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憂鬱って書ける?

 私がパソコンというものを初めて手に入れたのは26年前の冬。出たばかりのボーナスを注ぎ込んで買った、6色の縞模様のりんごのロゴ※1のついたちっちゃいテレビみたいな箱だった。

 当時、私は立川の紅茶専門店で働いていた。お店のメニューを作るのにワープロ(懐かしいわぁ)で打ち出したテキストと、インスタントテックス(こすると転写できる文字シール)を駆使して、版下(印刷物の元になる原稿)を作り、事務所のコピー機でコピーした台紙に、撮影して焼き増しした料理の写真を貼り、パウチをして作っていた。美大卒だというだけで半ば強制的にこの作業が私の担当になったが、手先がさほど器用ではなく、根気もない私はこの作業がとても面倒くさかった。

 今なら写真も文字もパソコン上でレイアウトしてプリンターにつなげば、印刷まで全てパソコンがやってくれる。ずいぶん便利になったものだ。

 大学ではグラフィックデザインを専攻し、新卒では大手飲食企業のデザイン室に雇ってもらったものの、ほら、私不器用で根気もないでしょう?早々に足を洗った。あの箱があれば、もしかしたら一度はあきらめかけたデザイン業に再チャレンジできるかもしれない。三十歳になり、接客業に体力的限界を感じていたので、りんごのロゴの箱にその後の人生を賭けることにした。

 まずはりんごのロゴの箱の使い方からおぼえなければならない。紅茶専門店を辞めて、学校に通う。箱の中で動くお絵描きソフトの使い方を半年間学んだら、なんとか飲食専門の広告代理店にデザイナーとして復帰を果たすことができた。

 職業がグラフィックデザイナーからウェブディレクターに変わっても、その姿かたちが箱からタワーになり、ノートになり、ロゴの表現が6色からモノクロになっても、りんごのロゴは、相変わらず私の相棒である。相棒、いや、彼氏といってもいいかもしれない。姿を見るだけで嬉しいし、何より一緒にいて楽しいのだ。

 絵の具を用意しなくても絵が描ける。写真に写った顔のシミもなかったことのように消してくれる。以前買ったワインのヴィンテージが思い出せなければ教えてくれるし、最近では外国に赴任中の飲み仲間とのワイン会の開催を可能にしてくれる。

 この文章も彼氏で書いている。たまに思ってもみない変換をして私を笑わせてくれるお茶目な面もあるけれど、書類や資料を作ったり、オンラインの打ち合わせに参加したりと社会人としてちゃんとしなければならない場面でさえ、その作業を楽しく遂行させてくれる頼もしい存在だ。病める時も、健やかなる時も、いつもそばにいてくれて、たとえば憂鬱という文字もキーボードを打てば、この彼氏が代わりに書いてくれるから、私は憂鬱という字が書けなくて憂鬱になる必要がない。リアルの彼氏より役に立つ。

※1 りんごのロゴ→アメリカのテクノロジー企業「Apple」のロゴ。最近はスマートフォンやタブレットの方が有名ですが、元々はパソコンメーカーでした。

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