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映画「ジョーカー」のアーサーは、本当はコメディアンなんかになりたくなかった

はじめてnoteに投稿します。映画『ジョーカー』について感じたことを忘れないうちに記録しておこうと拙いながら書いてみました。
普段からマーベル映画やアメコミは全然観ません。なので、今作はアメコミやバットマンシリーズとしてどうなのよっていう観点とかジョーカーに共感できるかとかには触れません。どこまでが現実でどこから妄想なのか系の考察もすでに沢山レビューがあるので、一旦書いたのですが全部消しました。
以下ネタバレです。

■考察めいたこと

前提として、映画『ジョーカー』は観客に対して終始「この映画は一本のありふれたコメディ映画です」と訴えているように思う。映画冒頭はテレビ番組のイントロから始まる。
封切り直後の観客に埋まった席で、箱詰めの映画館のスクリーンは丸ごと70年代のテレビ番組を放映する装置へと化ける。この映画は、徹底的に観客に観客(客観/スクリーンを見つめる者)であることを求める。 

―チャップリンを観ている側であること。有名司会者を売りにしているテレビショーを毎週心待ちにしている労働者であること。自分たちが暮らす街が日々ゴミや不誠実な政治家によって悪臭を放っている様子を、家に帰って再放送するのだ。切り取られた一コマを眺めて「酷いな」とビール片手に眉をしかめる。日中、仕事に行く途中の道端で目にしたであろう困っている誰かには目もくれないで。(困っている誰かの主観なんて誰にも見えない。私たちは自分の主観による悲劇で精一杯だから、ドラマも映画も時にはニュースでさえも、ロングショットの位置からしか見られない)

最終的に、私たちが観ていたものがアーサーという男性の悲劇的な人生の一編であることは間違いないのだが、皮肉なことに作り手からはこの悲劇的内容の映画を、コメディ映画として観客に捉えてほしいという意図をビシビシと感じる。映画のラストは特に恣意的で、マレーのショーが終わる際に流れていた『That's life』が神懸かったタイミングでかかり、ドタバタコメディタッチでジ・エンドとなる。

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”人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ” (チャールズ・チャップリン)

これは『ジョーカー』のパンフレットに記載されていた引用の引用なのだが、作中にトーマス・ウェイン含む上流階級の者たちがシアターにて『モダンタイムス』のチャップリンを観て和やかに笑っているシーンがある。ちょっと下品なほどにストレートな皮肉中の皮肉である。
丸ごと、鑑賞の対象であるアーサーと私たち観客の構造を揶揄しており、それはマレーのテレビショーが始まるシーンでも同じく、立体的な音響や構図の作り(ショーの視聴者席と我々が座っている映画館の座席を混合する見せ方)によって見事に臨場感溢れるオーディエンスとして再構築されていた。そういう点でこの映画はなるべく劇場で観た方が良いと思うし、周りに座る人が多いほど生々しい。

喜劇王チャップリンの映画において、次々に沸き起こるアクシデントと不幸のど真ん中でドタバタしている彼を観れば、私たち観客は彼が劇中でどんなに貧しい身分の役設定(その日暮らしの労働者やホームレスなど)であることを分かっている上でも大いに笑ってしまう。
実際、チャップリンは貧しかった。母親も精神疾患を患って施設に収容されている。1901年、まだチャップリンが極貧生活を余儀なくされていた時期に父親はアルコール依存症で亡くなった。

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チャップリンの身の上話はさておき、トーマス・ウェインたち上流階級の人々が見ているチャップリンはまさしくロングショットで撮られた喜劇の人物なのだ。喜劇の映画だから、チャップリンが穴に落ちようと過酷な労働現場で工場のレーンに吸い込まれようと、観客は安心して大笑いする。真面目に働いて酷い目に合って、解雇される―といったチャップリンの主体的に味わう「悲劇」は観る側によって笑いへと変化する。

長々しく主観と客観、悲劇と喜劇の表裏について分かりきったことを書き散らしたが、全てはマレーのショーに招かれたアーサーが、3人の証券マンを殺したことを告白する際の
「世の中は主観がすべてであって、笑えるか笑えないかは自分(主観)で決める」「主観で見ればみんな喜劇だ」
という台詞に繋がると思う。

アーサーとチャップリンの決定的な違いは何か。当たり前だがチャップリンはコメディの世界、喜劇において圧倒的な天才であり成功者だ。彼によれば笑いは自由自在であり、笑って欲しいと意図して観客に大ウケする。

アーサーは、笑いが不自由である。彼自身に障害があり笑いたくないときに笑ってしまう。悲しかったり怒りを覚えたときに、涙が出るような反射的な感覚で笑いが出てしまう。おまけに皆が笑うネタについては何が面白いのかが分からない。社会とのズレが笑いのズレにまで及んでいる。
個人的に本当に悲しいなと感じたのが、アーサーが精一杯周りと笑いの周波数を合わせようとしているところだ。お笑いの講演会(?)で周囲の人と笑うタイミングがことごとく合わないので、最終的に皆に合わせて空笑いする。
あの瞬間のフォアキン・フェニックスの表情に泣けてくる。どんな人でも生きていればああいうタイミングがあるし分かると思う。

一番残酷だと思うのは、アーサーが偽りの笑いを浮かべるとき、皆が笑っているネタはジェントルじゃないのだ。性的に女性軽視を伺わせる安易な下ネタとか、小人症の同僚をからかった内容とか。笑い飛ばすことが当たり前・お約束のような空気とスピード感の中で、笑いはアーサーだけを置いてきぼりにして救わない。しかし映画的にはそういうところでアーサーが元々持つ精神性の繊細さのようなものが光る。私は、アーサーが彼の部屋とか公衆トイレの鏡の前とかで一人で孤独と向き合ってよく分からない動きでゆらゆらしているシーンが死ぬほど美しく見える。今これを書きながら分かったが、この映画が好きな一番の理由はそれなんだと思う。

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アーサーは本当にコメディアンになることが夢だったのだろうか?コメディアンになるというより、マレー・フランクリンのショーに招かれマレーに認めて欲しかったのではないだろうか。(『キング・オブ・コメディ』の自称コメディアンの主人公は目的が先行しすぎて犯罪を犯す。)

「母はいつも言っています。あなたのハッピーな笑顔が皆を幸せにするって」
病気の母親を一人で看る自分の苦労をねぎらい、拍手が起こる。
笑う観客に「笑うことじゃない」と諌めたマレーは目に涙を浮かべている。夢のような妄想の中で、アーサーはマレーに一番欲しかった言葉を貰う。「君が息子だったら、カメラも照明も観客も捨てる」―最高に嘘くさいが、TV司会者のトップスターがこれを言うことに意味があるのだ。次のカットでアーサーのハッピーどころか妄執的でにちゃっとした笑顔のアップに切り替わる。

アーサーにとっての究極の夢とはコメディアンとしてショーに出演したいというより、自分の為にテレビの世界から抜け出したマレーに父親としてハグしてもらうことであった。皮肉なことにそれはコメディアンになってテレビに出ることとは構造的に間逆なのだ。
毎日ブラウン管の向こうに映るマレーに、まだ見ぬ父親の像を重ねて母親と一緒に観て偽りの家族団欒に癒されていたのではないだろうか。
アーサーは誰にも笑われたくない。特にマレーにだけは。だけどアーサー自身それに気づいていない。

母親が呼ぶ愛称「ハッピー」、"My mother always tells me to smile and put on a happy face" もはや呪いの文字列である。人々に笑いを届けることが使命だと思い込んでいるのも母親の言葉からだろう。笑いを届けることでお金を稼ぎ、自分の存在価値も認められる。恋人だって出来る。劇中歌『SMILE』を作曲したチャップリンのように、笑いを自由に操ることが出来れば。

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結局、全ての取り返しがつかなくなったアーサーを笑い者にする為にマレーは自分のショーに彼を呼ぶのだった。当初はショーの生放送中に拳銃自殺による華麗なる幕引きを企てていたアーサーが、なぜマレーを撃ち殺すことになったのか。どのタイミングでアーサーの気が変わったのか。鑑賞3回目で何となく分かった気がした。自作のジョークを書いたネタ帳を取り出してそれを読むところまでは同じである。
「ノックノック」
「はいどなた?」

「警察です。奥さん、あなたの息子さんは酔っ払いの車に轢き殺されました」
勿論何も面白くないし、品のある番組に相応しくないとしてマレーはこのジョークに「ノーノー、そのジョークは笑えない」とダメ出しする。多分ここが分岐点だったのではないかと今のところは思っている。

アーサーの毎日は悪夢のように酷いことばかりの連続だったが、テレビで取り上げられていた自分の姿とそれに「全く笑えない」とコメントをしてバカウケを取っているスタジオの様子、アーサーはそれを病室の小さなテレビ画面を通し主観で見て喜劇だと理解したのだ。おまけにマレーは自分に”JOKER”と名前まで付けてくれた。名付けの父親である。

どんなジョークなら笑えるのか?スタジオの外に出たことはあるのか?笑えないジョークで溢れている。それを笑うか笑わないかは自分が決める。

―ちなみに街中に溢れたゴミ問題を鉄板の滑らないネタにしていたあんたが笑い者にしたのは、病気で孤独な社会不適合者としてゴミのように扱われた男だよ―なりふり構わないようなフォアキンの演技からも説得力が加速していく。堰を切ったように、どんな酷い輩に対しても恨み言を言わなかったアーサーが他でもないマレーを目の前にして愚直な言葉が止まらない。マレーはあらゆる角度から自分の人生を変えた人物なのだ。

”You're awful Murray” に全てが集約されているように思える。

相手がマレーじゃなければ爆発しなかったであろう感情を訴えているうちに自分の頭を打ち抜くタイミングを失ったようにも思えるし、自分にとって一番笑われたくなかった相手を消すことで、やっとアーサーは完璧な意味の”JOKER”になれたのかも知れない。

”YOU'LL GET WHAT YOU FUCKING DESERVE!!”  

毎日使いたい良い言葉である。


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■個人的な全体の感想

・冗談抜きでアーサーはコメディアンではなくダンサーを目指していればよかったと思う。

・お母さんとダンスを踊るシーンが一番好き。哀しいにもほどがある。

・フォアキン・フェニックスの動きがいちいち色っぽい!スーツの色合いがオンリーワンという感じで(?)格好良い。

・自分の中では『素敵な笑顔だ T.W』が真実だと思っている。ブルースの父親を悪者にしたくない原作ファンの気持ちも分かるけど、権力があれば証拠書類だっていくらでも捏造できると思う。