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散歩

最近、夕方に散歩に行くことが習慣になっている。

自分で自分に課したタスクから逃れられる数少ない息抜きのひと時だ。

タスクを早めに切り上げ、自分の好きな曲を聴きながら自転車をこいで、歩いて自分の生まれ育った町の景色を眺める。コロナ禍のおかげで昨年のように気の赴くままにさまざまな場所へ旅に出ることがなくなったぶん、こうやって自分と向き合う時間が増えた気がする。

1年前であれば1時間を超える大学への通学時間でかなりのストレスがたまっていたが、今ではそんなに長い通学をする必要もない。ただ当てもなくスマホをスクロールして地下鉄の閉鎖的な空間で息苦しい無駄な時間を過ごす代わりに、今では濃尾平野の広い景色を眺めて心を休めることができる。

名古屋の私立中学校に入ってから大学生になって2年目の8年弱、これほど地元にじっくりと居続ける時間はたぶん、なかった。

毎日名古屋まで20分に1本の電車で向かい、学校で都会のコンクリートに囲まれて育ってきた同級生と一緒に過ごす。学校が終わったら塾へ向かう。そこで過ごす同級生もまた都会の子が多い。

もちろん、自分のように郊外からやってくる同級生もいたが、それでもやはり学校の雰囲気はそれまでいた田舎の小学校とはどこか違っていた。進学校ということもあり、きっと心にゆとりを持てていなかったこともあったのだろうと思う。

田舎の一少年から大学の准教授に上り詰めた親の影響が少なからずあったののだろうが、心のどこかで彼らは違う世界の人間なんだと線を引いていた。それは今でもカフェに行ったりしてキラキラしているインスタのストーリーを見たときに感じる、自分とは違う感覚の人なんだな、と思う気持ちに通じているのかもしれない。

一方、小学校卒業以来ほとんど付き合いのない、地元の小学校時代の同級生から自分を見ると都会の人間に見えるんだろうなとも思う。

そう考えていると、自分は一人なんだな、と感じる。

私は、多彩な尊敬できる素晴らしい仲間に囲まれて、一大学生として人並みに好きなことをして幸せな時間を過ごしていない、いわゆるボッチという種族に自身が属しているとは思わない。ただ、それでもやはり自分は一人であると感じる。

ここでの「一人である」は「唯一の存在」の意味で使っている。

そんな自分に何ができるか、自分にしかできないことはあるんじゃないかと思い続けてかれこれ2年が過ぎようとしている。

そんなものはないのではないか、とも思ったりもする。それでも自分にしかできないことは何かあるはず。たとえ、それが田舎から都会に出てきた人間でなければできないことに限定されていなくてもいいじゃないかと思う。

そんな思いを持って、今、私は自分にしかできないことを探している。もし、それが一生を懸けなければならないものであっても構わないでないか。

散歩の終わりにはいつも、そんな結論に達しながらただ一日が終わっていくのである。


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