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去り際に。

誰かとしゃべって、盛り上がって、「そろそろ……」というとき、席を立つのがヘタだなぁと自分について思う。

やや居すぎてしまったり、もうちょっといたかったなと思ったり。

それは相撲の立ち会いに似ている。
「いま」という刹那をとらえて立ち上がる点で。

あるいは音楽にも似ている。
第一楽章、第二楽章と続いて、やがて訪れる終止符まで続く語らいの中で、「いま」という終止符を逃して、さっき歌ったフレーズをもう一度歌ってしまったりする。リフレインのしつこいポップソングみたいに。

まあ、楽しければいいのだけれど、それでも「いま」という去り際をとらえて、サッと立ち上がれる潔い人にあこがれる。

去り際といえば、今日はアルバイトをしていた障がい児のデイサービスの最終日だった。

自分が担当する音楽の時間になって「今日が最後なんだ」と告げたものの、子どもたちの大半は意味がわかっていない。「いつ戻ってくるんですか?」なんて聞いてくれる子もいて微笑ましかった。

でも、戻ってはこないのだ。
ずっと見守りたいと思うくらい、かわいくて愛着のある子たちだったから、また会えたらと強く思うけれど、どう考えてもその機会はない。

最後の最後も、たぶん状況がよく分かっていないまま、挨拶ができる子は「お世話になりました」とか言ってくれて、あとの子は「じゃーねー」とか、いつものようにニコニコのまま別れた。

でも「最後なんだ」と言った後、明らかにみんな元気がなくなって、いつものようではなかったのを僕は知っている。

誰もそんなこと口にしなかったし、僕も言わなかったけど、あの時間、さびしかったね。そして、あのさびしさを分かち合ったときに、ちゃんと「さよなら」したのかもしれない。

「ゆかいなオトナになるんだよ」と僕はひとりひとりに言った。立派なんかじゃなくってよくて、でも、いまのまんまの、キラキラして、ゆかいな大人に。

自分で決めた別れだけれど、さびしい。
去り際のさびしさをこんなにモロに感じるのははじめてだな、と思いながら、いま、その職場からの帰りの電車に乗っている。

「いま」を逃さず、サッと立てたらどんなにいいか。
潔くない僕は、うまく手も触れないまま、やっぱりさびしい気持ちでいる。





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澤 祐典
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