書き重ねる:2020/11/21

同じことは同じことだろうか?同じことは、この世界に本当にあるのだろうか?同じことの繰り返しは、本当に同じことなのか?

自分で書いてみて、白々しい。毎日こんなことを書いていて、だいたい考えは固まってきた。同じことを繰り返すことはできないし、同じようにやっても前回とは少しづれてしまう。

そのずれにこそ、面白みがある。運動の痕跡が見える。

文章は書いたらそこに留まる「モノ」だけれども、書くことは運動だ。だから、文章を残すけれども、書き続けるためには時間を継続して描き続けなくてはならない。昨日書いたから今日は書かなくていいわけではない。

文章は、時間においてどこに存在するのだろう。今だろうか?過去だろうか?

過去に書かれた文章を読む私たちは、今ここにいる。古い文章、古典などというが、初めて読む人にとっては、新しいかもしれない。文章の古さ、というのは内容の中の時代によって変わるところや、書かれた形式、言葉の古さである。そうではない部分では、常に新しい。言葉が指し示そうとするところや、書かれた事実、筆を走らせた痕跡は今に至るまで変わらない。

平安時代の小説には、今の暮らしでは使わない道具や、儀式について書かれている。書かれた巻物の言葉は、今の私たちの使っているものとは違うものだ。しかし、物語でどのように登場人物が振る舞うかとか、どんな気持ちになったのかというのは、今読んだとしても頭の中で再現できる。

一方、詩のように、昔の言葉遣いの音や形までもを表現の形式として取り入れている場合、ここまでは内容で、ここまでは時代の影響を受けている部分である、というような境界線を引くことはできない。だから、詩は古くなる。それは、どうしても避けられない。言葉が変わっていくから、人の暮らしが変わってゆくからだ。

もし、ある文章がその形式ごと、毎日書き換えられたらどうだろう。

時代によって変わっていくものと同時に、書き換えられてきたら、その間はいつも新しい。そして、内容と形式の結びつきを守ったまま新しくいられる。古典の現代語訳とも違う気がする。

私はそれを実際にやってみたいと思って、同じタイトルの文章を毎日書き続けている。どんなふうに受け取られるかよくわかっていないが、今まで読んだことがないような効果を生み出せるのではないかと期待している。

時代が変わるまで続けるつもりはない。ほんの短い間、私の生活と心情が変化するに合わせて書いてみるだけだ。

文章は一つの意味や正解を持たないで揺れ続けるだろう。昨日書いたものと同じテーマでも内容は違う。

言ってみれば、一つのテーマであっても書き方は一通りではないのだろう。そして、一つの書き方でいうことができるのはほんの少しのことなのだろう。そして、おそらくどこまでも細かく揺さぶろうとすれば揺さぶることができる。その揺れまでも、文章の存在としてつなぎ合わせたい。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!