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なぜ村上春樹のエッセーは面白いのか

毎年ノーベル文学賞の時期になると、候補に名を挙げられ、世界中のファンが今か今かと受賞を心待ちにしている日本を代表する小説家、村上春樹。

私が読んだ村上作品で一番印象に残っているのが「アンダーグラウンド」。地下鉄サリン事件を彼の視点で描いたノンフィクションである。単行本は辞書並みのぶ厚さの738ページ。十数年前、10日間入院する機会があり、その時に持ち込んだ。村上春樹自身による、被害者を含む62名の関係者へのインタビューは、世間を震撼させた事件だけに内容もすごかった。けれど、事件の証言を淡々と表現していく彼の文章の力に引っ張られて2日もかからず読み切ってしまった。

村上春樹作品を何冊かは読んだと思うが、本の装丁に惹かれて手に取った「ノルウェイの森」は、第一章の飛行機の機内のシーンで挫折した記憶しかない。

えっそこで?

だから正直な話、「アンダーグラウンド」は「一番印象に残っている」というよりも、読み終えたことが記憶に残っている唯一の村上作品といった方が正確かもしれない。
 
最近再び彼の作品と接する機会があった。  

少し前、友人の勧めで「遠い太鼓」を読んだ。
30代後半の彼が、ギリシャとイタリアに滞在して「ノルウェイの森」と「ダンス・ダンス・ダンス」を執筆したという3年間の旅行記で、夫妻でギリシャのどこかの島に滞在していた時、トラベラーズチェックを銀行で両替するのを忘れて奥さんに怒られるというエピソードだった。

世界的ベストセラー作家の「村上春樹」が「ギリシャ」で「奥さんに怒られる」という三題噺はこれだけでも面白いけれど、「村上春樹」抜きにしても面白いと思う。だって気になりませんか? 主人公が村上春樹であってもなくても、なぜかギリシャで、いい歳をした大人が、奥さんに怒られるって。なぜギリシャなの? なぜ奥さんに怒られることになったの? 風光明媚な地中海ブルーをバックに、奥さんに怒られてしょんぼりしている大人の男の姿を想像するだけで面白くないですか?

なぜ村上春樹のエッセーは面白いのか?それは、きっと村上春樹という人が元々面白い人なんだと思う。

他のエッセーで知ったことだけど、「自分のまわりで自然に起こる出来事や、日々目にする光景や、普段の生活の中で出会う人々」を彼はマテリアルとして収集し、蓄積する脳内キャビネットがあって、それらを取り出してきて小説を書いているという。一番いいマテリアルは本業の小説にとっておき、小説がひと段落したら、使い道のなかったマテリアルを使って副業であるエッセーをまとめて書くこともあるそうだ。

なるほど。面白い人が面白いと思ったネタを使って文章を書くのだから面白くないわけがない。村上春樹を寿司職人にたとえたら、最上級のネタを使って握る寿司=小説こそが彼のスペシャリテであることに間違いはないだろう。職人が握るおまかせの寿司は一生に一度は食べてみたいけれど、庶民の私にはその寿司店の従業員がふだん食べている、お客には出さない賄いの方が合っていそうだ。

とはいえ一生に一度のつもりで「ノルウェイの森」にもう一度挑戦してみるかと問われれば、多分読まない。小説を読むには時間と心に余裕がいる。今の私にはそれがない。残念だけど。

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