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ブルース

承認欲求が前面に出た文章は好きじゃない。
自戒を込めて書いた一文だけど、思った以上にエッジが効いていて、刺さる。
 
少なくとも私の場合、表現には承認欲求が付きまとう。「私」メインの文章は特に。存在が認められなかった過去の私の亡霊が憑依して、筆を握らせる。
満たされなかった思いは書いても書いても満たされず、あらゆる創作活動の源となる。
 
つまるところ、創作の総量は増えるのだが、一つ一つの完成度はお粗末なものであり、結論はいつも同じ。「私みたいな子が救われますように。」
なんという祈り。弱々しく見せつつ、図々しい祈りである。書いている文章は筆者の欲望が多かれ少なかれ反映されているものだとか、不安を特定の表象に仮託したものだとか、意図しないところに「私」は立ち現れる。その意図しない「私」こそ、承認欲求による塗装が落ちた「私」である。
 
それ自体の良し悪しは措いといて、塗装の下の、根幹をなす部分についてもう少し見つめる必要があるだろう、と思う。つまり内省が足りないのだ。
 
ちょうど今、ないせいと変換しようとして「内声」
という言葉が出てきたが、内なら声こそ大切なのである。これを見て見ぬ振りして、表層的な部分だけ変えて、同じメッセージを量産するのは違う。
 
この間、読んだ芥川の文章では、レトリックよりも内容だとかそんなことが述べられていた。もちろん、レトリックの全否定ではないが、内容もないのにたいそうな言葉で彩るよりは、多少体裁が悪くても本質を述べるべきだ、そんなようなことが描かれていた気がする。
 
本当にそうだよ。なんだよ、周囲の視線とやらを内面化して、承認欲求丸出しにして書いた文章を量産するプロセスって。
 
こうしたものに対して批判的、というか敏感になってしまうのは就職活動が原因だと思われる。
 
自分を理解するために、他人から見た私を理解する。集団における私の立ち位置を理解する。他者との関わりにおける私を理解する。私を知らない人に伝える。
 
たしかに大量に新卒採用するならば、他者から見た自分像ないし集団内における自分の立ち位置を語らせることは有用である。しかし、本来ならば面接官が見極めるべきところを本人に語らせることによって歪みが生じるのである。
 
他者の視線を内面化させたら、自分のアイデンティティがボロボロになる。境界線が見えなくなる。他者から見た自分なんてものを理解したら、それを意識せざるを得ない。

仕方ないとわかりつつも、自他の境界線が撹乱された自己を見つめるのは辛い。



ギャップが大きい、初対面と印象が違う。
よく言われる言葉である。

確かに私の性格は比較的振れ幅が高いだろう。
堅物な人間に見られやすいが、実際はフランクでフレンドリー。そんな具合である。

私自身、どちらが本質かと聞かれれば回答に窮するだろう。どちらも私であるからだ。

ただし、フレンドリーなキャラクターはどちらかといえば後天的なもので、この世の中を渡り歩くために得た術である。
 
高校時代まで無口で大人しく、友達も少なかったのは内向的な性格に起因するだろう。大学に行って、ソーシャルな場での交流の場数を踏んで得た術である。もちろん、この性格のおかげで人生がガラリと変わった。友達もたくさんできた。
 
でも時に無理をしている自覚はある。
 
弟が私の家に来るというので、駅まで迎えに行き、一緒に帰宅した時の話。
私はほとんど話さなかった。その沈黙が心地よかった。よく考えてみると、私はこの種の沈黙を避けてきたのではないかと思う。
 
友人と話す時、私は矢継ぎ早に話すと思う。
次から次へと話したい内容が思い浮かぶので、話題に困ることはない。ただし、無理はしている。
 
意外とこうした無理は他人に伝播してあるらしい。時とした「見苦しい」との言葉を受ける。
確かにそうかもしれない。
 
外から見た自分のイメージが気になりすぎて、沈黙を恐れる。でも、私は安心して沈黙できる関係を希求しているのだ、と気づく。
 
やはり周囲と一時的に関係性を遮蔽するのも大切なのである、と思い立ったのであらゆる連絡手段の通知を切った。
 
いい人であろうとする自分が気持ち悪いので。
家族から見た私は、気まぐれな人間らしい。
じつはそんなに優しくない。どちらかといえば斜に構えていて、口が悪い。うまいことこれを誤魔化していい人を演じているが、そろそろ5年目になると思うと疲れてきた。誰も求めていない「いい人」像を一旦捨てようと思う。
 

 
本筋とは逸れるが、目標を立てて目標実現のための方策を取ろうとすると失敗することが多い。
 
逆説的ではあるが、目標を据えない方がうまくいくケースが多いのである。
 
目下、外部の研究会において発表するレジュメを作成中だが、うまくいかない。初めて大学院に進学したことを後悔した。
 
学部生の時は、承認欲求ゼロで好きなことをマイペースに追究していたからこそ楽しかった。限られた時間とリソースの中で、「良いもの」を作り出そうとすると、かなり苦しくなる。
 
要するに、ここにも承認欲求が潜在するのである。
私の研究を認めてほしい、という声がコロスのように湧き出てくる。
深夜、ラップトップに向かっていると、承認欲求の地謡とやらに取り憑かれる。
 
気づいたら目標を達成してた。意外とこういう成功の事例も多いのではないか。
 
全てに動機を求め、PDCAサイクルで目標を達成させる。機械的な生き方では、見つけられない境地はあるのではないかと思う。
 
ああ、あらゆるしがらみから解放されて、ただ自分の「好き」に突き動かされたい。そんな願いを込めつつ、締切と格闘する。

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