見出し画像

パクチーですが何か

「記憶に残る幕の内弁当はない」
秋元康の有名なフレーズだが、生存戦略としての「幕の内弁当」は有効である。

幕の内弁当を嫌いだと主張する人は少ないはずであり、どこでも生き延びることは可能である。周りと適合できなかった中高時代を思えば、幕の内弁当のように生きることは、立派な戦略だと思う。

対して、わたしはパクチーのような人だと思う。
別に、ここには自己憐憫の意図はない。
パクチーのようなアクの強さは持っている。ただそれだけなのだ。合う人は合わない人は、とことん合わない。パクチーを好きな人はとことん好き。いまの環境は、パクチーを美味しく食べられる人ばかりいて、パクチーがメジャーな食べ物であるかのように錯覚するが、実際はそうではない。パクチーを嫌いな人は

議論が円環しそうなので、このくらいにしておこう。くだらないアナロジーを転がして、話を広げたところで面白くない。

なぜこのような話をするのかといえば、わたしは現在就活生だからである。着なれないジャケットを羽織り、パソコンのカメラの前でニコニコする職業。パクチー的な人間は、非常に就活がやりやすい。
なぜなら自分を打ち出すことが容易いから。他者にはない、「自分らしさ」を打ち出せるから。アクの強さが評価されるフィールドという意味では、就活というフィールドはやりやすい。もちろん、テンプレート化されたエントリーシート、服装、諸々の規範などを加味すれば、必ずしもそうとは言い切れない部分もあるが。

組織とのマッチングを図るには容易いが、実際に配属されて、組織内の末端として働くとして、パクチーのような生き方は果たして有効なのか。

最近、この問いが巡り巡る。正直、わたしは「他の人とは違う」ものに対して、固執しているともいえるし、積極的にパクチーになろうとしている。でも。人間関係の選択権がほとんどない社会人になったところで、求められるのは「どんなところでも適応できる力」であり、幕の内弁当なのだ。なんというか、自己分析で「個性」を求めておきながら、おそらくそれはうまい匙加減で表に出したり、隠したりする必要がある。なかなか難しい。

「わたし」と組織の中での「わたし」。
条件付きではない「わたし」はパクチーであっていいけれど、組織の中では「パクチー」と「幕の内弁当」を行ったり来たりしなければならないのだろう。

言うまでもないが、就職活動はある程度の二枚舌でやることが求められるのだろう。多くの就活生はそれを承知でやっているし、おそらく採用側もそうなのであろう。これ自体、「組織の中で生きる」ことの美学というか、やることなのかな、と思う。

この記事では、別に就職活動を批判しようとする意図はない。組織内で働くこと自体に辟易しているわけではない。むしろ前向きに捉えている。ただ、自己と向き合うことが求められる「就活」において、どれほど自己のえぐみを拾えばいいのか迷っているのだ。求められる個性は、度を越えれば評価対象として見られないだろう。

作家の平野啓一郎は、著書『私とは何か』(講談社現代新書)において、「分人」という概念を提唱する。もはや使い古された言い回しである「本当のわ私」は、そもそも存在しないと平野は主張する.分割不可能なindividualではなく、分割可能なdividualである、と。そう考えれば、パクチー的な自分も、幕の内弁当的な自分も、全て「自分」なのである。
極めて「幕の内弁当」的な自分だとしても、その中で居心地の良さが感じられたら。ちょっと自分のアクの強さが出てしまっても、受け入れてくれたら。そんなことを考慮して、企業とのマッチングを図るのだろう。

と、うまく折り合いをつけて思考をしている。まったくもって迷走する思考だ!!

この作業は楽しいのだが、一つ警戒しなくてはならないことがある。それは、自分のライフヒストリーを物語をくり抜くことである。エントリーシートから面接まで、ある種の「物語」を要求される。何かに取り組み、課題を解決し、何かを学ぶ。言ってしまえば、定型化されたパターンに経験を当てはめることである。

就活では必須の行為だが、そんな物語とは一定の距離を保った方が良いということだ。たしかに仕事の場では、必要な語りだろう。しかし、もっとパーソナルな、というか人生全般のことを語るとき、型によって歪めてしまっていないかい?そんな自問は必要だと思う。

もちろん、語るという行為が多かれ少なかれノイズを含むことは前提としてあるだろう。しかし、あらゆる物語が定型化されてしまうことで失われる人生の滋味がある、ということは忘れてはならない(急に抽象的な話に。)

物語から零れ落ちた物語。わたしはこのように呼ぶ。語るまでもないと思われること、あるいは語ることが相応しくないと思われること。これらこそ、わたしは人生の滋味と言いたい。

就活における自己分析(自分史あるいはモチベーショングラフを編纂すること)は、あくまでも就活で要求される「物語」に則ったものでよい。でも、本当に自己を見つめ直すとき、そこから零れ落ちたものも拾っておきたい。

…そのためにnoteみたいなプラットフォームがあるのだと思う。就活生は、Twitterの壁打ちアカウントないしブログ等を活用して、特定の「物語」のない場所でまずは自分を振り返ってみるといいのかもしれない。パクチー的な自分も、幕の内弁当的な私も。全てを書く。そんな時間があったらいいねぇ、と思う。枠のない場で見るわたし、も必要だよ。



余談だけど、わたしは高校卒業時まで、なかなか周りと適合できなかった。極めて内向的だったから。
自己を開示したら一気に人が離れるんじゃないかと思って怖かった。他者とうまく関わるには、同一な存在でいるべきだったし、目立ってはいけなかった。そんな環境だったことを鑑みれば、その生存戦略は理にかなっているだろう。それでも、その戦略は先回りした反論すぎる、と思う。往々にしてわたしは、先回りして反論して、自分を守っている。でもそれは疲弊するし、言葉を与えるならば「被害妄想」である。

この文章も、ある種の「先回り反論」なのかもしれない。わたしは就活で求められる「自己の一貫性」に対して懐疑的だが、それでも一貫しているところは、ある。こういうとこだよ、わたし。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?