人生の余白を作る
時間はどうやら、たくさんあればあるほど良いというわけではなさそうだ。
人生は、意味があるものだけでできているわけではない。何もせずにぼーっとしたりする時間も人生の一部である。長期的な目線で見ていると、ぼーっとする時間がない人生はほとんど不可能である。
意義や効率をただひたすら追い求める、という考えは人生を意味で塗りつぶしていくような考えだ。効率よく働くために、休むというのも息苦しいくて、うまく眠れない。休むことや遊ぶことさえも何かの目的のために汚されてしまう。
人生には余白が必要だ。
余白を作るということは本当に本当に空っぽな時間を持つということだ。何かのための、空白ではなく。ただそれ自体としての空白。どうしようもなく、作られてしまう必然的な空白。
意味があるわけでもない。そのような時間になんの意味があるのか。問われても答えることができない。
禅画における余白のようなものだと説明したら良いだろうか。白い部分があって初めて黒いものが引き立つ。余白は、人生の意味ある時間を引き締める。
あるいは、積極的な諦めとも言える。ずっと意義があることをしようとするのは、むなしい。効率を求めすぎると、空回りする。完璧を求める考え方は完璧ではない。だから、初めから余白を設定する。頑張りすぎないように、焦りすぎないように。
広く見渡してみると、この世界には意味がわからないものにあふれている。ふと見上げた時の、空の雲の形。昼寝をしている時に見た夢。夜空に浮かぶ星の配列。それらは、意味がないからといって存在しないわけではない。存在しているからといって自己を主張するわけでもない。ただ私たちのそばに寄り添っている。ただそこにある。
そうした存在は、真っ白な余白のように意味に汚されないままにそこにある。そのような存在に思いを馳せるこの時間も、はっきりとした意味のない余白のような時間だと思う。時間という流れから切り離された淀みのような時間。
時間は過ぎ去るものではない。期限が所々に設定されている時、私たちはそれに間に合わせるように焦ってしまう。しかし、何もしなかった時間は後で取り返すことができるはずだ。するべき時に、自然と物事に取り掛かることもできるはずだ。自分の時間の使い方は、自分で決められる。若い時にたっぷり余白を作って、年老いてから描き足していくやり方もある。あるいは人生の形が見えてきたところで、最後の仕上げとして余白を美しく守っていくというやり方もある。
余白は財産にもなりうる。今まで過ごしてきた真っ白な時間。これからある何を描いてもいい真っ白な時間。それに価値を見出すことができれば、人生の質は間違いなく変わるだろう。質が向上するのではなく、変わる。余白に価値を見出すことは、「意味があることは意味がある」という単純な価値判断から一線を画すことだ。「意味のないことがある」という新しい価値基準に生きることになる。
言葉にできないこと、説明できないこと、理解されないこと、誰も目を留めないこと。世界において取り残されたものたちの声が聞こえてくる。むしろそれらは取り残されたのではなく、私たちを待っているのではないか。はるか後ろから、意味を求め、前進し続ける私たちをずっと見守っていたのではないか。
昼寝でもしようか。何も考えないまま。窓から空を眺めて。
最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!