音叉

共感、同情、共鳴。

昨日の話、

に続いて、これもこの間『listen.』で話したことなんだけど、「共感」というのには、二つの種類があるのではないかと考えている。

一つは話を聞きながら「それはつらかろうね」とか「それはうれしかったね」と相手の気持ちを想像して、同じ気持ちになろうとすること。これは他の言葉だと「同情」に近い。

もう一つは、相手の気持ちを想像しようという努力をしてないにもかかわらず、

(((ぽーん)))

と、からだの奥の方に寂しさや悲しみが響いてくること。これは一方の音叉を叩くと、もう一方が同じ音を出すような「共鳴」に感じられる。

「同情」は自力で相手に近づき、「共鳴」は否応なく起こる感じがする。
個人的には「共鳴」の方がゴールに着いた感覚がある。そこに至ると語りの運動が落ち着いて、それ以上語らなくてもいいような感じになる。

一方「同情」は自分を相手に対して「いい人」に見せたい時にも使われる。実は相手とは触れていないにもかかわらず、愛情深い人だと錯覚することもある。

「共鳴」はこちらが「なにか言おう」とか「これをしよう」と頭を働かせている時には起きにくい。むしろふっと力が抜けたとき、沈黙からじわ〜っと、時には瞬時に伝わってくる。

量子物理学では、離れたところにある物体が同時に変化する現象が観察されているらしいけれど、共鳴した時の「心」は似たようなものに感じられる。

『listen.』で行う未二観は、形式上こちらが口を挟む機会は、言葉を復唱する以外にはほとんど(基本的には全く)ない。

だから日常会話に比べて沈黙も多くなるし、その

(((ぽーん)))

という共鳴にも気づきやすくなるのかもしれない。

未二観を知り「聞くこと」を学びはじめた頃には、こんなことを感じるようになるとは思いもしなかった。

人と人とは思いもよらないところで連絡している。
「聞くこと」に向かっていくと、その秘密に触れられる気がする。面白い。

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