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体の外で考える

書けば書くほど、自分が空っぽになってくる。ネタは無くなってくるし、悩みも考えたことも全て言葉に還元されていく。書きながら考えているので、書いていないときには考えなくていいやと思えるようになった。机に向かっていないときは大体ぼーっと過ごしている。心地よい虚無感というものもあるのである。

「わかりません」と言えるようになってきた。書いているときは考えていて、書いていないときは考えていないのだ。はっきりした境界を見据えて、考えていないことを聞かれたら、それは分からないということだ。「わかりません」と言うついでに、「紙とペンと時間をくれたら、ちょっとわかってみます」と言ってみたい。

考えることを、外部委託している感じだ。自分の頭で考えていない。体の外の、言葉という器官を使って考えている。それは考えるのには最適な構造をしていて、論理という筋肉が考えを推し進めてくれ、考えた結果は文章としてわかりやすく形に残り、通じないときには誰かが教えてくれる。もう自分の頭では考えたくない。

とは言え、言葉というやつは私の脳の働きによるものらしく、頭は疲れる。言葉は刃物と同じように使い方に気をつける必要があり、安静な場所で冷静に扱わなくては、自分や誰かを傷つけてしまう。そのせいで、ずっと黙々と集中して机に座っている必要がある。指が痛くなったり、腰が疲れたりする。結局、私の体は必要である。

書くということは、言葉を操ることではない。言葉を「書く」という具体的な動作に過ぎない。人間には、はるか昔から定まってしまった言葉を好き勝手に操作することはできない。ただ、言葉の上に乗って運ばれているだけである。書かれるべき言葉はもう、すでに用意されてあって、私はそれをせっせと記録しているだけである。

書くことは、そのつつましやかでおとなしい外見から、知的で高尚な行為であると誤解されやすい。もちろん知的で高尚な人も書くことはある。が、私に限って言えば知的でも高尚でもない。自分の頭で考えるのが面倒くさいから、書いているのであって、根源のところは怠慢であるとすら言える。








…何を書こうとしたんだっけ。たまに書いているときに、次に書く文章を忘れる時がある。これは、話しながら何を話そうとしたのかを忘れるのと同じ現象である。私は、文章の構成も外部委託しているゆえそういうことが起こる。

それは、良い文章を書けるからというよりも、ワクワク感のためである。すなわち、考えた結果を先に知れてしまったら、怠慢な私には書く気力が起きなくなってしまう。また、構成を考えているうちに力尽きるほど貧弱なため書きながら考えるという背水の陣で、書くことをけしかけている。

おかげで(そのせいで)、書く前に言い訳をすることができなくなった。つまり、ネタがないから書けないとか、書く気がないから書けないと思っていると、どこからともなく「とにかく書け」という指令が下り、それに反論できない。

書けないときは至極単純な理由で書けない。疲れているから書けない。指が痛くて動かなくなったり、じっと座っている根気がなくなると書けなくなる。才能がないからとか、アイデアが枯れたからという理由で書けなくなることはない。ただ、「書く」ための物理的条件に体がついて来れなくなったときに書けなくなる。だから、よりよく書くためには、体力や精神力を鍛えることが重要である。

力尽きたときにも、「書こうとすれば書ける」という意思は頭の中で鳴り響いている。もし、脳で祈るだけで文字が入力できる機器があればと思う。そうしたら、書くための体力的な制約から逃れて、書き続けることができるだろう。

全ては書くことにつながっている。日々のどうでもいいことも、言葉の糸口を見つけることができれば書くことができる。むしろ、書くことの前では自分であることから逃れ慣れない。書くしかない、と追い込まれて、自由に書きなさいと突き放される。そうすると嫌でも、自分が持っているものの中から何かを生み出さなくてはならない。全てを書くことにつなげなくてはならない。


最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!