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解像度の高い、春

桜のつぼみが膨らんでいたのに、空気も温いのに、なぜか空気だけは澄んでいて、遠くの山並みまで見渡せた。

山麓に広がる街と夕闇に照らされるアスファルトの道。
街灯の光が連なる様子は、点描された絵画のようであった。
それはフィクショナルな、という意味でも絵画のようであった。

あの景色は、実はまるで嘘で、蜃気楼だったと言われても驚きはしない。
解像度が高まると、かえって嘘らしくなるのかもしれない。
おぼろげな山の影が、くっきり見えると騙された気分になる。故郷の街もそうだった。稜線だけが辛うじて見えていた山の、中身が見えるようになるのが冬だった。麓に建てられた鉄塔までもが、明瞭に見えていたのだ。

本来ならば、霞の中に立ち現れる山の方が「嘘くさい」のに。
黄昏に溶けてゆく街を見ながら、メロウ…という言葉が頭に浮かんだ。

ターコイズの空に沈む太陽。果実が熟すように、山際には橙色が広がっていた。夕闇が発揮する力は大きい。終わりを前にしたものの運命を感じる。散り際の桜のよう。滅びの美学か。

終わりといえば、わたしの学生生活もそろそろ終わりを迎える。
厳密に言えば、春からも学生生活は続く。卒業という節目があっても、それはただの「節」である。

しかし、わたしを取り巻く環境は大きく変わる。
学部の4年間を通じて親しかった友人たちが遠くの街に引っ越してしまった。徒歩圏内に住む友人は、みな知らない場所に引っ越した。友人の門出を祝う一方、寂しさがじわりと染みる。

故郷の街を出る時、「この街での生活は続かないのか」と悲しくなったものの、「見送る側の方が、なかなか辛いよ」という言葉を貰った。その言葉がいまになって効いてくる。

久しぶりに大学図書館で読書をする。
春休みということもあって、混雑はしていなかった。

大きな図書館とまばらな人影。4年前の春も同じだった。
入学当初、サークルの勧誘が苦手で、避難場所を求めていた。
新入生としてのラベルを貼ることで、見ず知らずの人に話しかけることを可能としているのである…。ある種の無神経さが苦手だったので、絶対に勧誘されない場所を追い求めて、図書館に滞在していた。新学期だったので、図書館の利用者は少なかった。高学年の学部生か、院生らしき人ばかりだった。授業もほとんど始まっていない時期に、図書館で勉強する人は何に取り組んでいるのだろう。新入生のわたしは純粋に疑問に思った。あの頃は、こなさなければタスクもなく、ぼんやりと日々を生きていたので、不安だった。

久しぶりに春の図書館を利用して、あの不安を思い出した。
きっと、あの不安は根無し草であることに由来するのだろう。
何を取り組めばいいのか分からず、図書館を彷徨う。
周りは一生懸命に、何かを追い求めているのに。
サークルの勧誘に乗っかれば、所属意識も芽生えて、そのような不安を払拭できたはずである。皮肉なことに、勧誘から逃げた先に見えたものは、所属なき不安であった。

再び、この春に目を向ける。
そういえば、私もほとんど所属がない。
友人の多くは就職する。別の場所に引っ越した。
すぐに会える友人ではなくなってしまったのである。
今までは、大学図書館に行けば誰かしら知り合いに会えたのだが、これからは学内で知り合いに会うことも少なくなるだろう。

好んで進学という選択をしたにもかかわらず、すこし感傷的な気分に浸ってしまっただろう。春のせい、なんて俗っぽい言葉を使いたくなるほどに。

がらんどうの図書館で、新入生の孤独を思い出した。

桜の蕾は膨らんでいた。
いよいよ、春はやって来るらしい。



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