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自分の意見は自分の意見に過ぎないと思うこと

こうして記事を書くこと自体が、ある意味自分の意見を述べることだ。書き始める前は、そうしたことに無自覚でいて書くことは書くことに過ぎないと思っていた。だから、そこにメッセージ性を含めたり誰かに影響を与えるように書くことはしなくていいと考えていた。その方が気軽だし、よく書けるのではないかと思った。

しかし、何も書かないことは初めから不可能で、書いたら何か影響が出る。その影響とは、直接目に見えないが、文章として成り立つためには何かを前提としなくてはならない。誰かにわかるように書くことは、誰かにとってわかりづらい。自分が書きやすいように書くことは、必ずしもそれを読む人にとっては読みやすいとは限らない。そして、何かを述べてしまっているのだから、それを読んでいい意味を受け取る人と同じぐらい、否定的な意味を受け取る人もいるだろう。

どんなに中立を装っても、自分の立場から抜け出ることはできない。それが、文章である限りは特にそうだろう。中立であろうとする努力は立派なものだと思うが、それで自分が完璧に中立になれると思うことは危険である。

だから、自分の書いた文章がこの世界になんの影響もないとか、無害だから好き勝手やってもいいとか考えてしまうと、それだけで書き手と、文章の主張していることが矛盾を起こす。

ある意味、書き手は開き直らなくてはならない時がある。自分の書いていることは、余計でもしかすると誰かにとっては迷惑かもしれない。誰かが読んで気に入ってくれるかもしれないが、誰にとっても気にいるものはどうやっても作れない。しかし、それでも書いてしまう。自分の書くものがはらむ加害性のようなもの、暴力性のようなものを自覚しつつも、それでも書いてしまう。その矛盾を抱えて、それでも書いてしまう。

私はその時、自分の意見がなるべく薄まっていくことを願う。自分の意見が、自分の意見に過ぎず、自分の他にたくさんの人の意見が、たくさんの考え方があることを願う。みんなでやれば怖くない、ということでは無い。矛盾を孕みながらも、それでも書かれた文章がたくさんあれば、私の書いたものが持つ業のようなものが薄まっていくのではないかと考えているからである。それで、暴力性がなくなることはないとしても、私以外の文章が読まれていくことで多くの人が私の文章に余計な影響を与えられることはなくなるのではないか。

初めから正しい意見などない。ないのだから、もっと正しくなくなればいいと思う。もっと言えば、馬鹿げたものになればいいと思う。自分が思いを込めて書いた文章を、誰かに笑い飛ばしてもらいたい。それが孕む矛盾ごと、吹き飛ばすように朗らかに笑い飛ばしてもらいたい。そうしたら、誰も誤解することも傷つくこともないのに、と思う。誰かの文章を読んで、過剰に感動することはない。読んでくれる人は、読んでくれる人のまま、私の文章に接することができるだろう。その笑いが、書くことの思いつめた矛盾を浄化してくれるのではないか。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!