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すべては自分のために(diary224)

本日のnoteは”すべては自分のために”

「話に花が咲き、贅を尽くした鮨をたらふく食ったあと、イチローはおもむろに王監督に訊ねた。
「現役時代、選手のときに、自分のためにプレーしていましたか、それともチームのためにプレーしていましたか」
イチローは訊いた直後、ドキドキしていたのだと言った。
「答えを聞くまでのちょっとの間、緊張しましたよ(笑)。ああ、訊かなきゃよかった、という結果だって考えられるから……」
王監督は即答した。
「オレは自分のためだよ。だって、自分のためにやるからこそ、それがチームのためになるんであって、チームのために、なんていうヤツは言い訳するからね。オレは監督としても、自分のためにやってる人が結果的にはチームのためになると思うね。自分のためにやる人がね、一番、自分に厳しいですよ。何々のためにとか言う人は、うまくいかないときの言い訳が生まれてきちゃうものだからな」
イチローは小さな声で「ありがとうございます」と言って、頭を下げた。」


前職の上司より教えてもらった記事だ。

この言葉を聞いて以来、仕事もプライベートも、すべては自分のために行動をしている。

「律することから波及し、自走社会を創る」

私のmissionである。

自身のために一生懸命取り組み内省する、律することを行い続けることで誰かを刺激する、刺激を受けた人も内省し自身のために行動するようになる、それがどんどんと波及していき良い社会を築いていく、だからこそ、自分のために物事を必死こいて取り組む。という意味合いだ。
誰かに言われたとて行動変容できる人は少ない。

自分で気づき変えようと思わなければ人は変われないのだ。

だからこそ、きっかけを与え続ける人が存在しないといけないし、大人とは「きっかけを与え続ける人なのではないか」と思う。

誰かのために行動するのも悪くないだろう。とても素晴らしいものだ。
ただ、誰かのために行動するのは「自分のために本気で行動をしたことがある人のみできること」ではないだろうか。
だってそうだろう。自分のために本気になったことが無い人間が、誰かのために本気になれると思うか?僕は思わない。
なぜ、自分のために本気になったことない人間が、誰かのために本気になれるのか。

他人のためなら本気になれる、その動機を考えてみる。

・・・

そういえば、私も上記のような考えだったことを思い出した。
思い返してみると、認められたい、褒められたい欲求から来ているのだと思う。
結局は自分の欲求を満たすためにやっていたことなのかもしれない。
それを都合よく「誰かのために」と変換していただけなのだなと。
これはあくまでも私の体験であるため、別の意見もあるだろう。

私は引き続き、自分のために行動をしていきたい。
結果的に誰かのためになると信じて。

また来週。

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