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ネオン街道

走り出した街道は理想的に流れ、今夜はストレスも無い。
夕暮れの激しい通雨が止み田舎の下世話で派手なパチンコ屋のネオンが並ぶ
街道沿いが、キラキラとまるでカクテルグラスを並べたように
少しだけ上品に栄え映った。
そして、ようやく効き始めたクーラーは、澱んでいた視界を一気にクリアーに塗りかえる。バンドルを握る京子の心臓は高鳴った。
この街を出ることをしなかったことは後悔してはいないし、
さして都会に憧れる若者でもなかった京子にとって、不意に訪れる非現実的な異国の街を模したような、この情景は何かしらの、ありもしない夢の中の記憶を呼び戻させた。

こんな瞬間がたまにあればいい。

そんな時だった。

『あれ?』

京子はバス停を過ぎた瞬間に懐かしい見覚えのあるシルエットを見た。
バス停の先に車を停め、リアガラス越しに佇む男を見つめる。
男も突然に停まった車を怪しげに眺めている。

『ケンちゃん?』

京子は車をバス停の真横まで急激にバックさせ窓を開けた。

『ケンちゃん!ケンちゃんだよね?』

ケンジは高校時代に、わずか数ヶ月付き合っていた男だ。優しい男だった。京子の言うことにNOと言ったことは一度も無い。
ただし無い変わりに、これといったサプライズも皆無だった。

デートは毎回放課後の海を2人黙って眺め終わる。
喧嘩など、なりようもなかった。
それだけに、それほど印象も薄い、
別れの記憶すら残らぬ凪のような男だった。

『え?京子ちゃん?』

ケンジは恐る恐る覗き込むように京子を見た。かつての面影を残しつつも、目の下は凹み目尻のシワは刻み込まれ、まばらに差しこまれた白髪頭のケンジの、覗き込む表情に京子は込み上げてくる笑いを堪えた。

『久しぶり!バス待ってるの?昔と違うから、3時間に1本しかないよ』

京子は運転席から、身を乗り出し言った。

『うん、わかってる。時刻表見てるから。あと1時間は来ないみたい』

ケンジはボソボソとバス停の時刻表を見ながら答えた。

京子はその返答に若干苛立った。

そうだ、思い出した。この男はこんな感じでマイペースで言葉数も少ないが、時折見せるプライドの高さが京子を苛立たせていたことを。
そしてその決断を必ず京子に丸投げするのだ。

『駅まで乗ってく?』

『え?いいの?』

こんな感じも昔と何一つ変わらず大人になってしまったのか、この男は。

助手席に乗り込んだケンジを眺めながら京子は、
突如として雪崩れ込んできた窮屈感を感じずにはいられなかった。

『いやー助かったよ。久しぶりだね。何年振りだろ?』

ケンジはカバンの中をゴソゴソとまさぐりながら言った。

『25年ぐらいじゃない?』

何となくの計算で京子は答えた。

京子にとっては、それほど記憶に残っているわけでは無いこの男との最後に会った別れのシーンなど覚えている筈もなかった。

『今、福岡に住んでてさ、年1、2回しか実家に帰って来れなくてさ。
この街も何か派手になってきたね。
この国道なんて、コンビニとガソリンスタンドしか無かったもんな』

ケンジは車窓に流れるファミレスやショッピングモールを眺めながめ呟いた。

『タバコ吸うね』

京子は窓を開けた。

この街は田んぼの芳ばしい匂いに、少し離れた海の湿った風が混じり通り過ぎる。
窓を開けた瞬間に、その匂いは車内に行き渡った。

『懐かしい匂いだ』

とケンジは言った。
そして数秒黙った後、ケンジは突然切り出した。

『京子ちゃんってさ、B型だったよね?たしか』

不意を突くようなケンジの質問に京子は動揺した。

『え?うん…B型だけど…そんなこと覚えてるんだね?』

『覚えてるよ、結構振り回されたからね、俺は』

この男は何を言っているのだろうか?
25年経て、思わぬとこから浮上した恨み節に京子は黙った。

『花火観に行くって待ちわせしてドタキャン喰らったり、
七夕祭りでダブルデートの予定が京子ちゃん来なくて、
1人バスに乗って帰ってきたり、あと…』

矢継ぎ早にポンポンと語られるケンジの独白に京子のイライラは
臨界点を迎えつつあった。
典型的なB型故の行動で責められたことは初めてではない。
しかしケンジのそれには、長年蓄積され発酵したかのようなネットリとした重量感と粘りがあった。
この先の信号を越したらすぐ駅に着く。
ここはひたすら耐えて凌ぐことしかできない。
京子には早く終われと願うしかなかった。
そしてケンジは一旦黙り、再び話し始めた。

『どうして別れたか、覚えてるよね?』

とうとうトドメを刺しにきたか。
京子はじっと正面を見つめながらギュッとバンドルを強く握りしめた。

『駅で5時間待ったんだ。5時間この駅で。
来なかったよ、京子ちゃん』

そう言い終わるタイミングで車は駅に到着した。
押し黙ってままの2人の隙間にFMラジオの
陽気なDJの軽快なトークがスッと入り込み消えていく車内に、ハザードランプのカチカチという音だけが鳴り響く。
それはリアルな今を示す象徴のように鬱陶しく漂った。

『ゴメン』

京子の口からポロリと出た。
記憶があるわけではない。
きっと、ケンジに好奇心も興味もなかったのだろう。それだけだ。
ただ、ケンジの想いは25年間の間、私の存在と一緒に、
この街に埃塗れで埋もれていたのだ。だった数ヶ月の為に。
変わりゆく景色、人、空気、匂い、その中で
放射能のように染み込んだ消えぬ恋の記憶。

『うん、もういいんだよ』

疲れ果て黄土色に沈んだ駅の頼りない灯りがケンジの顔半分を照らす。
そしてシートベルトを外し『ありがとう』とケンジはドアを開けた。

『きっとさ!』

京子はシートから身を乗り出し、歩きだしたケンジの背中に叫んだ。
振り向いたケンジの顔は逆光で薄いグレー色にモヤがかり表情は霞む。

『寝てたんだと思うよ!』

言った後に後悔した言葉は数あれど、
これはかなり酷い部類に入るに違いない。

『だから、もういいって!』

ケンジは笑いながら駅へと歩いていった。
夕立ちで濡れたアスファルトは光さえも吸収し黒い海のようにジットリと濡れていた。
その上をケンジは軽快に早足で渡り、もう振り返ることはなかった。
そして京子は階段を登っていくケンジの背中を、ずっと見届けていた。
あんなに広い背中だったんだ。
常に前を歩いていたから京子はケンジの背中など見たことがなかったのだ。
あの人は、何が楽しくて私といたのだろう。
ユラユラと何かを振り切る様子もなく、ただ残った虚無感を背負い今と対峙しようとする広い背中。
そんな哀愁に満ちたケンジの背中を京子は見えなくなるまで見つめていた。

ポロリと何かが抜け落ち空っぽになりながらも、
今という変わらぬ現実は何一つ動かずそこにある。

『みんなそうだよ』

京子はタバコに火をつけた。
煙は揺らぎ生温い夏の夜へと流れていく。
京子は窓を閉めた。そして

『A型の男って、やっぱり苦手だわ』

そう呟き京子は再びあの華やかな
ネオン街道へと舞い戻っていくのであった。

文:エンスケドリックス
写真:原田ミカメラ



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