのが見たくない。「同じ人間で有る」というカテゴリーは論理的とはいえない、その評価軸を基準にするのはおかしいよ、と、「同じ人類ではあるが向こうは芸能人で君は一般人だ」「年収も違えば美容に使える額も違う」と、時間を割いて、何度でも教えてくれる。

私はつい最近まで、彼女たちの助言の裏にある「そのカテゴライジングは論理的とはいえないので、評価をする基準を変えるべきである」という主張に気が付くことができなかった。「いや、同じ人類ではあるが向こうは芸能人で君は一般人だ」「年収も違えば美容に使える額も違う」という言葉は、かわいそうな私をフォローするために捻りだした逃げ道(②)であるに違いないとばかり思っていた。意固地な私は、「そういう風にフォローをしてくれるのは有難いが、本当に頑張れば『同じ人類』という評価軸でも勝てるはずなのだ。やっぱり結局、私の努力が足りない(④)のだ。」という、世界で一番意味・生産性のない(⑤)自己解決に至る。口に出した言葉を脳は記憶し、私にとって私はまた「本気で正しく努力をすれば全てができるはずなのに、サボって努力をしない女」になる。妹や母は私の論理が拗れはじめていることに気が付く。こうなったら何を言ったところで私は自身の結論を曲げはしないので、妹や母は助言をするだけ無駄だ、と諦める。

ときたま彼女たちが諦めなかったところで、この議論は堂々巡りに、様々な例を用いて続けられ、時間だけがいたずらにすぎ、どちらかがその日の体力もしくは精神力を使い果たしたところで終わる。こういう議論を生まれてこの方26年…は嘘でも、思春期を迎えたあたりから10年ほど繰り返してしまっている。

続いて②の、「言い訳」「逃げ道」と私が記載している箇所に移ろう。

ライバルに仕事が決まったときの、「バーター枠だし」「担当にはもっといい仕事決まるし」。石原さとみと自分を比べたときの、「年収も違うし」「職業も違うし」。

今回は例が極端だが、私が「言い訳」という話をするとき、実際には二つの内容が含まれているように思う。

1⃣実際に言い訳
 実際に言い訳であるケース。この中だと、「担当にはもっといい仕事決まるし」は言い訳に近いと思う。いわゆる宿題しなさいと怒られたときの『今やろうと思ってたけど言われたからやる気なくなった~!ママのせい~!』というやつである。

2⃣論理的ブレイクダウン
 この中だと他3つはこちらに近い。「バーター枠だし」という短絡的な思考はよくないが、担当の仕事とライバルの仕事を比べたうえで、「こちらの仕事は個人で勝ち取ってきた仕事であるが、あちらの仕事は事務所の先輩によるバーターである」という結論に至っているのであれば、それは論理的ブレイクダウンといえると思う。

この思考パターンにおいて私の修正したい点は三つ。

一つ目は、こういった言い訳モドキを全て1⃣の「実際の言い訳」である、と判断してしまう点。先述のとおり、4つのうち3つが論理的ブレイクダウンに対応するにもかかわらず「実際の言い訳」と判断するのだからタチが悪い。

この判断をしてしまうと、せっかく話を聞いてくれる回りの人間は、私が感情的になりすぎるがあまり非論理的になっている、と結論付けてしまう。ひいては私の主張が受け入れられなくなってしまう。

二つ目は、「結局1⃣だろうが2⃣だろうが、本来正しく(⑥)やれていれば言い訳だって論理的ブレイクダウンだってしなくていいのに!」と、うじうじとしたコンプレックスを感じてしまう点。先述の①部分の結論、「…そういう風にフォローをしてくれるのは有難いが、本当に頑張れば『同じ人類』という評価軸でも勝てるはずなのだ。」がここにあたる。

それこそ、担当にこの仕事が来ていれば、ライバルの仕事を評価して1⃣だの2⃣だのそういったカテゴライズをする必要すらないわけだ。このうじうじコンプレックスは間違っても結論ではないのだけれど、私の脳はここに着地すると、マラソンで42kmぐらいは走り切った気分になってしまう傾向にある。ここで終わるか、この後の三つ目の思考、自己嫌悪からの死にたさ、に至る。このコンプレックスは厄介で、取り除くにはただただ、もう過ぎたことであり、結果は出ていて、この結果は変えられない、と理解・納得するしかない。それが難しいのだけれど。

ただ、「コンプレックス」はさておき「コンプレックスを感じないようにする」ことは短期的に改善できそうだ。この思考地点に到達したとき、後に控える自己嫌悪、死にたさ、という思考に至らないよう、ルートを修正していくしかないのかもしれない。

この思考における最後の修正点、三つ目は、(すでに上記で解説している気もするが)、二つ目においての自分の結論に結局100%納得ができていないが故の、自己嫌悪からの希死念慮を感じてしまう点。「やっぱり結局、私の努力が足りないのだ。」「こんなことを考えてしまう時点で、その仕事にも、ライバルにも、フェアじゃない。仕事ひとつ喜べないちっぽけな私はクズ!死にたい!」。なぜか最後にイイコチャンになりたがり、結果実際の自分とのギャップに疲弊し、絶望する。

私の「死にたい」は「考えることをやめたい」である。全くもって死にたくはない。いつか来る死を想像しては夜中に思わず悲鳴をあげ怖くて暴れてしまうぐらい死にたくはないので、死にたいという思考に着地しそうになったときには、その時点で思考をシャットアウトし、筋トレをしてお風呂に入って暖かい布団に入って寝るべき。

自己肯定感が低い人あるあるであるが、自己肯定感が低い割に、プライドがエベレストより高いのだと思う。大抵今まで思ったことは何でも成し遂げてきたのでその成功体験にがんじがらめにされている。だから、「本当にきちんとやればなんだってできるはず」という思考から抜け出すことができない。プライドが高くて思考から抜け出せないとは、すなわち負けを認めるのが下手ということか。

この結論は最後まで書ききったら変わるかもしれないので今は保留しておくが、冒頭で『根底にある考えとして「勝ちたい」よりも「正しく平等でありたい」がある』だなんて書いておきながら、実際の私の考えの根底にあるのは『建前では正しく平等であるけれど、どこの土俵でどうフェアに勝負したって私全部勝つし!死んでも負けねえからな!』なのかもしれない。そう考えると、本音は誰より勝ちたいのかもしれないな。それを認められないのもまた弱さである。

③~⑥の内容に入っていきたいが、ここまでだけでも想像以上に長くなっているし、夜も遅いしで、残りは別記事に分けて近い将来書くことにする。

こういう様々な事柄における思考の癖についての相談を妹にしようとするたびに、「そもそも君は考えるのが好きすぎる。ふつうの人間はどこかで面倒になって考えるのを諦めるのに、なまじ考えるキャパシティがあるがばかりに思考を深堀りするのはやめたほうがいい」といわれる。自覚はないが、考えるのが好きなのだろう。今回はまず、記録ということで。

<2本目はこちら>

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