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傷のありか。

奥さんとけんかになる時、「自分が自分でないみたいだ」と感じることがある。

感情に駆られて我を忘れているという側面もあるだろうが、どちらかというと奥さんに関わる何者かを演じさせられている感じがする。そうして奥さんの過去にあった、強く心に残っている出来事を再演するのだ。

再現の中で、僕は奥さんのお母さんになる。あるいは、かつての上司になる。時には奥さんが別の人で、僕が奥さんの役になることもある。

そうしてたどり着く場所は、奥さんの傷のありかだ。その人との関係の中で、どんなふうに傷ついてきたのか、なにが苦しかったのかが訴えられ、受け取られるとけんかを駆動させていた力が収まるような気がする。

このような経験を繰り返すうちに、傷がそのありかを伝えようとする力は、我々の自力をこえるのではないかと思うようになった。そのためだったら、なにを材料にしてでも出てこようとする。そんな執念に近い力を感じる。

時にその力は生活や人生を前に進めることさえ保留させる。「行きたいところに行くにはこんなことをしてる場合じゃないのに」と思いつつ付き合っていると、その傷について知ることがむしろ近道だったと気づかされる。人生の最短ルートは、自分たちが思うのとは違うところに設定されているらしい。

傷のありかを知ること。これは自分たちの思惑をこえて、とても優先順位が高い位置におかれている気がする。人生によって。その要請に逆らって進むこともできるけれど、かなりの力技になるだろう。

またその傷は、自分たちの生きている時間についたものとは限らない。時には先祖代々にわたって受け継がれてきたような傷も流れ込んできている。確かめようもないけれど、そうだと思えた瞬間、家系の先端の、梢にあたるところに子孫としての僕がいるという認識がぱっと生まれる。

そう、僕たちは思ったより他人とも過去ともずっとずっとつながっていて、絶えず交流している生き物なのだ。きっと「有ること」にすれば見えてくるけれど「無いもの」とすれば見えないというだけなんだろう。

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