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書くことがどうしても素晴らしいことには思えない。

書きはじめる前に、準備や考え事をせずにとにかく書き始めてみる。普段何も考えずにやっている、書く前の心構えを解いて、そのまま書き始める。もしかしたら、書きながら書くのにふさわしいようにだんだん心が整ってくるのかもしれない。あるいは、そのまま何も構えないまま書き終えてしまうかもしれない。

と言いつつも、やはり書く前に色々なことをしてしまう。なんとなく部屋を片付けたり、ぼんやりとテレビを見たり、音楽を聞いたり、瞑想をしたり。そうしたことをいくら積み重ねても書くことは楽にならない。書くためには書くしかない。それが、書くことの厳しいところでもあるし、優しいところでもある。どれだけ疲れていても、書いたものは書いたものとして形に残る。

文章の中の言葉と、普段話している言葉は違う。そして、書いている間の時間の流れ方、体の使い方、考え方までも普段とは違う。だから、パソコンを開いたり、ペンを持ったりすると「普段」の境界線から一歩踏み出すような感覚がある。

毎日書いているのに、慣れることがない。書くことは、全く「普段」になってくれない。書くときは日常を忘れないといけない。日常を書くことはあるけれど、書くこと自体は日常ではない。日常が、日常のままであることを認めたくないから書いている節もある。本当に、日常の中を夢中で過ごすなら書いたりする暇はない。起きて、しなくてはならないことをして、食べて、寝る。そこに書くことが入り込む暇はないのではなかろうか。

書くことは、特に役に立つわけではないし、しなくてはならないことではない。だから、日常の機能的で洗練された動きには溶け込めない。書くことよりも、昼寝をする方がよほど役に立つ。たわいない日常とはいうが、日常は生きるために必要なもので、やっぱり必然性をもってそこにある。

だから書くことは贅沢で、余裕をこいていることである。書かなくていいのに、余計なことをしている。だから、書く人にはみな理由がある。あえて書いている。

また、だからこそ書くことは純粋で無私の行為にも昇華していく。役に立たないのに、それでもなぜか書いている。

どうして書くのか、なんて考えはじめるから色々準備をしたくなるのかもしれない。書くことに、理由を見出すために、もっともらしいものを書いたりいいものを書きたいと思うのかもしれない。そのとき、書くことは日常になりたがっているのである。食べることのように、寝ることのように、何も考えずにできてしまうことに変わりたがっているのだ。それでいて、私たちを生かしていくための大切な行為に。

書くことで救われたなんていうけれども、それは本当だろうか。それは、書くことで意味を見出せたという意味的な救いであると思う。食べてお腹が満たされたような、生理的な文句のつけようのない救いとは少し違う。その文脈でもやっぱり書くことはどこか偉大なことになりたがっている。

しかし、書くことの原点に立ち返るなら、どう贔屓目に見ても、書くことはそれで収入を得たりしない限りは、日常の役には立たない。書くことで満足感はあるかもしれないが、どうしてそれを書くことで手に入れなくてはいけないのかが分からない。実用性とか、意味などとは離れたところに書くことの本来の姿がある。それをあたかも書くことは素晴らしいという方向にねじ曲げてしまうのは書くことそのものを見ていない。むしろ、素晴らしいのは「素晴らしい」と思えるその人自身であって、書くことは素晴らしくもなんともない。

書くことについて書いていると、なんだか「書くこと」を肯定したりそのいいことをうまく伝えようとしたりしたくなる。しかし、冷静に考えてみるとやはり、書くことで人生をよくしようとするのはやり方がずれているように思える。書くことは書くことであって、うん、文字をキーボードで打ち込んでいく作業以上のものではない。

そこから裏返していえば、誰だって書くことはできるし、書いたって構わないということだ。素晴らしくある必要もないし、ダメであっても怒る人はいない。ただ書いていれば。だから、書くことはいつでも日常の陰でひっそりと息づいている。ノートとペンさえあれば、日常は通り抜けることができるのである。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!