続・こじらせアラサーの思考の癖の記録

人生における根本的な思考、というか、根底にある考えとして「勝ちたい」よりも「正しく平等でありたい」がある。ここは残念ながら「公平」ではなく「平等」である。そして、この「正しく平等でありたい」が、ときに私のことを大切に思う周りの人を傷つけることがわかっている。でも私にとって平等な軸で評価をすることこそが正しさであるから、自身が傷つこうと、大切な人が傷つこうとやめられない。

しかし、この「辞められない」は思い込みかもしれない。それに、すぐにやめるのは無理でも、やる回数を減らしていきたい。そういう心づもりで、普段の思考の癖をここに記録する。

<1本目はこちら>

例えばかりで申し訳ないが、機嫌が悪い時の私は『石原さとみは私より可愛い』という簡単な事実(③)すらも許せなくなってしまう。

③の「事実」に関しての考察に移ろう。そもそも思考を展開するにおいて、思考の根幹となるこの「事実」自体が必ずしも正しくない、ということが往々にしてある。

これは相対的事実、絶対的事実という観点で考えるとわかりやすいだろう。「オリンピック選手より私は走るのが遅い(=100メートルのタイムを計測したとき、オリンピック選手より私は時間がかかる)」は絶対的事実であるが、「石原さとみは私より可愛い」は、あくまで相対的事実である。この相対的事実が厄介だ。特に石原さとみなんかと比べてしまうと絶対的事実として誤認してしまいがちであるが、蓼食う虫も好き好きというとおり「いや、石原さとみよりあなたは可愛い」という人がいないとも限らない。なので、これを「事実」として定義してしまうこと自体が賢くなく、そこからさらに議論を展開すること自体が浅薄。

こうして思考を文字に起こして気が付いたことだが、この例に限らず私は思考選びが下手だ。「思考選び」は存在しない言葉だが、「言葉選び」のようなものだと考えてほしい。例えば恋人の出した手料理が口に合わないときに、「ちょっと塩味が薄いかな…?」と思わずに、「まっず!食えたもんじゃねえな!」と思うように、あえて劇的な思想に着地することを選んでいる気がする。おそらく思考の癖付けがうまくいっていないのであろう。

人格形成の時期に日記をずっとつけていた私は、「誰にも否定されない場所で暴論を展開、共感を得られるとはいえない結論に一人で着地する」という行動を脳内で日々行っていた。それを一番学習に効果のあるといわれる「手で記す」という方法で実践し、そのうえでそれを一人で何度も読み返し納得し、確固たる思考パターンとして確立してしまったのである。これはなかなかな成功体験ならぬ失敗体験。明らかに今に尾を引いている。

そしてライバルである以上、対等に渡り合えるはずであるのに、渡り合えないのは私が努力を怠っている(④)からだ、というふうに論理を展開してしまう。
意固地な私は、「そういう風にフォローをしてくれるのは有難いが、本当に頑張れば『同じ人類』という評価軸でも勝てるはずなのだ。やっぱり結局、私の努力が足りない(④)のだ。」という、世界で一番意味・生産性のない(⑤)自己解決に至る。

続いて「私の努力が足りない」という言葉に代表される④。これは要を言えば「サボっている」と自身に対して負い目を感じてしまうこと。

「サボっている」というのも、前述の相対的事実に他ならない。ただ、自身にとっての相対的事実とは結局自身の絶対的事実であるというのもまた真実だ。私は完璧主義の八方美人で、基本的に全てをこなすことが理想だと思っているので、それができない私は「サボっている」。

本来、人生において人は様々な「やる、やらない」を選択している。例えばそれは「この人と結婚するか、それとも仕事を選ぶか」といった大きなものから、「今日は右足から歩き出すか、左足から歩き出すか」といった小さなものまで様々だ。そして、選択の大小にかかわらず、バタフライ効果で結果は大きく変わることがある。

私は体育が嫌いだったし、いまも体をほとんど動かさない。そのため、「運動部に入らない」ということをこの人生道中で選択している。同じように「整形をしない」のも「麻布十番で友達に芸能人を紹介してもらわない」のもどこかで選択している。これらは「意識して選択したもの」だが、これと同じかそれ以上に、「無意識に選択したもの」もあるだろう。

体育が嫌いで、体をほとんど動かさず、人生で「運動部に入らない」選択をした私が今オリンピック選手になれるわけはない。それでも、感情的に意固地になったアラサーの私は非論理的どころかこれまでの人生否定レベルの暴論(前記事2⃣の3つめ)に入ることがある。そうするとどうなるか。今までの人生の選択を見なかったことにしたうえで、今の私がオリンピック選手ではないことを、「やればできたに違いないのにやってないサボり」と非論理的に結論づけ、自身を評価してしまう。

なんとなくよくない思考の癖だとは感じるのだけれど、どのように考え方を転換すれば回避できるのかが今は思いつかない。たぶん、前記事2⃣の2つめあたりに通じる箇所も多いので、ただただ結果は出ていて、この結果は変えられない、と理解・納得するしかないのだ。

頭では分かっているが、それがどうにも難しい。たぶん私の中にすごく根深く「本気を出せばできないことなんてない(⑦)」という体育会系感情が存在しているのだと思う。ちょっとここについてはまた延長戦で深掘りしたいので、番号を振っておく。

次に進もう。ようやく終わりが見えてきた。

意固地な私は、「そういう風にフォローをしてくれるのは有難いが、本当に頑張れば『同じ人類』という評価軸でも勝てるはずなのだ。やっぱり結局、私の努力が足りない(④)のだ。」という、世界で一番意味・生産性のない(⑤)自己解決に至る。

⑤の「意味のない・生産性のない」は私が高頻度で使う形容詞である。用いている言葉は違うものの、前記事の以下の箇所でも同様の思考に至っているといえる。

自分の結論に結局100%納得ができていないが故の、自己嫌悪(中略)なぜか最後にイイコチャンになりたがり、結果実際の自分とのギャップに疲弊し、絶望する。

カードでいえばジョーカー。時間を割いて私の話を聞いてくれる周りの人間および時間を割いて考えを巡らせている私に対してのとどめの一発。ここまで丁寧に積み立て積み立てた思考をこの短絡的な言葉で無に帰してしまう。この形容詞を使うような心づもりになっている時点ですでにもう死にたくなっている=考えるのをやめたくなっているのだ。

周りにも他人にも大変失礼な話ではあるので、この万能ワードに甘んじている事実を自覚したうえで、「意味がない」ではなく、せめて「考えるのに疲れたから向こうの部屋に行くね」といったように、自ら綺麗に幕引きをし、感謝を残したうえで議論を終わらせるようにしたいなと思う。

長くなってきた。これを書くこと自体が想像以上に脳の運動になっていて書くのに疲れてきている。前後半の2編で終わらせるつもりだったが、ラスト1回分、別記事に分けて近い将来書くことにする。今週末かなあ。長文を書いて完結させるのが著しく苦手なので、きちんと終わらせられたら褒めてほしい。

お気づきの方もいらっしゃるかもしれないが、私は「例える」ことがかなり苦手である。例えというのは、使うことで状況をイメージしやすくし、話をスムーズに進めるために用いられるケースが多いと思う。ところが、私の例えはたいてい前述の「相対的事実」に基づくものが多いので、例えを使うことで余計人々を混乱させ、「その例えから何が言いたかったのか」を読み取ってもらえないことが多い。本当に申し訳ない。

まあ、これもまた勉強である。

<続編書いたらリンク足します>

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