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ノリで書き上げる技術

書く前に、あれこれ考えるのは質に合わない。

書く前に想像したり、構成を考えたりすると「あっ、別に書かなくてもいいか」と自滅する可能性がある。知らぬ間に散歩に出かけて、綺麗に何を考えたか忘れて帰ってくる。それが怖くて、私は書く前に考えたくない。

まず書き出しの勢い

もう書き出してしまう。自分を追い込むのだ。この時の書き出しの勢いがほとんど命である。文章が次の文章を生み出すようなノリを作り出せたら、しめたものである。そのまま書き上げてしまえばいい。直すのは後からいくらでもできる。最も重要なのは流れとしての文章を作り出してしまうことである。一度書けば、流れが成立する。そうすれば、読み返してどこを強調するべきか、直すべきか、という明確な価値基準を持って文章を添削できる。

さて、書いている途中の状況判断だが、これはほとんど勘である。書きながら身につけていくのが良い。白い画面は生き物のように、日によって質感が違う。大切なのは言葉にできないそうした違いを読むことである。文章の勢いに身を任せて最後まで走り抜くことである。

書いている時の判断は、言語化するのは難しい。今日の白いディスプレイの見えない波にうまく乗れるか乗れないかはほとんど運である。命は文章の出だしの勢いと、文体である。言えることはそれぐらいしかない。

最初は、無謀に切り抜けるような形で書き上げてしまっても構わないと思う。こういう書き方はゆっくりやるほうが難しい。太極拳だって上級者のほうがゆっくりした動きがうまい。論理的にきめ細やかに、書いていくのは慣れていないと難しい。

論理は、文章を進めるのには確かに役に立つ。AだからB、さらにCのようにルールに基づけばどんどん書いていくことができる。しかし、注意しなくてはいけないことがある。まず、AだからAだからAとトートロジーを無限に繰り返してしまうことである。確かに論理的には正しいのだから、書くことはできる。しかし、読む方は幻覚でも見せられているのかと思う。

また、論理による演繹は新しい情報を生んでいるわけではない。ということに注意が必要だ。「1+1=2」という式について「1+1」と「2」は同じ意味である。だから、論理は新しいものの創造ではなく、説明や論証に向いている。クリエイティビティを活かすには、論理だけでは不十分である。

文体のノリ

文体のノリ、というものも書き上げるためには必要になってくる。

詩的な文体はかなり便利で、段落どうしの繋がりをほとんど無視できるワイルドカードである。「行き詰まったら詩」と覚えておけば良い。乱用しすぎて、気がついたら詩を書いていたということもあり得る。それはそれで作品になるのでよい。

文体とは、自分のキャラを決めることだ。内容ではなく、キャラによって書く。これが文体のノリである。例えば、こうきたらこう書く、という基準のようなものがあるだけで次の文章を考える難易度が変わってくる。自分が憧れている人の書き方などを参考にしてもいいだろう。好きな言い回しや、展開の仕方に自分が書きたいことを当てはめればいい。

それはまさに、文章で考えることに他ならない。文体を確立することは考える姿勢を作ることである。自分の文体を持つということは自分の考えを持つことである。

次の文を生み出すことだけに集中する

文頭の勢いと、文体のノリ。どちらも次の文をいかに生み出すか、ということに重きがある。

言い切ってはいけない。単純化してはいけない。わけわからないことでも、躊躇せずに論理に分け入っていけばそれが文章になる。のたうちまわれば、地面に模様ができる。それが文章。

次へ、次へ。一歩進むことができればそれでよい。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!