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差別をめぐる文脈が水面下で新しい局面を迎えつつある

今年に入って差別をめぐる議論が喧しい。コロナの影響もあって、アメリカでBLMが盛り上がった。さらに日本でも大西つねき氏の「命の選別」発言に端を発し、障害者差別が議論された。続けてALS患者の安楽死事件が起こり、尊厳死の是非も議論されている。

ここで目立つのは、いずれもいわゆる「リベラル左派」の言説が陳腐化しているということだ。なぜならリベラル左派は「厳密な差別禁止」を求めているが、それがそもそも無理な上に、矛盾してもいるからだ。その矛盾が、ここに来て許容できないくらい大きくなっている。

リベラル左派は、「差別はいけない」と言いながら、自身は「差別する人を差別」している。この矛盾を突かれると、「寛容のパラドックス」という考え方を持ち出して「無限の寛容さは必要ない」と主張する。

しかしながら、寛容のパラドックスはまさに「パラドックス」という語が示す通りに矛盾であり、矛盾でないことを説明してはいない。だから、矛盾を正したことにはならないのだが、しかし彼ら自身はその不都合に目をつむってことに当たってきた。

それが今までは許されていたのだけれど、コロナの圧倒的な禍を前にもう通用しなくなった。そのため、これからはリベラル左派の詭弁に取って代わり、もっと骨太で本質的な社会規範が求められるようになるだろう。

では、その骨太で本質的な社会規範とは何か?

それは、人々に差別に対するより哲学的な思索が求められる——ということだ。より深い理解を求められる、ということである。

例えば、ALSという病気をどのようにとらえるか——といったことをもう少し議論する必要が出てくる。そこでタブーを排して忌憚なく話し合い、より深い合意を形成する必要がある。

ここで、少し恐ろしいことを書く。何かというと、ALSのことを議論しようとするときに、我々はこの病気のことをほとんど知らないということだ。そして知ったら、もしかしたら考え方が変わるかもしれない、ということだ。

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