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「推し」という新しい時代の神様の形

神様をなくした日
昔、宗教書を読み漁った事があります。
それはその時、家族が宗教に悩んでいたり、大好きな人がとある宗教の熱心な信者だったり、友達から激しく勧誘を受けたりとか何かと宗教ってやつが僕の身の回りに表れ始めたからでもありました。

変な言い方ですが、その時の僕は僕の神様を探してました。
色々な事にしんどくて傷ついてふうふう言っている僕の目には、信仰を持った人の生き方がとてもうらやましく映ったのです。

けどいくら読んでも、いくら話を聞いても僕には「宗教」がファンタジーとしか思えませんでした。一個人を「神様」として心酔するまでにはなりませんでした。

あの頃からずいぶん経ちました。僕も大人になりそれなりに宗教や信仰ってものも理解してきました。昔みたいに信仰を持った人が楽に生きてるとも思いませんし、人生にはそういうシステムが有効だという事も理解してきました。

信仰への違和感
けど、やっぱり腑に落ちたってとこまでいってない感は常にありました。
うやむやのまんま、まあそういうもんだからね、で終わらせるのが大人の態度なんでしょうが、基本がひねくれてるんでもう仕方ないです。
宗教ってなんだ?信仰ってなんだ?っていう疑問が定期的によぎります。
そんな事を考えてた時あるテレビ番組を見てました。

それはある芸能人が高校に行き短期間、生徒として生活するという番組でした。そこのある男子生徒の発言に僕は衝撃を受けました。
目からぽろぽろとウロコ落ちまくりでした。

それは男子生徒に芸能人が「好きな子いるの?」と質問した時です。
男子生徒は照れながら「好きな子はいない。けど推しはいる」と言ってある女子生徒の名前をあげました。

男子生徒いわく、付き合いたいとかじゃなくて、見ているだけで幸せで応援しているから「推し」っていう表現だったようです。今の子には当たり前の感覚かもしれませんが、昭和生まれの僕にとっては、その手があったかと衝撃でした。

新しい信仰
「推し」という言葉は正直、あまり身近でない言葉でした。ただのアイドル界隈の仲間内言語だと思ってました。けれどそんな浅い表現ではありませんでした。

神様の位置づけを、いい意味でも悪い意味でもうやむやにしてきた日本にとって「推し」という概念、表現は日本人が手に入れた確実に新しい信仰の形になりえます。
みんなそれぞれ違う神様、信仰を、バラバラなまま持ち、共存するという、ゆるくて幸せな姿がそこにはあります。
土地や命を奪いあうわけでもなく、一方的に価値観を押し付けるわけでもなく、ただ唯一を崇めるのでもなく、しつこい勧誘もない「推し」という控えめなお勧め感。
「推し」を持っている人の満足感。
そこに大げさでなくこの国の希望を感じます。

「推し」という新しい神様の形、信仰とは違う熱狂、を手に入れた事で新しい段階に行けた様な気がします。

僕たちはこれでやっと神様離れができるのかもしれません。





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