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座り続ける体力

書くのにも体力がいる。それは、足が速いとか、力が強いとかというものとは別の体力だ。それは、地味でそんなものがある思われていなかったりする。しかし、書いているうちにやっぱり、書いていると疲れるし、体の調子がいい時はよく書けることがわかってくる。体とそれによって書かれるものには関係があるのではないか。

例えば、長い文章を書く場合は、それを書いている間はじっと椅子の上に座っていなければならない。文章が終わるまで、言葉を静かに待つ。思いついたら手を動かして、書き留める。言葉にすると、たったそれだけの動作である。しかし、実際は言葉を探している時間には、別のことを考えることはできないし、他の作業をしないで「書く」ことに専念していないといけない。

単純に座っていること、そのためだけの体力がいる。言葉が思いつくまで、粘り強く、それでいて繊細さを保って現れでた言葉を拾わなくてはならない。

どうしても、疲れているときにはそれがしづらい。疲れているときに書く文章は、なんだか心の奥から出てきているというより、指先から出てきているように思える。言葉を選ぶために、あまり時間を使わずに、思いついたものをすぐに並べていくような書き方だ。疲れているということは、「待つ」ことができるかどうかに如実に現れる。疲れていると、早く書くことから解放されたいから、実は焦って書いてしまうのである。

だから、座っているための体力が書くことに影響してくる。長い間座ることができると、思慮深い言葉を待ったり、自分の表現の細かい違いをゆっくりと吟味することができる。反対に、疲れている時はそれができない。手癖だけで書いているような気がしてくる。

今、書いている私が疲れているのだから、このような話題になる。かといって、疲れているのも悪くはない。逆に迷いがない。指先に従って、文章を生み出しているような気がする。重力に従ってものが落ちるように、何かしら自分の中にある法則性のようなものに従って、文章が出来上がってきてしまうような気がする。

これを、後で反省するのには時間がいるだろう。疲れていないときに、疲れて書いたときの文章を読むと、どんな感じがするのだろう。

逆に、読むときの方も「座り続ける体力」は関係しているだろう。複雑な文章を読むためには、やはり根気よく座っていることが欠かせない。そして、疲れているときにはいい文章もなんだか、読む気も起きなかったりする。

書き手が楽をするほど、読み手が苦労するということなのかもしれない。疲れているときに書かれた文章は、疲れていない読み手でないとわかりずらかったりする。逆に、書き手が考えるほど読み手はすらすらと読み続けることができる。

私の場合はどうだろう。考えていないと言っても、行き当たりばったりで書いているから、もしかしたら疲れている時の文章は、疲れている人が読んだ方が共感できるかもしれない。逆に、真剣に考えれば考えるほど、読んでくれる人はその場で同じ道を辿ることになるので、疲れる。

と思えば、気が抜けた文章も誰かの息抜きになるかもしれない。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!