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あなたが生きている今日は。

世界中にさだめられた
どんな記念日なんかより
あなたが生きている今日は
どんなに素晴らしいだろう

世界中に建てられてる
どんな記念碑なんかより
あなたが生きている今日は
どんなに意味があるだろう

(THE BLUE HEARTS『TRAIN TRAIN』より)

ブルーハーツをはじめて聴いたのは、中学生ぐらいの頃だったろうか。
いま思うと、大抵の自己啓発本に書いてあることは、みんな先にブルーハーツが言っていた。

あなたが生きている今日は、どんなに意味があるだろう。

それは紛うことなき真実のはずなのに、どういうわけか僕たちはすぐにそのことを忘れる。

なんてことのない毎日が積み重なった、なんてことのない私は、他に誰にも再現不可能で、他の誰にも理解不能なのだ。たった一度きりの、そのとき限りの自分なのだ。めちゃくちゃすごいのだ。

そのすごさは、他人のほうがよっぽどわかる。
「え?それのなにがすごいの」ということがすごい。
自分の当たり前は、他の人にはないことだからだ。

それを称え合うことが、多様性なんじゃないかと僕は思う。

でも「あなたが生きている今日は、どんなに意味があるだろう」というのは、もっと凄まじい意味をはらんでいるようにも思える。

この記事の中に、こんな発言がある。

「悪人とされているあの人へのインタビューを
 徹底的にやったらどうなるだろう」
とは、みんなちょっとは思うことです。

ただ、それを思うよりも
「あれだけのことをしたやつは、
 なぶり殺しになればいい」
というほうが、考えが、
きれいなかたちに収まるんです。

そういう「きれいに整えられた答え」が流通していることで、
私ならではの感じかたの「ゆがみ」とか、
「なまり」とかが切り捨てられて、
みんなの感覚が
「正しいのはこっち、間違ってるのはこっち」
と標準化される。
この中で「私」が消えるんだと思うんです。

再現不可能で、理解不能で、一度きりの、素晴らしい自分のはずなのに、「正しいのはこっち、間違ってるのはこっち」と社会のもつ方向性に標準化されることで「私」が消えてしまう。

僕らはどっちかといえば、勉強ができないよりはできる人になりたいし、仕事ができないよりはできる人になりたいし、お金がないよりはある人になりたいし、どれもダメでもなにかに取り柄がある人になりたい。

でも、その「私でない私」を追い続けることで、自分なりの感じ方や「なまり」「ゆがみ」「癖」を切り捨てて、生きるのが窮屈になってしまうことがある。

親鸞という人がすごいと思うのは、そのすべてがないような「サイテーな私」でも「救われる」と言ったことだ。

僕はこの記事でいう「親鸞ファン」の一人なのだけれど、みんなが苦行やらなんやらしている中で「南無阿弥陀仏、一発でよい」と言って、それを信じさせたのは、よほどパンクなことだったろうと思う。

そして、あまりにひどすぎて生きるのもやんなっちゃうくらいの世の中において、その簡単さが救いになったのもわかるような気がする。

そんなに難しいことしたくねーよ。もうしにてーよ。

そんな気分の人の救いになるのは「頑張る」ことではないからだ。

今日、お昼ご飯を食べているときに「多様性がなくなるということは、生命が生きていけなくなるということ」という話を聞いた。遺伝子にしても、生態系にしても、人間にしても、みんなが画一的におなじになってしまったら、その一つの遺伝子なり種なり人格なりがダメになったときに全滅してしまう。

こいつが死んでも、こいつが生きている。
それは互いが違っていないと、成立しないのだ。

だからこそ、あなたが生きている今日は、どんなに素晴らしいだろう、なのだ。

でもまあ、それでも「死んでしまう」側よりは「生き続ける」側に入りたいと思うのが、人間の欲ってもんだろうけれども。

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