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生まれなかった姉がいたから生まれた自分と、「直己」という名前の呪いと魔力について

忘れられない自分の生い立ちについて話す。

僕は、四人兄弟の末っ子として生まれた。10代中盤か後半か忘れたけど、ある日母親に「直己を産む前に流産した子がいたんだよ」「子供は四人までしかもたない予定だったから、流産しなかったら直己は生まれなかったんだよ」と話をされた。

名前も顔も性格も知らない、生まれなかった姉がいたおかげで、自分は生まれてきた。母親から話を聞いてから、自分の命は二人分なんだなと思うようになった。

次に、小学校低学年の頃、父親に自分の名前の由来を聞いた。「己の道を真っ直ぐ進むような人になってほしい」「冒険者・植村直己が由来」と、二つの意味を聞かされた。そのせいで第一に「己とは、自分とはなんだ」と、終わりのない自問自答を、幼少期から20代中盤まで繰り返すハメになった。正直、マジ、キツかった。

問い①「自分らしく生きるとは?」

己の道を進む為には、まず、己が何かを知らなくてはならない。20代中盤を超えてやっと確信を持ったのは、「自分自身」とは「内側に宿るもの」ではなくて「外郭」によって形成されるものだ。って考え方だ。関わってきたもの、出会ってきたもの、吸収してきたもの、見知ったもの、その外郭で、自分は形成される。中身なんて、誰も何も持ってない。中には何がある?自分とはなんだ?と、十数年間、繰り返し内側に問い続けていたから、一度も見つからなかった。存在しないものは、見つかるわけはない。どこかに失くしたわけでもない、外郭が本体だったんだ

ここで、ミイラの作り方を思い出す。

ミイラとは、古代エジプトで信じられていた「死者の復活」のために、肉体を保存していた、と言われているものだ。

ミイラのつくりかた
①脳を掻き出す
②内臓の抽出
③洗浄
④脱水
⑤形を整える
⑥包帯を巻く

中身をかき出して、形を整えて、保存する。

それは、全ての創作物、放つ言葉、交わすやりとりと同じことかも知れない。服を作る、言葉にする、提案する。そうやって、中身をかき出して形にしてきたものが、また自分の形に返ってくる。これが自分だな、と強く思える。観測・感知できる。思うに「自分らしく生きる」とは「自分の中身をかき出し続ける」ことじゃないか。出さないと、腐敗する、腐敗すると、食べられなくなる、土に埋もれる、外郭ごと、消えてなくなる。自分をかき出し続けていくこと、これが逆に自分らしくなる最良の手段だった。

外郭をしっかり固めないから、大したことない中身がどろっと溢れてくる。どろっとしたもので関わるから、自分や他人と距離感が掴めなくなる。その中身を「本当の自分」だと思ってたのは自分だけだったのかもしれない。


問い②「己の道を真っ直ぐ進むとは?」

自分自身の名前「直己」の由来。の道を真っぐ進め。

しかし、真っ直ぐ進むとはいったいなんだろうか。誰の意見も聞かず、傍若無人に、自分のやりたいことだけ、言いたいことだけしていくことか。道が曲がっていても、障害物があっても、お構いなしにフェンスを超えて、国境を超えて、人の家の敷地を踏みにじって、停車されている車を乗り越えて、ただ真っ直ぐ進んでいくことだろうか。映画「エンドレス・ポエトリー」でそんなシーンがあって、「俺のための映画だ」と興奮したけれど、そういうことじゃないな、とも同時に思った。

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結論「真っ直ぐ進む」とは「どれだけ曲がれるか」

2021年頭。「真っ直ぐ進む」とは「どれだけ曲がれるか」ではないかと、東コレ準備期間中にふと気が付いた。

コロナ禍、緊急事態宣言下、資金力もコネもない、そんな中で「自分らしさを出す」ということは、曲がりくねった道、荒れ果てた道、ところどころに穴があって、地雷があって、迷路のようになった道、それをいかに避けながら、乗り越えながら、やりくりしながら、目的地に向かうかの勝負だった。真っ直ぐに見える道は、実は目に見えないような曲線で、徐々に曲がってるかもしれない。そんな中で「真っ直ぐ進むこと」にこだわることの方が、実は真っ直ぐ進むことではないのだ。

ブランド初のショー。ブランド立ち上げ時からやりたかったネタ、リアルクローズではなくて世界観を優先したショー、巨大なマネキンが動き出すとか、ショー会場を全体を埋める巨大なウェディングドレスが宙に浮かんでるだとか、色々やりたいことはあったけれど、今この社会情勢や自分自身の現状の中では、そのどれも必然性がなかった。今までの日常が何よりも遠い非日常になった今、夢あるファッションや、希望を感じるショーは「あくまでリアルクローズ」そして「プロモデルだけで統一しないキャスティング」じゃなければ意味も効果もないと思った。「やりたかったこと」や「やると決めたこと」だけにこだわるつもりはなかった。「今の最善を尽くすこと」が重要だった。公式会場の来場可能数制限は、コロナ対策の影響で通常時の6分の1ほどだった。そのくせかかる費用は対策費で通常よりも必要だった。ハイコストローリターンだと多くの関係者に言われた。それでも、その条件下でやることを選んだ。

真っ直ぐ進むために必要なのは、全ての建物や道を無視しながら進むような暴力的かつ自尊心にあふれた直進力ではなくて、上空から見下ろして適切にカーブして、自分自身の運転ミスを鑑みるための地図、そして俯瞰の力、応対力、即興力だった。実は逆走してるときに、あなた、逆走してますよと、Uターンを促してくれる知人の存在。そしてそのアドバイスに「は?最高速度で直進してるんすけど?」とかアホなことを言わない知恵が必要なのだと、幼少期に両親に与えられた「問い」にやっと気付くことが出来た、近頃だった。

結論①/自分自身とは、外郭だ。
思い悩む時、自分がわからなくなったとき、ついつい内側にある方の「記憶」や「印象」を覗こうとする。不定期に訪れる少ない症状やパターンで、定期的な健康状態を上書きしようとしてしまう。そちらが本体ではなくて、二人分の命が宿ってる「事実」や、中身をかき出し続けて外にさらした「証拠」。そういった外郭が自分自身だ、と思う方がいい。器の中に時々泥水が入ったって、器自体の形は変わらないのだから。
結論②/直線に進むとは、どれだけ曲がれるかだ。
「地図を大事にしつつ、それをどれだけ無視できるか」が大事だ。主観で直線に進むより、地図を頼ろう。しかし目の前に道に穴が空いていたり、事故車があるのに地図だけを優先するな。応用力・即興力を重んじよう、真っ直ぐ進まなくてもいいし、予定通りじゃなくていい、その都度その瞬間目の前に現れる断片や情報に向き合って、時には逆行したり一時停止する選択を恐れないこと、これが結果的に「直線に進むこと」になる。
もしも服と人が同時に汚れたとき、目の前の人よりも先に気にしてしまうような服ならいらない。目の前で誰かが傷付いてることを見捨てるきっかけになるような、「直線力」を与えるばかりで「即興力」を奪うような装い物はなくていい。僕の服を汚してくれたら嬉しい。そんな日常にまで寄り添えることの方が嬉しい。

自分自身を苦しませ続けた呪いのような名前は、長い歳月をかけて、魔力の宿るセーブポイントになった。この名前で生まれてきてよかった。

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