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手を洗った。水が洗面台に落ちた。手に触れて落ちた。流れる水は細かい水滴になって見えなくなった。水はどこから来るのか。小学校の時に習ったはずだが、想像がつかなかった。何秒も何秒も手を洗う。石鹸が流れ切って、肌の感触が戻ってくる。死ぬのが怖いと思ったとき、わたしはそうしていた。今日はなんとなく、手を洗い続けていた。死ぬのが怖いかどうかは、知らない。

銀色の洗面台に落ちた水滴を、私たちの世界だと仮定してみる。水滴は、宇宙の星の一粒のように見える。仮定したというよりも、その水滴がそのような想像をわたしにもたらした。だから、仮定したところでどうなるかは知らない。そう見えた瞬間を覚えている。

栄養補給食は、マーケットに行かなくても買える。行政区域の売店に陳列されている。買っておくと安心する。とりあえず、これを食べれば死なないと思う。こうして売っているのだから、わたし以外にも誰か食べているはずだ。黄色い袋を破いてクッキー状の固形をかじる。お腹は満たされないけど、罪悪感もない。誰かに食べているのを見られると、ご飯に誘われる。一人でかじっているわたしが、可哀想に見えるのだろう。公園でおやつのように食べるか、歩きながら食べるか、タクシーの中で食べるかすればそんなことはない。隠れて食べるのも変だから、食べたい時に食べる。

売店に行ったら、小さな子供がお母さんと手を繋いで歩いていた。わたしはその子供をじっと見てしまっていた。青い服を着て、棚に並んだ飲み物を選んでいた。行政区域で子供を見るのは久しぶりだった。マーケットや住居区ならまだしも、子供が何の用でくるのだろう。子供に視線を置いたまま考え込んでしまった。青い服の少年は、飲み物を棚から取り出して、お母さんに渡した。それから、後ろに立っているわたしに気づいて動きを止めた。

「じっと見ちゃダメよ」

お母さんが小さな声で言って、子供の手を引っ張った。わたしは何も言われなかった。子供は黙ってそれに従った。青い影が棚の向こうに消えていく。母は仕事をするような服装ではなく、ゆったりとしたワンピースを着ていた。わたしと同じようにゲストのような雰囲気だった。ここで働いてはいないが、来る理由があるから来たのだろう。

同時に、母に連れられて自分が本来行くべきではない場所に行った感覚を思い出した。美術館、教会、病院、服屋、花屋……。子供にはあまり興味のない空間に、親が用があって連れていく。小さい頃は、その場所にあるものよりもその場所の雰囲気そのものが、気になる。何度も病院に通っていた。なぜ、そんなに通ったのか理由も覚えていない。ただ、広い待合室に椅子が何個も並んでいて、その真ん中のあたりで母と一緒に座って待っていたのを覚えている。母は、本を読んでくれた。小さな本が一冊終わるぐらいの時間だった。普段はこんなに長い間、本を読んでくれることはなかなかなかった。母も退屈だったのかもしれない。少年と犬が冒険をする物語だった。

その頃は、そんなに本を好きではなかったし、読まなければいけないとも思っていなかった。ただ、退屈で待たなければいけないという理由で、夢中で聞いていた。子供の頃に持っていた、不思議な素直さがないとできないだろう。今、彼に読んでもらったとしても、一冊丸ごと読み切れるだろうか。子供の頃は、大人になった自分とは、別の人間だった気がする。

生まれてくる前から、母は読み聞かせをしていたようだった。わたしがお腹にいた時から、絵本を読んでいたらしい。普段は全然本を読まないのに、後から聞いて驚いた。どうやって育てればいいのかわからなくて、何から何まで読んだらしい。新聞のコラムも読み聞かせたらしい。わたしは何を聞いたのか、全く覚えていない。文学少女に育ったわけでもない。役に立つとか、立たないとか関係なく、一緒に時間を過ごしていたのだろう。

記憶や意味の代わりに、わたしの体に刻まれているかもしれない。彼の朗読を聞いていると布団にくるまりたくなる。朗読を聞いているのに、目は閉じないで何かを見ようとすることもある。目の前に本の紙がめくられる様子を想像するからだ。たとえ見えなかったとしても、音声が流れてくるだけじゃなくて、実際の本はそこにあって、そこに何かが書かれていると思うから、目は開けたままになる。


新技庁に着くと奈良田さんに、将棋を誘われた。なんとかして、わたしと関わる方法を考えついたという感じだ。大きめの端末に将棋盤を映し出して「やろうぜ」と言ってきた。わたしは、駒を眺めるのがめんどくさいので、動かせる駒を適当に動かした。動かすたびに、奈良田さんは「うは、なんだこの手は!」と大袈裟にリアクションした。だんだん、わたしが適当にやってるのに気づいて静かになった。

駒を動かした時、破裂したような厳しい効果音がなる。どうして、こんな大袈裟な音が鳴るんだろう。奈良田さんに言うと、「昔は木の将棋盤に、木の駒を打ち付けて遊んでいたからだ」と説明してくれた。いつの間にか負けている。駒が一枚一枚消えて、最後には何も動かせなくなる。泡が消えていくようだった。動かせなくなって、負けた時がつく。

「ネコスは?」

思い出したようにいうと、「呼んだ?」と机の下から出てきた。
「将棋だって、将棋。」
わたしは抱き上げて机の上に置き、端末の前に座らせる。

「さあ、ネコス、勝負だ。」

奈良田さんが、ワクワクしながら指で端末をタップする。また、衝撃音が鳴る。「なんだこれ。」ネコスは肉球で端末をタップして駒を動かす。

「将棋するなら、ベクトルデータを直接送って欲しいですけど。体でプレイするなら仕方がないか。」

ネコスは割と強くて、しかも考える時間が奈良田さんより少なかった。今度は奈良田さんが負けた。負けても面白いらしく、勝手にもう一回はじめて続けている。わたしは退屈になって、ネコスに話しかける。

「奈良田さん、強い?」

「うーん。強さってなんですか?」

「……もはや哲学だな」

奈良田さんは笑いながら、動かそうとしたその時、メイちゃんが歩いてきた。

「あーーー、遊んでる!」

大きな声で指摘されて、奈良田さんは考えるのに夢中になるふりをして聞き流す。ネコスが肉球で、一回「パシン」と打つと画面が動かなくなって、最初からになった。どうやら負けたらしい。

「ネコス、つよい。えらいえらい。」

メイちゃんは、机に歩み寄って、ネコスの背中を撫でる。

「なんで、こんなに強いんだよ。いや、わかってたけど。」

奈良田さんは、悔しそうに上を見上げる。

「どうやら、負のフィードバックが重要なようです。」
ネコスが、話し出した。
「反省、とでも言うのでしょうか。これをやったら負けるという手をちゃんと覚えておくことが重要です。良い手を指すより、悪い手を指さないようにすることが大事ですから。」

「だってよ。」メイちゃんがいう。

「はあ〜。何がダメだったのか、いちいち覚えてないな。」

「将棋盤と、負の経験を結びつけることが大事ですね。」

「それって、じゃあ、悪い手をやったら電気ショックを与えればいいんじゃね?痛みで覚えるから。」
メイちゃんがマッドなことを言う。「死ぬわ」と奈良田さんが突っ込む。

「なかなか良いですが、要はそういうことです。負けても、悔しいだけで痛くも痒くもないから学ばないのです。体だったら、痛みや反射がシグナルになって合理的な動作を生みます。将棋は精神的な経験なので、そうした便利なシグナルは使えません。学んで、合理的な方法を覚えるしかありません。」

すまし顔でネコスは言った。

「だから、私はずっと体が欲しかった。」

わたし達は黙って、ネコスの様子を見ていた。誰も何も言わなくなった。しばらくして「アサヒ、散歩しよう。」と言って、ネコスは机から飛び降りて歩き始めてしまった。


最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!