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スーパーにて。

近所のスーパー。
僕が並ぶレジの列では、前のおばちゃんが財布を探っている。

ずいぶん長くかかっているので、店員さんは無表情で「どうぞ」と言って、僕の商品の精算をはじめる。いいのかなと思いつつ、会計を済ませる。

僕の会計が終わっても、おばちゃんはまだ財布の中をまさぐっている。そして、店員さんになにか話しかけている。「いい天気だねえ」とかそんなふうに聞こえるが、発音は明瞭でない。店員さんはその声を無視して、次の人、次の人と精算を進めていく。

そのうち、おばちゃんは「たばこが欲しい」と言い出した。店員さんは無表情のまま、声を無視する。

「私とそれの関係」

と、その様子を見て僕は思った。

 対話について重要な概念を提示した、哲学者のマルティン・ブーバーは、人間同士の関係性を大きく二つに分類しました。
 ひとつは「私とそれ」の関係性であり、もうひとつは「私とあなた」の関係性です。
 「私とそれ」は人間でありながら、向き合う相手を自分の「道具」のように捉える関係性のことです。
(宇田川元一『他者と働く〜「わかりあえなさ」から始める組織論』P.20)

「たばこが欲しい」というおばちゃんの表情や雰囲気は、その向こうに昔ながらの商店を思い起こさせた。のんびりしていて、客も多くなく、お客さん一人ひとりの顔も名前も知っていて、雑談を交わしながら日用品を売るような田舎のちいさなお店。

でも、ここは大型スーパーで、レジを打っているのは機械的な店員さんだった。店員さんは「列に人が並んでいるからさっさと精算しなければならない」と思っていたのかもしれない。そのとき「たばこが欲しい」というおばちゃんの動きは流れを妨げる邪魔でしかない。

でも、あの無視はさみしかったよなぁ。

もしかしたら、おばちゃんが欲しかったのは、たばこではなく、「私とあなた」の関係だったのかもしれない。

 「私とあなた」の関係とは、相手の存在が代わりが利かないものであり、もう少し平たく言うと、相手が私であったかもしれない、と思えるような関係のことです。(同書 P.21)

私を「それ」として見ないで。私の前で道具にならないで。
そういう「私とあなた」の関係を求めるおばちゃんの親しげな声かけは、道具に徹する店員さんにとって「馴れ馴れしい」と映ったのかもしれない。

先の本では「私とそれ」の関係について、こう解説している。

 ビジネスにおいて、このような関係はよくあることです。友達ではなく、仕事の関係なのですから、私情は抜きにして、立場や役割によって「道具」的に振る舞うことを要求する。人間性とは別のところで道具としての効率性を重視した関係を築くことで、スムーズな会社の運営や仕事の連携ができます。
 逆に期待していた機能や役割がこなせなければ、信用をなくしたり、配置換えにあったり、解雇されたりします。これ自体は悪いことではありません。そのように私たちは社会を営んできました。(同書 P.21)

実際、僕らは多くの仕事において、会社や社会の目的のための「道具」に変身する。そうして自分を消すことで役割や機能を果たし、報酬としてお金を受け取っている。

だから、店員さんが私情をはさまず、役割を優先して精算を進めたのは悪いことではない。空気を読まなかったのは、おばちゃんの方だったろう。

でも、あの無視はさびしかったなぁ。
ぴしゃっ、と存在が切り離された感じが、僕の中に残っている。

それはまるで「人が人でいられる場所」が絶滅していく光景に見えた。

昨日、このブログで

父は、フロムの言う「もらうために与えるのではない。与えること自体がこのうえない喜びなのだ」を知っているのではないか。

だから、今になっても「働きたい」というのではないか。

と書いた。

この父の「働く」と店員さんの「働く」は、質の違うものなのだと思う。

そして「与えること自体がこのうえない喜び」という働き方は「私とあなた」という関係性の上にしか成立しない気がする。

スーパーのおばちゃんに限らず、その個性的なふるまいゆえに、人(社会)から距離をおかれてしまう人を見かけることは少なくない。

そういう人たちが目に入ってしまうのは、なんらかの意味があるのかしら。

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