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日本代表がスペインに勝利できた陰の、そして真の立役者

文脈くん

日本は強い強いと言われながらなかなか世界(ヨーロッパ・南米)の強豪国に勝てなかった。その理由はさんざんいわれ尽くしてきたのだが、やはり「文化の差」が大きかった。

どんな文化かというと「マリーシア」だ。

日本にはマリーシアがなかった。逆に、ヨーロッパ(南米)のサッカーにはそれがある。いや、むしろ「溢れ」ていた。

その差が大きかった。その差は「文化の差」なので、どれほど日本のサッカー技術が向上しようとも、少しも埋まることはなかった。

ところが、その「マリーシア」がここに来て、いきなり、全く意味をなさなくなったのだ。ヨーロッパが(そして南米が)数千年をかけて築き上げてきたその文化が、たった一つのテクノロジーによって全く無効化されてしまったのである。

そのテクノロジーこそ、賢明な読者諸氏ならもうお気づきであろう「VAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)」である。ぼくの記憶が確かならば、VARはアメリカで生まれた。もともとアメフトであまりにも判定が際どくなることと、その際の審判のジャッジがあまりにも試合結果を(あるいは選手の運命をも)決定づけることの理不尽さから、合理性を重んじるアメリカの国民性(文化!)が、ビデオ判定の導入を押し進めたのである。

そしてこれは、瞬く間に受け入れられた。受け入れられた最も大きな理由は、ビデオ判定によって選手のプレーが劇的に進化したことだ。これまでは、誤審を恐れてためらっていた際どいプレーも、遠慮なくできるようになったのである。おかげで、それ以降のアメフトではサーカス的なプレーが激増し、人気がさらに盛り上がった。

そうしてこれは、すぐさま大リーグにも移植され、大きな成功を収めた。このアメリカ2大スポーツでのビデオ判定導入成功の現実を目の当たりにし、とうとうサッカーでも取り入れざるを得なくなったのだ。

すると、これが予想もしていなかった事態を巻き起こす。それこそが、先述した「マリーシア」の無効化である。いや、「粉砕」といっていい。VARは、マリーシアという文化を叩き壊したのだ。

では、なぜマリーシアは粉砕されたのか? その前に、ここで「マリーシア」について、少し詳しく補足説明をしておく。そもそも、人間の脳は「予測」をするために発達した。五感も、予測をするための器官として進化している。だから、そこには重大なバグがある。人間の五感は、予測を重視するあまり、現実を現実として受け取れないのだ。

その最も象徴的な事例が、「錯視」である。人は、動いていない絵を見て、動いているように感じる。それは、脳が勝手に未来を予測するため、止まっていても動いているように見えてしまうからだ。

この技術は、手品にも応用される。あるいは、本来は静止画の連続にしか過ぎない映画(パラパラ漫画)が動いて見えるのも、このおかげである。そんなふうに、人間の脳は普通に「バグ」っているのだ。

サッカーのマリーシアも、このバグを利用したものだ。例えば、相手DFがチェックに入ろうとしたその瞬間、アタッカーが絶妙なタイミングでジャンプすれば、審判は「触れた」と錯覚し、ファールの判定を取る。そうして、一端下った判定はけっして覆らない。そういうルールが長く続いたからこそ、ヨーロッパ(南米)では当たり前のようにマリーシアが正統進化した。それは、これまでのサッカーでは、ルールの範囲内で行われる正統な「技術」だった。

ところが、これはとうとう最後まで日本に導入されなかった。なぜなら、日本にはやはり数千年をかけて、このマリーシアを「よしとしない文化」があったからだ。いやむしろ、マリーシアを「卑怯」ととらえ毛嫌いする文化があった。そうしてそれは、数千年かけて培ってきた文化だから、直そうと思ってもそう簡単に直せるものではなかった。そのため、たかだかサッカー100年ほどの歴史では、どう頑張っても身につけることができなかったのだ。

ところが、ここに来てアメリカ発祥のビデオ判定が、とうとうサッカーにまで浸食してきた。そうして、これまでヨーロッパ(南米)が営々と築き上げてきたマリーシアの技術を、一瞬で無効化してしまったのだ。

それが、日本がスペインに勝てた陰の、そして真の立役者である。その「マリーシアの粉砕」ともいえる瞬間がまさに現れたのは、言わずと知れた後半6分、三笘薫が、あのゴールラインを越えたかに見えたボールを折り返した瞬間だった。

ここで注目すべきは、三苫でも、またゴールを決めた田中碧でもない。スペインDFダニ カルバハルと、MFロドリの動きである。彼らの動きが、まさにマリーシアだった。それがVARによって粉砕されたため、日本は勝てたのだ。

どういうことかというと、2人とも、三苫が折り返すその直前に、まだ笛が吹かれていないにもかかわらず、動きを緩めている。プレーを止めているのだ。これは、日本の文化では絶対に許されないことだが、スペインの、そしてヨーロッパや南米のサッカーでは、逆に「推奨」されることだ。

なぜなら、サッカーの審判というものは、必ずしもボールだけを見ているわけではないからだ。当然のように、選手の動きも目に入ってくる。そして、DFの選手がこの場面で動きを揺るめたなら、「ああ、きっとゴールラインを割ったからだな」という予断はどうしても生まれてしまう。そういう「錯視」が生まれてしまうのだ。

それで、通常ならあの場面での審判は、どうしたって「ゴールラインを割った」としか判定できなくなるのである。つまりこの場面、スペインDFの2人は、ミスや怠慢から動きを緩めたのではなく、審判の錯視を誘うために、わざと動きを緩めたのだ。それこそが、マリーシアの真の力だった。それがヨーロッパ(南米)サッカーの底力で、日本が絶対に適わない文化の差だった。

ところが、その文化がVARによって無効化された。いやむしろ「足を引っ張った」といってもいいだろう。なぜなら、あの場面でDF2人が動きを緩めたことで、逆に三苫が折り返すのためのコースを生まれ、田中が入り込むスペースがぽっかりと空いてしまった。そうして、逆転のゴールを許すことになったのだ。

2人のDFにとって悲劇だったのは、VARはまだ「アマチュアには導入されていない」ということだ。そのためスペインで育ったサッカー選手は、マリーシアがまだまだ息づく場所で、その重要な幼少期を過ごしている。そこで根本のサッカー技術を培ってきた。

その「はしご」を、プロになった途端に下ろされたのである。だから、そう簡単にはマリーシアを捨てられない。それは、身体の芯にまで染み入っている。だから、この場面だって彼らも、機械であるVAR相手にマリーシアをすることの合理性はないと、頭では分かっている。それでも、身体がついていかないのだ。つい出てしまったのである。

ただしそれは、同じヨーロッパ(南米)同士の戦いであるリーグ戦なら、それほどの瑕疵にはならない。相手もやはり、ついマリーシアをしてしまうからだ。その意味で、条件は同じである。
ところが、ワールドカップという舞台で、なにしろマリーシアが絶無の日本という文化と戦うとなると、とたんに巨大なハンディとなってしまうのだ。

それが、日本代表がスペインに勝利できた、陰の、そして本当の理由なのだ。


ところで、サッカーも、広い意味では「ゲーム」である。ぼくの本職は、「ゲームの研究」でもある。

その観点から——つまりゲームという観点から見ると、VARの導入は、まさに「ゲームチェンジ」そのもので、ぼくにとってはぞくぞくさせられる「歴史」のモーメントだ。


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