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「感情の整理をつけてから、解決に臨む」という知恵

何年も前だが、友人と仕事関係の悩みをシェアしていたとき、問題となっている職場の女性が写り込んでいる写真を見せてくれて、「この人のこの薄毛のかんじ、東洋医学的な観点から、常に怒りの感情にとらわれてるってこと」みたいな説明をしてくれた。

他人事とは思えなかった。私も怒りというか、鬱憤というか、義憤というか、私憤というか、言われたことや、ちょっとモヤモヤしたことを引きずりやすい、もっと言うなら忘れられないからだ。(そして私もかの女性と同じような感じで薄毛の部分がある)

モヤモヤしたことを引きずりつづける言い訳として、義憤、正義感みたいなやつを用いることもある。

言い訳の応酬、ずーーっと頭の中で会話が続いて、終わることがない。リフレッシュのために外に出たり、お風呂に入っても、血行が良くなって逆に脳内会議のボルテージが上がる。

自分に発達障害の可能性が生まれた時(心療内科にテストを受けに行った)、今まで「やなことは忘れてしまおう」「頭の中の声を止めよう」と思ってしてた全ての努力、努力できない自分、努力してもできない自分に延々と投げかけてきた責めをやめた。私の脳は簡単に忘れるようにできてないうえに、勝手におしゃべりするようにできているなら、おしゃべりは止めないで、おしゃべりする内容を、自分にとって止める必要がない、楽しい気分にさせてくれることに変えようとおもった。

今は、自分の力ですぐに解決できない、どうしようも無い感情に取り込まれそうになったら、作品作りの世界に逃げていくことにしている。怒りを作品で代弁させるというよりは、完全に違う世界に飛んでいって、違う方法で、個人的な勝利が掴めるとしたらどういう道筋になるだろう?と考えているうちに、思考の回路が変わって、作品作りに没頭しているうちに、少なくとも時間は過ぎていく。怒りが降り積もって、誰かを傷つけたかもしれない瞬間を、時間の電車に乗って通り過ぎる。

手元には、私が心を注ぎ出した作品が残る。自分だったら怒りに負けていたかもしれないできごとに、勝利していく話を読み返すと、「私の中にはこの道筋を描けるだけの光がある」と安心することができる。

そういう解決方法に行き着く前、私はちょっとした事で傷ついたり、何かを奪われているような気持ちになるので、世界にはそんなに人を傷つけたがっている人が多く、傷つく事を容認している人も多いのかと思っていた。

だから、傷つけられたら、傷つけ返していい、という事だと思っていた。

しかし、人を傷つけるような事をする人は、本当に、自分が何をしているのか、どれほどのことをしているのか、わかっていないのかもしれないって、今は思う。知性を自負する人は、追いきれるだけの罪を、調整して、おかしているつもりでいて、どんな小さな罪でも、追い切れるものではないんじゃないかと。

だから、傷つけられる関係からは、遠ざかるというか、逃げるという選択肢は重要なんだろうなと感じている。

作品を作りつづける生活になって、点だったものが線になり、面になり、作品世界という形で自分の城が建ち上がっていくにつれ、自分の作品を好きだと感じる。自分のギャグに笑うし、キャラが苦しんでいると、なんとかせな、と必死になる。キャラの優しさに心を打たれて涙ぐむ。さらに、自分の物語は創作だけど、ある種の真実味があると本当に信じていたりもする。

自分の作品が、好きだ、好きだ、大好きだ😆🌟

これを読まれるあなたは、自分の作品が好きですか?

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