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おとなのための成長論

子供は成長する。体が目にみえて大きくなる。使える言葉も、考えることも変わる。だから成長するとわかる。

だんだん成長するにつれて、自分が本当に進歩しているのかどうかよくわからなくなってくる。そうなると、成長するという考えが形を変えて疑問になってくる。目に見えないものや、抽象的な基準を持って成長するということを測るようになる。基準すらないものもある。

そうなってしまった「おとな」のための成長論というものがあってもいい。そして、もっと自由に考えてもいい。本を一冊読んだら、一つ分成長したと考えてもいい。趣味が上達したら、その分自分が変わったのだと思ってもいい。とにかく、目に見えないし測ることができない昨日の自分と今日の自分の違いを確かめるためたいと思った時、「おとなたち」は自分たちでそれを手に入れなくてはならない。

相変わらず、世間や周りの評価、というものはあるけれどもそれは自分の些細な進歩を捉えているわけではない。毎日お風呂上がりに、柔軟体操して体が柔らかくなった、みたいな小さな歩みは見えない。

子供は大人になるために、成長しているのだろうか。そうだとしたら、大人になってしまったらもう成長する必要はないのだろうか。

目的も、達成もない進歩が必要だと感じるようになってきた。目的を見つけるのが難しい。闇雲なわけでもないが、確かな信念があるわけでもない。私はどこに向かって歩いているのか。よくわかっていない。あるいは逆に、目的を見つけてしまった途端、今の自分が受け入れられなくなってしまう自分がいる。目的が一度決まれば、それをなるべく早く達成するのが効率の良いやり方である。しかし、その考えでは、自分で始めたのにもかかわらず、早くやめたくなるという矛盾した状況に陥ることがある。

むしろ、自分は常に何かの過程にある。そう思うと地道に一歩を積み重ねることができる。未熟な自分というものを受け入れて、焦ることが少なくなった。進歩を楽しめるようになった。成長した先にある、今よりエライ自分より、成長途中の今の自分の方が大事だと考えられるようになった。

何か意義や意味があるから成長するのではない。そう考えれば子供もそうではないだろうか。育ちたくて私たちは育ってきたのではない。なんだか生きているうちに、育っていた。周りの環境や、自然な力が私を知らぬうちに大人にさせた。どうやったら大人になれたのか、今でも実は知らない。

「おとな」 とはそうした無邪気な推進力を卒業してしまった人である。おとなは難しいことに、成長したいと自分で思わなくてはならない。そこが決定的に子供と違うことだ。自分で自分に水をやって、傷ついたら自分で自分をケアして、なんとか前に進もうとする。そこには、また違った健気さがある。

おとなは自分で、自分がどう育っていくのかを決めることができる。どういう育ち方をしたいのかも決めることができる。太陽の光で育つのか、雨の恵みで育つのか。風に吹かれて勁くなるのか。狩りをして獲物を得るのか。あるいは、地面に根を張ってしっかり過ごすのか。遠くの星に向かって走るのか。空を見ながら気ままに旅をするのか。自分でありながら、過去の自分を新しく規定し直すことができる。

おとなになってから、成長は楽しい。と思う。おとなの次はなに?

おとなの次は多分、「自分」だ。自分の次は「新しい自分」。それぞれ自由な人になれ。


最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!